二千百八十(和語のうた、普通のうた)良寛所縁の地蔵堂(旧分水町、現燕市)
壬寅(西洋野蛮歴2023)年
十二月四日(月)
分水町は、地蔵堂町、国上村その他が合併して昭和二十九(1954)年に誕生した。越後線の地蔵堂駅は、昭和五十八年に分水駅と改称された。
だから良寛所縁(ゆかり)の地は、出雲崎、寺泊、国上、地蔵堂、与板、和島と、国上と地蔵堂を分けることもあるし、まとめて分水と云ふこともある。国上は前に行ったので、今回は地蔵堂へ行った。
地蔵堂 街中に立つ歌の碑も 賑はひ戻る事は無く 街の中には空き家無く 寂れた街に非ざるも 店は少なく人も少なし

反歌  地蔵堂国上合はせて分水に今は燕市だが街静か
地蔵堂訪問の目的は、良寛所縁より地蔵堂の街並みを見たかった。前回国上を訪問し分水良寛史料館にも寄ったときに、地蔵堂の街中を少し歩いた。落ち着いたよい街だし、良寛の歌碑が宝くじの援助で町おこしとある。前回は歌碑を見なかった。
結果は、歌碑の集合効果が無い。つまり個々に歌碑があるだけで、歌碑群の相乗効果が無い。街には商店がほとんど無い。良く言へば落ち着いた住宅街、悪く言へば産業の無い街だ。とは云へ、空き家がほとんど見あたらないのは立派だ。越後線は、柏崎から分水迄乗ったが、途中は乗降客が居ないか、一人か二人だ。しかし分水は五人程度だから、吉田から先を除けば多いほうだ。
越後線 列車本数僅かにて 往き柏崎大回り 帰り吉田で乗り換へて燕三条五十分待つ

反歌  大宮へ帰りの列車予想外高崎からは満席となる
往路は柏崎経由で大回り、帰りは燕三条で長時間待つ。良寛の里巡りで何回も来たので、おなじみの出来事だ。
長岡は駅に店あり 買ひ物や食事も出来て楽しくも 燕三条何も無く二階一階駅前同じ

反歌  三条と燕の間停車場(ば)を作るも列車一時間ごと
長岡で弁当を買ひ越後線の車内で食べたが、満腹にならない。そこで
長岡で弁当及び酒を買ひ 地蔵堂にてパン二つ 別の酒屋で四合瓶これは家にて四日間掛け

反歌  長岡は駅の中にて分水は街の中にて少し手助け

十二月八日(金)
歌碑の集合効果について説明すると、等間隔なら集合効果があるが、本町通りは不定形だった。今から移動は出来ないので、歌碑周辺の商店で五百円以上購入するとスタンプを押し、三ヶ所溜まったら五十円分(これなら3%なので商店街で負担できる)の商品券。
次に、良寛筆の裏側は、現代人による筆だが「〇〇かく」が調和しない。「かく」を目立たないやうにしたらどうか。良寛の歌碑について、良寛の生涯と照らし合はせて、いつ頃の歌なのかを明示する方法もある。見落としたのかも知れないが、歌一覧が無い。ここにもいつ頃かを載せるとよい。
地蔵堂地区は、願王閣に良寛の弟子遍澄が閣主として務めたが、その説明が無い。旧分水町は、国上地区があまりに偉大なので、それだけで良寛所縁を名乗ってきたと思はれる。しかし燕市に合併した今となっては、地区独自の発信が必要だ。
燕市の郊外住宅地として、空き家が出ることなくやってこれたが、商店は寂れた。これからは貞心尼と並ぶ良寛の弟子として遍澄を売り出すとよい。遍澄単独だと弱い。地蔵堂とは縁が無くても、遍澄と同格として貞心尼も並べることが必要だ。
分水駅には、少し前までみどりの窓口があり、売店もあった。待合室にはエアコンもあるのに、売店撤退のあと電源を切った状態になった。或いは燕市と合併したことにより、国上山入口だった分水駅が大きく格下げになったのではないか。

 

待合室の、エアコンとキオスクのブレーカー(今は冷暖房無し)

 

キオスクの電力計と、待合室の外国人観光客向けに日本政府のポスター

 

前に分水駅を紹介したときに、手小荷物扱ひ窓口跡の写真と、貨物扱ひ線の写真も、載せたつもりでゐた。今回見ると載せなかったし、そもそも写真が無いのでスマホで撮らなかったやうだ。載せたつもりで、貨物扱ひ線で高くなった部分の写真を撮った。砂利を積み込む為だと思ふ。(終)
(12.13追記)つひに写真を発見した。分水ではなく小島谷だった。

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