千七百五十七(和語のうた) 「和歌文学講座」を読んで
壬寅(西洋野蛮歴2022)年
六月一日(水)
和歌文学講座「8 近代の歌人1」を読んだので、他の巻も読むことにした。まづは「1 和歌の本質と表現」だ。十一人が執筆し、そのうち二つが印象に残った。
まづは岡崎義恵さんの「和歌と美的理念」だ。
万葉時代には「和歌」とは唱和する歌の意で、「和歌」という熟語はまだできていなかったといってもよかろう。

そして
「うた」は日本にしかないので、(中略)「やまとうた」という語は不用なのである。

私は「うた」の意味で「歌」を用ゐてきたが、旋律を伴ふ歌と紛らはしいので、今回から変更した。
平安時代になって、中国の詩と区別して、日本の歌としての「和歌」「やまとうた」の語が盛んに使われだした(以下略)


次に窪田章一郎さんの「和歌の声調」だ。
古来、心と言葉、内容と表現とに分けて考察されるのが普通である。(中略)心と言葉とをきわめて微妙な有機体として味わいとるとき、(中略)綜合・統一されたものとして力をもつことになる。古来の歌論は、この力を調(しらべ)という語で言っている。
今日ではこの調を、調子・声調の語をもっていうことが多く(以下略)

章一郎さんの考へでは
(一)散文に近い短歌。定型にしたがっている上では短歌であるが、声調を成さないので、短歌とは言いがたいもの。(以下略)

このあと、(二)は意味・内容を声調で生かしたもの、(三)は声調が高く、意味・内容を拡大させたもの、(四)は声調のなかに、意味・内容が融かしこまれ声調そのものとして生き、意味・内容も無限大の拡がりをもつ、とある。

六月二日(木)
「2 和歌史・歌論史」で印象に残ったのは片桐顕智さん「和歌史 近代(明治期)」だ。まづ
明治一八年ころまでの和歌は、徳川歌壇の連続であり、不振沈滞であった(以下略)

同じころ
明治一九年を境に、ほとんど無批判的な海外文化追従の傾向が反省されてきて(以下略)

そののち
二〇年代の(中略)所謂新旧二派の併存期も三〇年代になると完全に旧派は新派の攻撃のものに閉塞し(以下略)

その結果
落合直文の主観主義的傾向と正岡子規の客観主義的傾向が、対立の形をとるが、主流は主観派の浪漫主義となり(以下略)

子規だけなぜ直文系と無縁なのか分からなかったが、主観と客観と云はれるとなるほどと納得した。だが私自身は、内容より表現の美しさを重視するから、その程度のことで別系統になってよいのか、と思ってしまふ。

北住敏夫さん「歌論史 近代」では
万葉風の特徴として、子規は「写実」を挙げて重んじたのであったが、俳句やまた散文については、「写実」に代えて「写生」という言葉をも用いた。

これは貴重な情報だ。「写生」の語は歌に合はないと前から思ってゐた。俳句や散文なら問題ない。
左千夫は子規に従って写実趣味に立脚点を定めたけれども、それは左千夫流に意義づけられたものであった。(中略)一般に芸術には「事実を面白くする事」(「製作を主とする」)「面白き事実を写す事」(「事実を主とする」)との二途があるとし、前者を「上乗なるもの」後者は「次なるもの」と見なしている。後者が左千夫のいわゆる「写実」である。前者は(中略)「形式趣味」もしくは「理想趣味」と呼ばれた。

左千夫の歌論を初めて読んだが、同感である。だが左千夫の歌を読んで美しいと感じるのが5%の理由が分からない。このあと節、赤彦、文明、茂吉の歌論が続くが、私は歌で勝負すべきだと考へる。歌論で勝負すると、それは散文の勝負だ。
歌を詠む歌を論(と)くより優れるは美しい音(ね)が中から出づる


六月六日(月)
「4 万葉集と勅撰和歌集」で印象に残ったのは石田吉貞さん「新古今集」だ。
万葉の歌の発生は、漢文化・印度文化(中略)とくに漢文化との接触によって起った大変革が、その原因である(以下略)

一例として
柿本人麻呂が「安見しわご大君」と(中略)天に向かって訴えるような歌など、民族的素樸が、外来精神に抵抗して叫びあげた、必死の声であった(以下略)

詳しく調べないと分からないが、私は違ふと思ふ。漢文化への反発が歌に現れないからである。次に
古今集は漢文化が貴族文化として定着した(中略)すがたを示している。

これも調べないと分からないが、貴族社会の都市化したことが原因だと思ふ。
新古今の歌は、仏教(中略)の無常思想が、ほろびゆく平安朝貴族の(中略)内面に入り込み(以下略)

これは正しいだらう。
漢文化はわれわれ日本文化と同一のアジア民族の文化であるから、(中略)異質度はそれほどひどくない。しかるに仏教文化は、純然たる異民族の文化であるから、(中略)異質度はきわめて大きい。

これはある。南伝の仏道も、タイやミャンマー経由ならよいが、スリランカ経由だと感覚が異なる。北伝の仏道も、中国経由ならよいが梵語だと駄目だ。
新古今の歌は(中略)象徴というような手法を借りる必要が生じ、(中略)能楽・連歌などでも尊重され、明治以後になっても、浪漫主義文学、とくに明星派の短歌、頽廃派・新感覚派の文学などに継承され(以下略)

私は新古今、明星派、頽廃派とは無縁なので何とも思はないし、無縁なのはこれらが裏で繋がってゐたのかとも思ふ。話は変はって
定家は二二、三歳までは(中略)優秀な歌人として世間から嘱望されていたが、(中略)二五歳のころから、急角度にその歌が変化し、(中略)達磨歌と誹謗されるようになった。(中略)当時新しく興りかけた禅宗を、世間では達磨宗といったが(中略)何を言っているかわからなかったところから、(中略)定家の歌も難解でわからなかった(以下略)

その後
定家の達磨歌は、一五ヶ年の年月を経て、いわゆる新古今の歌として完成され(以下略)
(終)

「良寛、八一、みどり。その他和歌論」(七十二)へ 「良寛、八一、みどり。その他和歌論」(七十四)へ

メニューへ戻る 歌(二百九十六)へ うた(二百九十八)へ