千七百二十二(和語の歌) 久しぶりに良寛の歌を読む
壬寅(西洋野蛮歴2022)年
四月十八日(月)
良寛の歌を三ヶ月ぶりに読むことにした。八一の歌を読むとほとんどすべて美しいと感じるのに、良寛の歌ではそれほどではない。しかし良寛の歌のほうが、私には合ふ。その理由は何かを探ることが目的である。
今回の特集は、良寛記念館などへの旅行とは無関係だ。旅行の前に、図書館に予約申し込みした。
良寛の歌は「定本 良寛全集 第二巻歌集」が一番よい。布留散東の六十一首と久賀美の二十六首を読み、今回はすべて美しいと感じた。つまり良寛の生涯と重ね合はせて歌を読めば、どれも美しい。
解良家横巻の七首は、最後の二つ「我だにも まだ食ひたらぬ(以下略)」「きぬぎぬの 東がしらみに(以下略)」が美しくない。或いは偽作か。
布留散東と久賀美はすべて美しい欲の無き人裏に思ふと
布留散東と久賀美は歌が美しい裏を思はず読むのみにても
四月十九日(火)
阿部家横巻、木村家横巻は、すべての歌が美しい。良寛・由之兄弟和歌巻は、出来が少し落ちた歌が一部にあるやうに思へる。兄弟再会の嬉しさが一番目で、歌は二番目だったか。或いは、返歌のためか。返歌だと全体では美しいが、単独だと出来が落ちるやうに感ずるのは、良寛・由之兄弟和歌巻以外にも見られる。
連記の歌も同じで、全体を読めば納得するが、単独で読むと歌によってはなぜ、と疑問を持つものがある。単独で読むことが悪い。
返し歌二つを読めば美しい連ねて記す歌も同じく
「はちすの露 本篇」は、一部に問題のある歌がある。老いて詠んだ歌が多いためか。そんななかで
僧はただ 万事はいらず 常不軽 菩薩の行ぞ 殊勝なりける
曹洞宗の宗内組織を離脱した良寛の思想が、ここに詠まれる。前に、良寛の作ではないやうな気がすると書いたことがあった。今回はまったく感じなかった。その訳は、「常不軽菩薩」と読むと句またがりになるが、今回は「常不軽」「菩薩の行」と二つの単語として読んだ。これなら良寛の作だ。
「はちすの露 唱和篇」は、二人の唱和が美しく、歌自体も美しい。
四月二十日(水)
住居不定時代、五合庵時代も同じだ。ところが乙子神社草庵時代の途中から、老いを嘆く歌が多くなる。心身ともに限界だった。だから島崎草庵時代になると、元気を回復する。一方で、破調の歌が僅かだが混じるようになる。
良寛は、歌集を除いては、書が第一、歌は第二だから、脱字がよくある。その逆で字余りに気づかなかったり、五七と作らうとして五五になったり、或いは途中まで書いたときに間違ひに気づき、今までのものを活かした歌に変更したのではないだらうか。
破調を当然のこととして作る近代人と、間違へることはまったく異なる。良寛の歌を批判する必要はない。
今の人わざと調べを破るあり昔の人は間違へ破る
四月二十一日(水)
良寛の詠んだ歌は極めて僅かの例外を除いて美しい。これが今回の結論である。この結論が出た理由として、良寛記念館、良寛堂、五合庵、乙子神社社務所、分水良寛史料館の訪問がある。
しかしそれ以上に大きいのは、子規、左千夫など多くの歌を鑑賞したからだ。古事記、万葉集から江戸時代までの膨大な数の歌のなかから優れたもの数百が世に知られる。それに対して、明治時代の歌には、佳作ではないものがほとんどだった。
それに比べて良寛の歌は佳いものばかりである。(終)
追記四月二十五日(月)
良寛の歌を「校注 良寛全歌集」(谷川敏朗 平成八年)でも読んでみた。「定本 良寛全集 第二巻歌集」(内山知也、谷川敏朗、松本市壽 平成十八年)では、訳注が「はちすの露」は松本市壽、その他は谷川敏朗だから、その差は十年の年月と云ふことになる。
「校注 良寛全歌集」の特徴は、凡例の
自筆は多く仮名で記載されている。しかし、便宜上漢字仮名交じり文とし、振り仮名を付した。写本や活字本も、それに準じた。
古里で「ふるさと」と読む例が幾つもあり、まさか良寛が使ったのではと心配したが、違ってよかった。
詞書について
なかには、出典の撰者の作かと思われるものがあるが、撰者の意志を尊重してそのまま表記した。
私は詞書を使はないから、なるほどと思ふだけだった。
「定本 良寛全集 第二巻歌集」の解説に
承知のように、良寛の書と称されるものには多くの贋作が存在する。良寛の詩歌集を編む作業は、これらを峻別する戦いであるといっても過言ではない。
そして名著「校注 良寛全歌集」が出版され、その十年後には更に改定した「定本 良寛全集 第二巻歌集」が作られた。
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