千七百六十六(和語のうた) 「和歌文学講座」続編
壬寅(西洋野蛮歴2022)年
六月十八日(土)
前回に続き「和歌文学講座」を読んだ。まづは「7 中世・近世の歌人」だ。西行、定家、実朝、宗良親王、良寛、景樹など十人が登場する。最初に良寛を読み
良寛は人間と芸術とが一体となった(中略)人生歌人の代表と言える。

同感である。紹介された歌はどれも美しい。歌集で読むと、幾つも続くので感覚が麻痺して美しさが分からない。一つは書で美しさを出し、明治以降では人生歌人として美しさを鑑賞できるやうになった。
次に香川景樹。この人も改革派だと初めて知った。とは云へ、この人の歌を紹介しようとは思はない。良寛の云った、歌詠みの歌で、美辞麗句の羅列だ。
実朝の歌は、九割が王朝風(古今、新古今)で万葉風は少ない。これは貴重な情報だ。

六月二十日(月)
次は「11 秀歌鑑賞Ⅱ」を読んだ。歌愛好者による歌人の好き嫌ひは選歌に依る。そのことを痛感させられる書籍だった。吉野秀雄は最初に読んだときは、嫌ひな歌人だった。師匠の會津八一となぜこんなに異なるのかと、驚いた。別の書籍では、秀雄に優れた歌が多いので、再度驚いた。
そして今回は「小夜(さよ)なかば溲瓶(しゅびん)にはするわが尿の(以下略)」「病気ならず自殺にもにもあらず悶え死にし小原保の(以下略)」と変な選歌をするので、また秀雄が嫌ひになりさうだが今回は私が進化して、選歌した人を嫌ひになった。

今回は大隈言道(おおくまことみち)と云ふ江戸時代末期の歌人を発見した。
答する声おもしろみ 山びこを かぎりもなしに呼ぶ童かな

これは選歌した三首のなかの一つだ。
世に出ずに知られぬ人の佳き歌をみつけ楽しく世の為になる


六月二十二日(水)
「9 近代の歌人Ⅱ」は柴舟、啄木、白秋など十三人が載るものの、子規、左千夫、赤彦を読むに留まった。茂吉は最初を少し読むに留まった。左千夫を悪く書く傾向は、すでに始まった。この本は昭和五十九年の出版だ。そんななかで印象に残ったのは、赤彦の章で土屋文明が
「世間的常識の点では一人前の人間はほとんど見あたらなかった当時のアララギ同人のの中では、赤彦はたしかにどこへ出しても通る常識人であった」

アララギ同人はそれほど非常識人の集まりだったのか、と驚愕する。そして同時に図らずも、悪いことは左千夫のせいにすることが間違ひだと分かってしまった。

六月二十四日(金)
「12 和歌研究史」では、子規が
まだ因襲に捉われない自由な精神と、「有の儘に写す」短歌造型の原形を『万葉集』の中に発見したのである。(中略)そこにはまだ国民的分裂を知らぬ国民的分裂を知らぬ明治人子規の素朴で健康な進歩性が貫いており(以下略)

左千夫は
時代の苦悶のようやく深刻化する現実の中で、(中略)『万葉集』の自然素朴な生命に共鳴したのであって(中略)まだ近代の毒に染まぬ素朴な生活人として(中略)近代的な頽廃の深まりゆく時代の状況の中で抒情詩の本質に対する鋭い洞察にみちた万葉主義の歌論を達成したのである。

それに対し
すでに国民としての意識に自己分裂を感じて(中略)生長した赤彦や茂吉の主体は、もはや明治人のそれではあり得なかった。

これは同感。
赤彦に比すれば、茂吉の短歌に対する態度は(中略)左千夫の「叫び」により近いものと言ってよい。

私は、赤彦のほうが茂吉より左千夫に近いとする立場だから、この章の著者大久保正さんと少し異なる。
しかし、茂吉には左千夫には欠けていた西洋がその生の深処に浸みわたって、近代の感覚や官能が滲み出している。

なるほど、これが原因で左千夫と違ふと云ふのなら同感だ。しかし西洋は左千夫に欠けてゐたのではなく、茂吉が西洋と云ふ余分なものを持ってしまった。カンボジアのポルポトはフランス留学組だが、大虐殺は国民が西洋に欠けたため起きたのではなく、ポルポトが西洋と云ふ余分なものを持ったため起きた。茂吉は精神医学で留学したのだから、そのときの体験を歌に流用してはいけなかった。
よろづはの世を生き抜いた人たちを見習ひ作れあららぎの歌
(終)

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