千七百二十(歌) 五合庵、乙子神社、分水良寛史料館
壬寅(西洋野蛮歴2022)年
四月十六日(土)
本日は、最終日だ。五合庵、乙子神社、分水良寛史料館に行った。平日は弥彦駅、吉田駅から国上山のふもとまでコミュニティバスがある。しかし昨日までの三日間は、新潟県内が雨のため、一昨日に出雲崎に行っただけだった。
弥彦駅から歩いて国上山のふもとに着いた。道の駅が改装で休館のため、駅近くのファミリーマートで買った弁当は、外で食べた。
国上山休館中の道の駅 裏に車も片道の降りる舗装を登りたが なかなか着かずこの山は思ひのほかの標高に 途中で細い山道は五合庵への近道とぬかるみのある橋の下 超えて開ける見晴らしと吊り橋渡り五合庵着く

(反歌) 五合庵隠居の僧の住まひにて質素で静か修業は続く
林道を歩いて見晴らし台に着き、頂上や国上寺には行かず、吊り橋を渡って五合庵を見て、その下の本覚院にも行かず、吊り橋で戻って乙子神社を見て、分水側に下りた。駅からここまで歩いたのと、国上山を登ったのと、これから分水駅まで歩く時間を考へると、すべてを見る余裕はない。
ふもとまで降りたあと国上山からかなり遠ざかり、田んぼの脇を走る県道から、国上山と広大な田んぼを満喫した。かう云ふ景色を見ると、心まで広くなる。
国上山かなり遠のき振り向けば空の中まで前に広き田

国上山と、その前に位置する広い田
駅に着いて驚いた。次の列車まで一時間半だ。そこで燕市分水良寛史料館に行った。展示を一通り見て、隣の民俗室も見た。列車到着まであと五十分あるため、受付に云って良寛のビデオを見た。西日本の方の寄付で作られ、分水良寛会が企画し、民間会社が制作した。良質な内容だった。
駅近し分水町の史料館町は消えても史料は続く

駅に戻り、みどりの窓口が三月で閉鎖されたことを知った。あの掲示がなければ、寂れた無人駅で済ませるところだった。

分水駅みどりの窓口廃止の貼り紙
さう云へば駅前に、商店街活性化のため歌碑を二十ヶ所くらいに設置したとある。十五年くらい前の事業だ。私が見たのは、駅前の一ヶ所だけだが、分水町は燕市と合併するまで、分水町の中心街があるのだった。私は駅の反対側から来たため、住宅街しか出会はなかった。
次に復た来ることあれば町を為す商店街も探索予定

駅の反対側に、ガラスで覆った神社があった。古い社を建て替へるのではなく、保存するのは良いことだ。
全行程は十三キロメートル。国上山を登る分を含めて、かなり疲れた。次回は平日に来て、国上寺と本覚院にも寄りたい。

本日は朝の天候を見て、良寛が晩年に住んだ和島に行くことにした。最初の計画は
1.和島にある良寛の里に行く
2.良寛美術館を観る

越後線の小島谷駅までの時刻は調べてあるが、これは長岡で新幹線から乗り換へて、柏崎経由だ。これと同時に、今回の四日間で平日に乗れなかった吉田駅と弥彦駅経由のコミュニティバスは、燕三条で乗り換へだ。どちらも同じ時刻の新幹線なので、後者に引っ張られて小島谷を燕三条経由と勘違ひした。
吉田駅で次の越後線まで二時間以上あるので驚いたが、今乗って来た電車に再び乗って弥彦まで行ったのは正解だった。あたかも最初から計画したかのやうに、五合庵、乙子神社を見学できた。そして予定外の分水良寛史料館に寄ることもできた。
1.燕三条駅で、初めて乗り換へる
2.五合庵、乙子神社社務所を観る
3.分水良寛史料館を観る

燕三条駅は乗り換へ通路に、弥彦神社の大鳥居の縮小版があり、くぐることができた。(終)

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