二千二百四十五(うた)President「この世は私のものだ」(以下略)の記事は変だ
甲辰(西洋未開人歴2024)年
二月十九日(月)
Presidentのホームページに
「この世は私のものだ」という歌ではなかった…藤原道長が「我が世の望月」という言葉に込めた2つの意味

が載った。道長の
此の世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたる事も無しと思へば

の「我が世」は、「私の満足する世」であって「私のものだ」なんて解釈は、もともとあり得ない。この見出しは変なので、記事を読んでみた。
「この世をば我が世とぞ思ふ」は、「この世は私のものだ」の意味ではない。道長は(中略)勅撰和歌集に自詠が四十三首も採られている歌人である。どんなに酔っていても、和歌でそうした乱暴な言葉遣いはしない。
定石通り「世」は「夜」を掛けたものだし、「我が世」は「我が世の春」のような人生最高の時を言うと解釈するのが正しい。

そのとほりである。ここまで来るのに6頁中の5頁まで費やしたのは、娘を入内させる経緯などが長かったためだ。当たり前の事を当たり前に書いたのに、この見出しは酷い。著者は京都先端科学大学人文学部教授山本淳子とある。昨日の発信である。
インターネットで調べると、読売新聞のホームページに2021年7月13日付けで
この世をば…藤原道長の「望月の歌」新解釈から見える政権の試練とは

があった。読売新聞の社内の人が書いたもので
「この世で自分の思うようにならないものはない。満月に欠けるもののないように、すべてが満足にそろっている」――この時点で3人の娘を次々に天皇や皇太子の后とした道長が、得意満面に詠んだ歌とされてきた。だが、京都先端科学大学教授の山本淳子さんは、これまでとは異なる「望月の歌」の新解釈を発表した。

この記事も、歌の解釈に問題はない。どうやら同じ発表を二年半の時を隔てて、別々に引用したらしい。当の山本さんの解釈は読売新聞によると
この時代の和歌で「このよ」は、「この世」と「この夜」をかける 掛詞かけことば として使われている例が多い。それに続く「我が世」は、天皇や皇太子以外が「わが支配の世」の意味で使う例は他にない。一方、同時代の歴史物語『大鏡』には、「心のままに、今日はわが世よ」(心のままに過ぎる私の楽しい時間)という表現がある。山本さんは、「この世をば 我が世とぞ思ふ」は「今夜のこの世を 私は心ゆくものと思う」と解すべきではないかと考えた。つまり、「この世はすべて自分のものだ」という上の句は、「今夜は本当にいい夜だなあ」くらいの意味になる。

読売新聞の見出しなら問題は無いが、Presidentの見出しはもともと「この世は私のものだ」と解釈する人がゐないのに変だ。読売新聞を読み進むと
下の句の「月」に込められた意味は何か。山本さんは「后」の隠喩と解釈する。(中略)道長が事実上のパトロンになっていた紫式部(生没年不詳)の『源氏物語』にも天皇を「日」、皇后を「月」に例える表現が出てくる。
さらに、(中略)「望月」の「つき」に「盃」の「つき」が掛けられているからだ、と山本さんは見る。

つまり、「この世」と「この夜」、「月」と「后」「盃」の話である。Presidentの見出しは、山本さん主張とはまったく異なり捏造と言ってよいほどだ。
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今回Presidentを取り上げたのは、Presidentホームページは良い記事が稀にある一方で、反中拝米が目立つやうになった。昔からなのかは不明だが、小生が気付いたのは最近だ。反中拝米が目立たないやう他の内容で薄める必要があり、それでこの記事が出来たのではないかと思ふ。
同社のホームページを見ると
1963年4月、日本で初めて海外提携誌(米国TIME Inc.発行『フォーチュン』誌)として月刊誌でスタート。

とあるから、当然ではあるが。
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