二千百六十八1.(和語優勢のうた)を使ひ初めて、(普通のうた)2.最新の歌論
壬寅(西洋野蛮歴2023)年
十一月十九日(日)
(第一部)
赤彦全集第一巻を読み、和語がほとんどの事に気付いた。そして小生も(和語優勢のうた)を試すことにした。最初は、ほとんどを和語にすると窮屈に感じた。しかし慣れてくると、自由に作れる。これからは、すべての歌を和語優勢で作ることにした。たまには和語のみを作るかも知れない。
ほとんどを大和言葉で作る歌 心地がよくてこれからも続けることに 今まではなぜ気付かぬか文殊に欠ける

反歌  ねの数をまづ考へてときどきは大和言葉の故に気付かず
文殊に欠けるとは、小生は結社や同人誌に所属しないので、三人に欠けた。
(第二部)
現在、赤彦全集第三巻を読み、全心の集中と云ふ表現に出会ひ、これで子規一門の歌を鑑賞できると一旦は喜んだ。しかし、この歌は集中してゐると判っても、それで美しさを感じるだらうか。それがあるため、赤彦歌論を詠んだときに「喜ぶものの迷ひも残る」と作った。
まづ小生自身は、歌を前提無しに鑑賞し美しいと感じる歌が美しい。全心に集中が優れた歌は、さう云ふ基準で優れるのであって、前提無しに鑑賞した事にならない。そればかりか、さう云ふ歌が美しいとは限らない。

十一月二十日(月)
(第二部)
歌には二つ美しさが必要で、定型で一つ目、物語性は二つ目の美しさになると前に書いた。二つ目はほかにも、美しい風景、美しい調べ、工夫の美などがある。この二つ目を統合すると、実効の美と云ふことができる。
文章には、存在意義が必要だ。これを実効の美と名付けた。物語性や、美しい風景や、美しい調べには、実効の美がある。
実効の文持つものは美しさ 風景の美や調べの美これらと並ぶ二つ目の美に

反歌   連作や日記にもある美しさ物語性これも実効
(第一部)
昨日は、第一部のあと第二部が続き、本日以降は第二部のみにする予定だった。ところが第二部の歌が、和語優勢にならない。よもやの第一部復活となった。
理論を文にすると、漢語が必要だ。それに気付いた。

十一月二十一日(火)
(第二部)
子規一門で、直の心、全心の集中など主張する。それに対し、小生は素朴な心を提唱したい。子規一門とほとんど同じだが、子規一門は感情を込める意味合ひが強く、小生は冷静の意味が強い。
それに対し、古今集以降は、素朴ではないものが多い。貴族が、歌で天皇や上層部に気に入られようとするためだ。だから、さう云ふ気持ちが入らないものは、古今集でも美しい。子規一門との相違は、この辺りにあるか。(終)

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