千八百八十七(うた) 1.序詞特集(万葉集講座第三巻より)、2.第四巻以降を読んで
壬寅(西洋野蛮歴2022)年
第一部
十一月二十八日(月)
書籍で序詞の解説を読むと、枕詞の長くなったもので独自に作ると云ふ解説が普通だ。普通どころか、さう云ふ解説しかない。しかし小生が見たところ、次の種類があると思ふ。
一、序詞と本文と、両方を云ひたい場合
二、相聞はあまりはっきりと云へないので、序詞で覆ったもの
三、序詞を云ひたくて、本文は文を終了させるだけのもの
そして最後に、多くの書籍が書くやうに
四、口調を整へながら、或る単語を出すためのもの(いはゆる枕詞の二句以上のもの)
万葉集講座第三巻の土橋寛さん執筆「万葉集の序詞」は、序詞が枕詞の長いものではないと云ふ点で、小生の考へと類似するので、ここで紹介をしたい。まづ、巻十一、十二は相聞歌を集め、それを三つに分けてある。そのうちの寄物陳思は
「心」を「物」に寄せて表現したもの、「比喩」は寄物陳思と似ているが、「心」が表面に現われない隠喩的なもの(以下略)

そして
序詞は右の「寄物陳思」の中に包含され、かつその大部分を占めている。ということは、万葉の編者は序詞を、「心」の表現形式として理解していたことを示すものであり、「古の人多く本に歌枕を置きて、末に思ふ心を表す」(新撰髄脳)、「昔の歌は一首のうちにも序のあるやうに詠みなして、をはりにその事と聞ゆるなり」(八雲口伝)という平安朝の歌学者の理解のし方も同様である。つまり今日の通説のように、後に来る語を引出すための修辞法とは理解していない(以下略)

ほとんど土橋さんに賛成だが、だいだい色の部分は、賛成ではない。寄物陳思に序詞が多い。しかし序詞のすべてが寄物陳思ではない。
土橋さんは、比喩的同音反復、同音異義的同音反復、比喩的掛詞、同音異義的掛詞の例を挙げたあとで
今日一般に序詞と認められているものの中には、次のように体言にかかるものがある。(中略)
(ト)暮れに会ひて朝面無み」名張にか日長き妹が庵せりけむ(巻一、六〇)
(チ)大夫の得物矢手挟み立ち向かひ射る」的形は見るに清けし(同、六一)

序詞に「」を付けて(最初の句からのときは"「"を省略)、序詞の「物」にA、本文の心にB、CはAとBを繋ぐ語だが、この二つはA、B、C型とは異質で、巻十一、十二の寄物陳思歌には、この型は無いと云ふ。そしてこれが、後に来る語を呼び起こすものだと云ふ。
小生は、土橋説に賛成ではない。寄物陳思は確かにA、Bがあり、序詞を使へばCも揃ふ。しかし相聞以外では、寄物陳や寄陳思がある。
次に土橋さんは
もう一つ注意すべきことは、序詞の素材である。(中略)家持が池主への挨拶の歌に「船」を序詞に取上げたのは、それが嘱目の景物だからであって、けっして「間なく」を云うためではない。(中略)このように即境的景物を素材とする序詞は、心緒の表現形式ではなく、むしろ歌作上の約束、ないし発想法である。(中略)序詞の形でもよく、物そのものを叙してもよい。

これは賛成。
歌が生活の場を離れて独立すると共に、(中略)序詞の本質は、即境的発想法から抒情的修辞法へと変化を遂げたのである。


十一月二十九日(火)
次に土橋さんは記紀の序詞を取り上げ、結論の
序詞の起源が歌謡としての短歌の起源と一つになっていることを知ることができる。短歌は、旋頭歌と共に、元来上の句と下の句とによって構成された二部構造の歌謡の詞形であり、上の句で即境的景物を提示し(問い)、下の句でそれをあるいは寿祝の気持ちで説明し、あるいは恋の気持ちで、あるいは機知的に説明する(答え)ものであった。このような集団的な場の掛合歌としての構造は、短歌が独唱歌、創作歌へと変質してゆく過程の中で(中略)変わってゆくのであるが、序詞も問答歌に起源して、即境的発想法へ、さらに心情の表現形式または修辞方へと、三つの段階を通って来たものと思われるのである。

そして
万葉時代に入ると、一面では初めからの即境性を継承して即境的発想法としての性格を保ちながら、他面では(中略)個人の特殊な心的経験を歌う抒情詩に変質して行くのに伴ない、序詞も作者個人の心情に即した素材を取上げることによって、特殊な具象性を与える表現技術ないし修辞法に変わってゆく。

序詞の欠点は
類型的という弱点を免れることができない。(中略)そのために(中略)枕詞との区別もつかず(以下略)

序詞が効果を発揮するのは、東歌だといふ。
生産生活を持たない中央貴族の歌の序詞が観念的、類型的に堕し、あまり表現効果を発揮しえないのと対蹠的である。

序詞はほかのアジアの国々も見られる手法飛鳥の世でも
(終)

第二部

十二月一日(木)
森本治吉さんの「記紀歌謡から万葉集へ」は
「万葉記」と言っても、藤原京の高市黒人の写実歌が出現するに至って、記紀歌的なものは、ほぼ絶滅したと言える。したがって、記紀歌の特色を(中略)摂取したり、逆にそれを排斥したというのも、藤原京の人麻呂までであった。

記紀の歌の特徴に、装飾の部分が多いことがあり
甚しくなると、短歌形や片歌形では、本意を表面に現わさず、比喩だけで一首を作ってしまう。すると、一首全体が暗喩歌になり意味はますます分りにくくなる。

小沢正夫さんの「万葉歌風の展開[Ⅳ]」では、瀬古確さんの表を引用しこれは
家持笠女郎虫麻呂金村赤人坂上郎女旅人憶良人麻呂作者/枕詞
六四二四二二一〇二八三二八一総数
1.013.042.402.751.252.250.811.214.00比率
(虫麻呂と金村は「歌集を含む」とあり、比率は漢数字)
これらについて
人麻呂の歌は歌は非常に技巧的であり、左千夫の言を借りれば「主調子即ち形式派」ということになる(以下略)

そして
左千夫は第三期の歌に枕詞が少ないことを明瞭に指摘している(中略)赤人を人麻呂にみられなかった写実の新生面を開いた歌人として、憶良よりもいっそう高く評価している。左千夫は憶良の歌を未完成なものと考えているようであるが、一世代新らしい家持たちに継承されるものは憶良の方にかえって多かったともいえよう。

清水克彦さんの「長歌」では
長歌体は、初期万葉の時代にいち早く成立したが(中略)次代の柿本人麻呂にいたって、その典型的な形式が創造される。
玉たすき 畝傍の山の (中略) ももしきの 大宮処 見れば悲しも
(中略)この歌には一首の途中に切れ目がまったく存在しない(中略)この一首のただ一つの述部は、結句の、「ももしきの 大宮処 見れば悲しも」である。

岡部政祐さんの「短歌」では
「和歌」(括弧内略)ということばを万葉集で調べると、(中略)いずれも「こたふる歌」(唱和する歌)の意味である(これに対して「倭歌」ということばが一箇所だけ使われており、これは「やまとうた」の意である)。(中略)「和歌」が「やまとうた」の意味になるのは古今和歌集以後のことである。

歌またはやまと歌こそ万葉の世の呼び名にて和歌とは古今

第二部の「第四巻以降を読んで」は、当初千八百八十九だったが、第四巻で終了したので千八百八十七に合同させた。(終)

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