千六百五十七(和語の歌) 「定本 良寛全集」第二巻歌集
辛丑(2021)
十二月十一日(土)
新潟県立図書館で貞心尼「はちすの露」を少し読んだ。時間があれば全部を読むのだが、一部に留まった。序を読み、これこそ良寛の正しい生涯だ。そこで、帰宅ののち、「はちすの露」で検索した本を、図書館から借りた。
一冊目は「定本 良寛全集」第二巻歌集で、布留散東、久賀美、解良家横巻など原書別に分けてある。その中に「はちすの露」もあり、良寛の歌が載る。つまり貞心尼の序は無く、空振りに終はった。
しかし「定本 良寛全集」第二巻歌集は優れた書籍だ。内山知也、谷川敏朗、松本市壽の三氏が執筆し2006年に発行された名著である。(「定本 良寛全集」第三巻書簡集 法華転・法華讃でも特集を組んだことがある)
越後にて はちすの露を 少し読む 家に戻りて 借りた書(ふみ) 歌ばかり載り だが読み直す
まえがきに当る「解説」では、良寛が出家以前に
表だって和歌を学んだ形跡はない。出家得度ののち、(中略)円通寺で師の大忍国仙和尚から手ほどきを受けたのが、きっかけではなかろうか。
その根拠として
国仙とその弟子義提尼はともに歌集を残している。
国仙の歌に例へば
「紫の雲居をよそに立ち去りて蓮が宿に住むぞ楽しき」。当時の歌壇の主流であった伝統的な堂上派の歌風である。
良寛の初期の歌として
山おろしよ いたくな吹きそ 白妙の 衣片敷き 旅寝せし夜は
について
この歌には『新古今和歌集』の影響が見られる。
また
三句切れが多く、末尾を「つつ」「とは」で結ぶ用法と格助詞「の」の多用などは、堂上派の歌の影響であろう。
十二月十二日(日)
ところが
良寛は、やがて技巧に流れがちな因襲的な歌づくりに飽き、『万葉集』に(以下略)
そのきっかけは
江戸の国学者で歌人の大村光枝であったと思われる。享和元年(一八〇一)辛酉(中略)大村光枝は国上山中腹の五合庵に良寛を訪ねて一泊した。(中略)案内役の親友原田鵲斎とともに、三人は旋頭歌を詠み合った。(以下略)
更に
文化九年(一八一二)壬申ころに刊行された加藤千蔭の『万葉集略解』を(中略)参考にしながら阿部定珍所蔵の『万葉集』に朱筆で注を書き入れる作業に、ひと冬かけて取り組んでいる。定珍の依頼に応えたもので、文政二年(一八一九)己卯のことと考えられる。(中略)以後の良寛の歌は万葉調に変貎する。
さて万葉集の長歌は
五七調が主であった。はじめ良寛の長歌も五七調であったが、いつのまにか七五調のほうが多くなってくる。
以上を踏まえて
谷川敏朗の所説によりつつ、良寛の歌の特徴をまとめておきたい。
(中略)第一に枕詞の使用がきわめて多いことである。
使用頻度の高いものから挙げると、「あしびきの」「ひさかたの」「うつしみの」「ぬばたまの」「さすたけの」「あらたまの」「たまぼこの」「「あづさ弓」などで、およそ八十語を数える。『万葉集』では、柿本人麻呂が六十六語、大伴家持が五十語(以下略)
枕詞については渡辺秀英さんの調査もあり、多少異なる。
第二には、(中略)初句切れ約六十首、二句切れ約二百ニ十首、三句切れ約二百五十首、四句切れ約百九十首となる。(中略)体言止めも多く、百七十首余を数え、全体の一三パーセントにあたる。
第三には、倒置法の多用である。(中略)約二百八十首に倒置法が見られ、これは全体の二一パーセントに及ぶ。(以下略)
第四には、接続助詞「つつ」の多用である。(以下略)
第五には、格助詞「の」の多用である。
十二月十三日(月)
本文に入ると、「定本 良寛全集」第二巻歌集は、ここでもすごい。これまで読んだ歌集のなかには、編者の偏向がひどいものもあったが、この本はそれがない。
一つ一つの歌に、現代語訳と解説が入る。ある歌は、単独だと賛成できないが、解説に「返歌」とあり、贈られた元歌を読み「なるほど」と思ったものもあった。原書別に分けたのも、良い企画である。
此の本は、今まで読んだ良寛の歌集で、最も優れる。それは最も後に出版されたためでもある。
ところが、山本健吉編「日本詩歌集 古典編」を読んだときに、良寛は江戸時代一番の歌人だと感じたのに、今回は感じなかった。歌を選抜した書籍と、選抜せずに載せた歌集との違ひだ。と同時に、歌は連続して読んではいけない。国語辞典を、最初から最後まで連続して読んではいけないのと同じだ。
十二月十四日(火)
「布留散東」「久賀美」を過ぎて、「解良家横巻」は七首と少なく、「阿部家横巻」は一八〇首と多い。良寛の歌を読み、阿部定珍とは本当に仲が良かったのだと、よく判る。そして歌の背景も判るので、なるほどこの歌はさう云ふ場面だったのか、と納得する。「さすたけの 君がすすむる うま酒に」で始まる二首は、その典型だ。
布留散東を 出て倉敷に 籠もる後 また出た先は 人知れず 戻りて後は 久賀美にて 筆と詩(うた)とで 知られ始める
書籍のはしがきの位置にある「解説」によると
良寛が帰郷してまもなくのころ、交流が最も頻繁だったのは原田鵲斎である。国上山の良寛を囲む初期の詩歌サロンの中心メンバーは、この鵲斎と阿部定珍だったようだ。
しかし原田家横巻は存在しないので、この書籍では解良家横巻を取り上げたとある。
「定本 良寛全集」第二巻を本日まで読んで、歌について感じたことが二つ。一つ目は、昔みたいに音を伸ばして読まないと、字余りが許される感覚が判らない。二つ目は、詞書を読まないといけないのかと、一瞬思った。そして読んでみたが、やはり読まないことに落ち着いた。
十二月十五日(水)
本日は「阿部家横巻」の大部分で、昨日読み切れなかった。更に「良寛・由之兄弟和歌巻」一九首、「はちすの露 本編」に少し入った。詞書をすんなり読めた。なぜ昨日は駄目で本日はよいのか、理由を明らかにしたいものだ。
詞書を読んでも、読んだことすら気付かない。そんな詞書だったのだらう。
十二月十六日(木)
「はちすの露 唱和編」まで読んだ。今まで読んだ歌集は、出典別ではないため、どれが「はちすの露」なのか気付かなかった。「唱和編」は、美しい流れである。良寛の表と裏ではなく、老年の恋でもない。師弟愛である。良寛は、親しい人たちには「恋しくば 訪ねて来ませ」と詠んだ。その流れである。
十二月十七日(金)
「住居不定時代」の三十九首は、歌らしい歌が続く。「五合庵時代」の三百八十一首のうち、三百五十ニ首目(911-559=352)から、問題のある歌が続く。
世の中は すべなきものと いまぞ知る 背けば疎し 乖(そむ)かねば憂し
この世間は、どうしようもないものだと、今はよくわかった。人に逆らえば相手がよそよそしくなるし、人に従えばこちらが嫌な思いをする。
凡そ僧侶とは思へない内容である。似た歌が、あと二つ続く。良寛の作ではない気がする。しかしこれら三つの後、一つ置いて
僧の身は 万事(まこと)はいらず 常不軽 菩薩の行ぞ 殊勝なりける
これは僧侶そのものだ。しかしこれも良寛の作ではない気がする。常不軽と菩薩を分けたからだ。八文字なので、二句に分けるか、七字の句で字余りにするのでは、良寛らしくない。その次の
世の人に まじわる事の 憂しとみて ひとり暮らせば 寂しかりけり
この歌で、良寛が円通寺を出た後から五合庵末期までが判る。一首置いて
和泉なる 信太が森の 葛の葉の 岩の間(はざま)に 朽ち果てぬべし
和泉の国にある信太の森にいた白狐「葛の葉」のように、私も岩山の間にある庵で、むなしく死んでしまうのだろう。
疑問部分を赤色にした。歌自体は「葛の葉」のみを詠んだ。良寛のことと解釈するかどうかは、読む人に任せるべきだ。「定本 良寛全集」第二巻は良質だが、この現代語訳だけ勇み足だった。私は、真実と虚偽が同居するこの世は朽ち果てる、と歌を解釈した。四つ先の
世の中は 七たび変へん ぬばたまの 墨絵に掛ける 小野の白鷺
の現代語訳の次にある解説に
白鷺を墨絵に描くとは、技術の上達によって不可能も可能になることを言う。
江戸時代に、技術の上達と云ふ概念はなかった。この歌は、諸行無常を表はすものと、私は解釈した。次の
世の中を 何に譬へむ 山彦の 答ふる声の 空しきがごと
世の中というものを、何にたとえたらよいだろうか。それは、山彦の音のひびきが、ただむだに返ってくるように、思い通りにはいかないものだ。
疑問部分を赤色にした。この歌は世の中を空だと詠ったのであり、思ひ通りにいくかいかないかは関係がない。この一連の歌の現代語訳または解説だけ、考証が十分ではない。後から五合庵時代に追加したのだらうか。八つ先の
はじめより 常なき世とは 知りながら なぞ我袖の かわく時なき
五合庵時代が長かったため、最後は老化も手伝ってうつ病になったのではないかと、推察した。宗内にゐれば、年令とともに役割が与へられる。一人で僧侶生活を送った副作用だと思ふ。このことで、良寛を批判してはいけない。歳を取りうつ病になる事は、予想できなかった。一つ前の歌も似た内容だが、碧巌録を読んで感動した涙と考へられる。
庵にて 一人生きるは 難しく 黄昏時に 涙止まらず
十二月十八日(土)
「乙子神社草案時代」は三一三首。移ったことで心機一転、歌に元気を取り戻す。
乙宮の 森の下屋の 静けさに しばしとてわが 杖移しけり
途中で、亡くなった子を悲しむ歌が幾つか続く。そして四季の歌になり、たまに子を悲しむ歌が混ざる。そのやうな中に
なよ竹の 葉したなる身は 等閑(なほざり)に いざ暮らさまし 一日(ひとひ)一日を
僧であるのか俗人であるのか、中途半端な自分にとって、何事もほどほどに、さあこれからの毎日を暮らしていくことにしよう。
良寛が、僧であるのか俗人であるのか迷ふはずがない。僧である。ただし宗派の組織から外れたため、普通の僧とは異なる。さう云ふ内容の詩歌もある。だからと云って、俗人ではない。
「等閑(なほざり)に」は、前の文章に掛かるのか、後の文章に掛かるのかで、意味がまったく異なる。「定本 良寛全集」第二巻は後とみた。私は前とみた。私が訳せば
僧ではあるが宗派から独立状態の自分は、中途半端で、何事もほどほどだった。さあこれからの一日一日を暮らしていくことにしよう。
「乙子神社草案時代」で疑問を持った訳、解説は、この一首だけだった。このあと、歌は事実を書いたものが多くなる。悪く云へば文学性が低くなる。しかし普通の文章を五七にまとめる。このこと自体が歌である。その中には芸術性の高いものもある。そして良寛の場合は、筆が主、歌が従となる。
乙宮に 移りて後は 気を新た 気を取り戻し 文(ふみ)に力が
十二月十九日(日)
昨日に続き「乙子神社草案時代」について。詞書が「貧しきを述ぶる歌」の歌は
あしびきの 山田の田居に いほりして (中略) いにしへを 思へば夢の 世にこそありけれ
山の田に近い村里に庵を結び、(中略)昔を思い返すと、まことに空しい夢のような世の中であったことよ。
疑問部分を赤字にした。良寛は夢だと云ったが、空しいとは云はなかった。空の概念は、仏道では重要だ。だから良寛が「この世は空だ」と発言して、聴く人が空しさを乗り越えられるよにするのであれば、それは正しい。しかし「空しい」では、良寛がさう感じてしまふことになり、意味が逆だ。
このあと良寛は、散文でも十分な内容を、歌にし続ける。一つは、筆が主、歌が従なので、求めに応じて書いたのであらう。求める人が、題や内容を指定したのかも知れない。
二つ目は、散文を定型化すること自体が、歌であり文学である。これは私の思想だが、良寛も同じ思想だったのだらう。
息の数 合はせ次には 美しく 読みやすい文(ふみ) 歌が生れる
十二月二十日(月)
「島崎草庵時代」は二二二首。冒頭で、島崎(新潟県長岡市)の厳しい自然に度肝を抜かれる。
けさはしも 押し来る水の 凍れるに この里人も 漕ぎぞわづらふ
今朝はとりわけ寒いので、水田に押し寄せてきた水が凍ったため、この里の人も、舟を漕ぐのに苦しみ悩んでいることだ。
次の歌も
この里は 鴨つく島か 冬されば 行き来の路も 舟ならずして
この里は、鴨が飛んできて住みつく島なのかなあ。冬になると、行き来する道も水に侵されて、舟でなければ通ることができないことだ。
更にその次も
いかがせん 窪地の里の 冬されば 小舟も行かず 橇(そり)も行かねば
どうしようか、どうしようもない。この低い土地の里が、冬になると水に浸され、その水が凍って、小舟も行くことができず、橇も用いられないので。
水に浸されそれが凍る歌は、この三つのみだ。地元では当たり前の話なので、誰も関心がない。
さて、「定本 良寛全集」第二巻歌集の優れるところは、万葉集や新古今和歌集などに載る歌で、良寛が参考にしたものを挙げることだ。
いざ子ども 山べに行かん すみれ見に 明日さへ散らば いかにせむとか
について
参考「いざ子ども大和へ早く白菅の真野の榛原手折りて行かむ」(『万葉集』巻三、二八〇)。
これで「いざ子ども」を、威張った表現だと勘違ひしなくて済む。
明日からは 冠(かむり)もかけず うれしくも 美保の浦わに 鱸(すずき)釣りてむ
これも
冠もかけず=ここでは官職を離れることであろう。山田杜皐が辞したことを指すか。
この解説のおかげで、良寛が釣り、即ち殺生をしたのかと心配しなくて済む。
良寛を 全て集める 書(ふみ)を読む その二(ふた)巻目 歌にして 優れ易しく 本歌(もとうた)も載る
(反歌)我が国が 仏の道で 誇れるは 大きな仏 そして良寛
(反歌)鑑真は 仏の道で 誇れるも 外の国から 来られた方だ(終)
良寛(十三)へ
良寛(十五)へ
メニューへ戻る
歌(百九十六)へ
歌(百九十八)へ