千七百五十(和語の歌) 「近代の歌人1」を読んで
壬寅(西洋野蛮歴2022)年
五月二十一日(土)
桜楓社の和歌文学講座8「近代の歌人1」を全部ではないが読んだ。十三人の歌人について、研究者が得意分野から論じた。つまり論文集である。一番目は橘曙覧。歌人であり国学者でもあり、福井藩主松平春嶽は
或年に尚平といふ和歌よみ福井へ参りたりけり。福井人のよみ歌を見て、是は二条家とか冷泉家とやらにて、真の歌にあらず。真の歌といふは、古今集を先よむがよろし。万葉集が真の歌也。これを古体といふ。(中略)橘曙覧等も(中江)雪江の奨励にりて古学をなす。

万葉に帰ることを主張した人は、子規の前にもゐた。だが曙覧の歌は俗過ぎる。
万葉(よろづは)の歌に返るを歌詠みが殿様に説き殿様も説く


五月二十三日(月)
大隈言道と大田垣蓮月を飛ばし、四人目の落合直文こそ図書館の検索でこの本を借りた理由だった。ところがこの章の著者は紹介するのも憚られる見出しを二つ付け、後半も「伊達家の門閥にて、(以下略)」とどうでもよいことを連ねる。直文は通過することにした。
五人目の佐佐木信綱、六人目の窪田空穂は、歌感が異なるので通過。七人目の
歌人若山牧水は、自然主義に属しているとされるのが不通であるが、かれ自身は自然主義を大きくふりかざしたり、主義者をもって任じたりはしていない。

これは当然である。欧州の流行を日本に持ち込んでも、当てはまらない。そして
万葉調派に対しても新詩社派に対しても、強い対抗意識はなく(以下略)

万葉調派とは根岸派のことだらうか。子規、左千夫の時代までは万葉調派だったが、茂吉以降は異なる。「白鳥は悲しからずや(以下略)」と「幾山河(以下略)」について
この二首など(中略)二三歳当時の、まったく初期のものである(以下略)

このあと酒の話が続く。最後は酒に体が飲まれたが、精神が飲まれなかったのは良かった。
白鳥は哀しからずや詠み人が酒に飲まれて命を落とす


八人目の太田水穂の章は、歌の解説が丁寧なのでじっくりと味はふことができた。なるほどここがこの歌の優れたところなのか、と。ところが読み終はって何も残らなかった。私と水穂は歌感が異なるのか。
本文を引用すれば
西洋浪漫派の影響を強くうけた明星派の歌、ついでおこった自然派の歌、(中略)人生主義の白樺一派の運動の起こりつつあった頃で(以下略)。

私は自然派なのかな。今まで自覚したことはなかった。もう一度、水穂の章を読み直し三首選んだ。
さみしさに背戸のゆふべをいでて見つ河楊(やぎ)白き秋風の村
このゆふべ外(と)山をわたる秋風に椎もくぬぎも音たてにけり
この朝の空の曇りになみなみと岸をひたせる大河の水

美しさ思ふところは異なるも美しき歌三つ見つける


五月二十四日(火)
九人目の長塚節は、この本で一番最初に読んだ。
伊藤左千夫、森田義郎によって創刊された「馬酔木」(中略)のあと二月に「茜」が三井甲之を編集兼発行者として創刊された。(中略)左千夫は五号以後完全に名を見せず、節は第六号に短歌を見せるが、以後姿を見せず(中略)甲之に対する反感が結集されて「アララギ」の創刊となった。

こののち節は歌を休止し、写生文、小説に注力する。そして万葉集の学習にも注力し
万葉の歌は主観的である。(以下略)」(中略)の見解は、以後の節の歌風を開花せしめてゆく強い契機となったのであり、左千夫と相対立する短歌観ともなったのである。

ここで左千夫と対立するのは短歌観であり、人間関係ではない。節が左千夫と仲違ひしたと云ふやうな話は、この本には一切ない。そもそも以上の話は二六、七歳の話だから、このあと「馬酔木」「アララギ」へと続く。
大正二年夏伊藤左千夫逝去。この頃から発熱、(中略)手術、(以下略)


十人目の中村憲吉の章は、本日読んだ。明治四十一年に
「日本新聞」の左千夫選歌、課題「竹」に応募して五首採用された。(中略)四二年、上京して左千夫を訪ねて入門(以下略)

学生だった憲吉は
処女歌集『馬鈴薯の花』は、大正二年七月、赤彦と合著で上梓した。翌三年四月、赤彦の上京にともない、アララギ発行所をその下宿先に移して(中略)赤彦・茂吉・千樫らと力をあわせて、編集に従うようになる。

憲吉の大学卒業は大正四年である。帰郷して結婚、再び上京するが職がなく、郷里から促されて再び帰郷。
村の旧家の若旦那として、余所目には資産に恵まれ、生活上なんの不自由も感じるものではなかった。

しかし大正九年に
「今の若さのうちに、もう一度繁劇な広い社会に出て働いて」(『しがらみ』編集雑記)(中略)大阪郊外に居を定める。

六年後、家督相続を機に再び帰郷し、その五年後に発病、三年後に帰らぬ人となった。

十一人目の金子薫園は明治九年生まれで
同門でありながら後に歌風で対立した与謝野寛より三年後、(中略)同年の生れに尾上紫舟、太田水穂、島木赤彦等がある。

十八歳の時に
落合直文を駒込浅嘉町の「朝香社」訪ね、入門を許された。

歌で私が気に入ったものは前に紹介したので割愛した。「あけがたのそゞろありきに」を途中まで入力して気付いた。

五月二十五日(水)
釈迢空を飛ばして最後の章、古泉千樫に入った。千樫は十六歳で「心の花」に古泉幾太郎の本名で投稿してゐる。選歌は佐佐木信綱で、ここに載った六首のうち
水清き池なりながら藻のおひて鮒は潜めり青淵の中に(四巻四号)
松杉の茂りて凄き古宮の黒木の鳥居苔むしにけり(四巻九号)

六首のうち二首だから、この章の著者と私は歌感が近いのかも知れない。さて
「心の花」の三巻四巻は、編集委員に香取秀真、岡麓、森田義郎らがおり、万葉崇拝の伊藤左千夫、長塚節らが歌論や短歌を発表し、まさに根岸短歌会の機関誌といっても不思議でないような編集がなされていた。

そして
安川文時も「嗚呼古泉千樫君」の追悼文の中で、千樫が『万葉集』を愛読し、子規、左千夫に私淑していたことが記されている。

「アララギ」について
休刊・遅刊があいついだため、茂吉はついに千樫を編集から退け、島木赤彦を登場させた。(中略)後に千樫は、島木赤彦ともうまくゆかず、こういった性格が「アララギ」を去る原因の一つにもなったのである。

分裂はすべて左千夫が悪いみたいな主張が近年出てきたが、この本の出版された昭和五十九年はまったく異なることが分かる。
伊藤左千夫が急逝した。師を失なった茂吉、赤彦、千樫、憲吉らは、互に作歌にふるいたち(中略)その中で先輩の長塚節が左千夫亡きあとの指導的立場にあった。「アララギ」大正三年四月号に節は「千樫に与ふ」を書き茂吉追従に対して警告を与えている。
(前略)今アララギには斎藤君の模倣が充満して居て殆ど鼻持もならぬ。しんしんといふ言葉でも実に驚くほど多く使用されて居る。(中略)しんしん号と改めてもいい位です。

そののち千樫は
この船の若き事務長と朝の卓(たく)ともに囲みて珈琲を飲む
体中(たいぢゅう)にしとど汗ばみこころよく空気のかわく街をわが行く
(二首略)
千樫の体臭や生活がにじみでてくる歌であって、土屋文明がいうように「アララギ」に千樫の開いた新しい世界の歌である。

私の考へる歌の美しさと逆の方角に、茂吉、千樫、文明は向かふやうだ。或いは、子規や左千夫の歌で佳いと思ふのは5%だから、元々の歌感が異なるものが更に拡大したのかも知れない。
「アララギ」は赤彦の体制下に強化され、千樫は疎くなっていった。(中略)大正十三年四月「日光」が創刊された。主たる同人は北原白秋、土岐善麿、前田夕暮、(中略)「アララギ」出身者は、千樫の他に(石原)純、迢空らであった。


五月二十六日(木)
飛ばした歌人のうち、三人目の大田垣蓮月を読んだ。生まれてまもなく養女となったのは、知恩院の寺侍、太田垣家だった。後に跡取りが亡くなり、養子を迎へて縁組したものの死別。失意のうちに父ともども出家した。蓮月尼の誕生である。
色も香も思ひ捨てたる墨染の袖だらそむる今日のもみぢ葉
とはこの時の彼女の悲痛な詠である。

父の亡くなった後は知恩院から与へられた寺を出て、引っ越しを繰り返した。
我住居をあまたたび移しけるを、人の笑ひければ、
浮雲のここにかしこにたゞよふも消えせぬほどのすさびなりけり

このころ
香川景樹の門に入って(中略)尼の名歌と言われているものの多くは桂園調であり(以下略)

十四年後の六十一歳のとき、蘆庵の影響を受けたことについて
桂園調の絢爛華麗さがうとましくなり、この調の発生以前のものたる「直言(ただごと)歌」(中略)の簡素さにさか上って行った(以下略)

と章の著者は推定する。著者はもう一つ
桂園調は蘆庵のただごと歌から展開した

と推定する。さて、蓮月への非難もあって
明治の短歌革新による西洋流リアリズム理論からする非難、したがってその主軸をなすものは正岡子規に端を発するアララギ一派のそれを指す(以下略)

子規や左千夫の歌で佳いと思ふものが5%なのはこれが原因であった。桂園調は悪くても、それまでの歌がすべて悪いわけではない。そのことを子規一門は誤解した。
このあと二十六首の歌が紹介されてゐるが、佳き歌は二十三首。なぜ子規一門に限らず、他の流派でも佳い歌の比率が極めて低いのか、やっと理由が分かった。とは云へ、次の段落では
尼の歌にも後世から見れば、(中略)長所もあれば短所もあり、また個性的なものに基づく欠陥もなくはない。

前者は桂園調であり、後者は
尼の好みだったらしい縁語・掛詞や、度を越した平坦味が(中略)「たゞごと歌」の平板

だと云ふ。(終)

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