千七百九(和語の歌) 五人(信綱、薫園、柴舟、牧水、秀雄)の歌を読んで
壬寅(西洋野蛮歴2022)年
三月二十一日(月)
筑摩書房の「明治文学全集63」で太田水穂の歌を読んだ後に、佐佐木信綱、金子薫園、尾上柴舟、若山牧水の歌も読んでみた。窪田空穂を除いたのは、前に別の書籍で読み特集を組んだ。
信綱、薫園、牧水を読むと、最初は「信綱こそ私の探した調べだ」「薫園こそ私の探した調べだ」 「牧水こそ私の探した調べだ」と一旦喜ぶ。しかし読み進むうちに、違ふことに気づく。私にとり、子規や左千夫より、信綱、薫園、牧水は遠い。柴舟は最初から遠かった。
その理由として、年を経るに連れて時代が変はり、美しい表現が少なくなるためではないか。そして、明星派の影響が強くなるためかも知れない。感情過多は美しくない。

三月二十二日(火)
四人の次は「吉野秀雄全集 第一巻」(筑摩書房)を借りた。子規や左千夫の場合、一回目に見逃しても、二回目、三回目で佳い歌だと気づくことがある。吉野秀雄の一回目は、寒蝉集の「富士」の章に載る歌だけだった。
尤もこれは會津八一と同じ意見だ。寒蝉集の後記で吉野秀雄は
富士山の歌十数首の叱正を乞うた折、先生は例になくこれを称賛したまひ、ここにはじめて歌よみの一人として公然世に立ち向ふことを許されたのである。

秀雄は、八一とまったく調べが異なるのに、なぜ八一を師匠に選んだのか不思議だ。
富士の山秀雄が詠ふ十(とお)余り八一が褒めて歌が世に出る


三月二十四日(木)
「吉野秀雄全集 第二巻」は、途中まで読んで、後は読む気にならなかった。後半に「短歌とは何か」と云ふ文章があり、写生説が正しいとした上で、秀雄自身が
曲りなりにも歌を詠み下せるやうになつたかといへば、それはまったく正岡子規の写生の説のたまものであり(以下略)

ここまではよいが、このあと
美意識などはなくてもいいのだ、ただひたすらに真を追求すれば、美はおのづから後を追ってついてくるものなのだ。

この考へは間違ってゐる。美しいものを歌にすれば美しい。美しくないものの描写でも、表現が美しければ美しい。美しい心で観れば、どんなものでも美しい。これが私の考へだ。
それとは別に、定形にすること自体も美しいが、それだけではだめで美しさが二つ必要だとも、前に述べた。だから私は、散文に組み込むことで、美しさを出さうとした。そして推敲を重ねることで、表現も美しくなる。
子規の世は 歌詠みたちが写さずに惑ふ心を書いたため 直す為にて今は異なる
(終)

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