千七百二十四(和語の歌) 歌論(1.茂吉の歌を読み美しさには正負があることに気付いた、2.マスコミの短歌欄を批判)
壬寅(西洋野蛮歴2022)年
四月二十三日(土)
歌には美しさが二つ必要だ。そして定型は一つ目の美しさだ。今までかう主張をしてきた。茂吉の歌を読んで、美しさには正負があることに気づいた。負の美しさとは醜さのことである。
茂吉の歌で、脳病院の患者が死亡したものがある。それに涙を流せば美しい歌だが、茂吉の場合は嫌悪感が漂ふから醜い歌になってしまふ。醜い歌は、歌が持つ定型の加点を相殺してしまふ。普通の歌が一点なのに、これだと零点だから極めて悪い歌になってしまふ。
八一が、左千夫と茂吉の歌を濁れると評したことについて、伊狩章さんは
人間の苦悩、性とか我欲とかの醜なる面、すなわち百八煩悩をさす

とするのに対し、私は歌調の問題だと思った(會津八一を、他人が論じた書籍を何冊か読む)。これは岩津資雄さんが引用した
調子の清濁といふ如きことは、凡そ詩歌の最上最奥の問題にて、今日の大家と称され居る人にてよくこれを解し居るものは一人も無く候

に依る。ここで云ふ調子とは「調べ」ではなく「心掛け」ではないか。他人の死を良寛みたいに涙流せば澄んだ調子だし、茂吉みたいに嫌悪感を出すと濁った調子になる。
歌つくり澄みた心で詠むべきだ濁りて詠めば調べも濁る


四月二十四日(日)
斎藤茂吉の歌について、表現に深い思慮があると書いた人がゐて、その本を読んだ。最初は、なるほどと思ったが、読み進むにつれて茂吉はそこまで深い工夫はしなかった、と思ふ。
その本が掛かれた背景は、茂吉自身が、万葉集、良寛、その他について歌を批評した。その内容が、この本くらい詳しい。私はそれぞれの数首を見ただけで止めた。歌は読んだときに美しいと感じるかどうかだ。理屈で、ここがどうだこの表現がどうだと論じて感じるものではない。
それと同時に、茂吉はこれほどまで万葉集そのほか(私は良寛に関心があるので茂吉の良寛評を読んだが)を詳しく書いたのだから、茂吉の作品もこれらに準拠するのだらうと勘違ひするから注意が必要だ。
茂吉の歌は、左千夫に選歌されなくなったときから美しさが無くなった。茂吉の良寛評に「伊藤左千夫先生は・・・」と云ふものがあった。茂吉は、左千夫への尊敬が消失するときに、万葉集や良寛への関心も捨てたのか。そんな気がする。
左千夫とは両(ふた)分かれでも尊ぶを茂吉が持てば美しかった

師匠の歌や歌論を批判することは構はない。しかし師匠への尊敬を失ふことは人の道に反する。左千夫が急死したときは狼狽したが、その後は無くなった。そこが、左千夫への尊敬を生涯持ち続けた赤彦との相違だ。

四月二十六日(火)
マスコミ(新聞、NHK)に選ばれた短歌を見て思った。微妙な心境や人間関係、こっけい、街中の光景などが題材で、俳句、川柳の中間だ。そして、美しさがない。
左千夫から茂吉は分かれ この時が大和歌から美しさ 消えた大きな分かれ道では

(反歌) 美しさ歌には二つあるべきだ醜さがある歌には三つ
三つも美しさがある歌なんて難しい。醜い歌は作るな、と云ふことかも知れない。まづ美しいものを題材にする。慣れてきたら表現を美しくする。(終)

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