千六百八十ニ(和語の歌) 1.「日本名歌集成」を読んで、2.伯母は太田水穂に教はった
辛丑(2021)西暦元日後
閏月三十日(日)(2022.1.30)
図書館に予約した正岡子規の本を借りに行き、併せて開架から、「日本名歌集成」(株式会社學燈社1988年)も借りた。A3で六百八頁の、大きな書籍である。上代から近代まで二千首を収め、収載歌人解題・索引は五十頁に及ぶ。正岡子規が六首、伊藤左千夫が六首、落合尚文が四首を読んだ。それぞれに、歌、歌意、鑑賞がある。
ここで思ひ出したやうに、収載歌人解題・索引から良寛を探し、六首を読んだ。かうして読むと、良寛はどれもいい歌である。歌集は歌の数が多いため、感覚が麻痺するらしい。
良寛の 歌を暫く 離れれば 優れ爽やか 読むに易しい


閏月三十一日(月)
「日本名歌集成」で、太田水穂の
秀(ほ)つ峯を西に見さけてみすずかる科野のみちに吾ひとり立つ

の「鑑賞」に
長野県東筑摩郡山辺小学校から、和田小学校に転じた明治三二年(二三歳)の作。

とある。母に「浅間のばあさん(私の祖母、母の母)は山辺小学校かな、太田水穂は山辺小学校の先生だった」と話し掛けた。すると、伯母(母の二番目の姉)は太田水穂に習ったさうだ。筑摩(つかま)小学校で、母は二歳下だが源池小学校だった。住所が同じでも、当時は学校が異なることがあるやうだ。
「そんな大きな本に載るので、有名な人だったんだねえ」と語った。
みすずかる 科野の山辺 筑摩とは 我が家も縁(えにし) 深き学び舎(や)

この伯母は東横線の元住吉に住み、私は武蔵小杉、菊名に縁がある。
伯母の住む 元住吉と 同じ線(すじ) 我が関はりの 小杉と菊名


ニ月一日(火)
正岡子規と伊藤左千夫の歌を読んだ。子規の歌は、病気のものが多く(六首中で三首)、そのため病気以外は優れた歌が少なくなってしまふ。そんななかで
くれなゐの二尺伸びたる 薔薇の芽の針やはらかに春雨のふる

は良い歌だ。別の本で正岡子規の歌を鑑賞したところ、俳句に近い歌が多い。左千夫の歌は、「牛飼が」と「池水は」の有名な二首は賛成だ。残りの四首は、この選歌でいいのか。
それでも、左千夫のほうが子規より上手な印象を受けた。しかし左千夫は子規を師匠として崇めたから、その理由を探りたい。
選歌は九名の編集委員に依るが、それだとアララギ系と明星系が入り乱れた選歌になる。アララギ系と明星系は別の文芸作品として、それぞれが選ぶべきだ。
舟人は 両(ふた)つの群れと ほかの群れ 集まり舟は 山へと登る

上代から江戸時代までを鑑賞するのに、この本は便利だ。しかし明治以降の歌には、適切ではないのかも知れない。
今回から、「良寛と會津八一」と「和歌論」を合同した。良寛には歌の他に、漢詩、寒山詩、渡航したかどうかが含まれる。會津八一には、良寛との関係が含まれる。だから「和歌論」だけに統合はできなかった。(終)

追記三月十五日(火)
三月に太田水穂を特集し、水穂は早い時期に教員を退職し東京に行ったから、筑摩小学校では教へてゐないことが分かった。母が姉(私にとり伯母)の名を出すからには、講演を聴きに行ったなど何か根拠があると思ふ。九十歳なので、これ以上聞き出すことは不可能だらう。
追記四月二十日(水)
伯母は松本第二高女で国語を水穂から習ったさうだ。母はときどき昔のことを思ひ出す。(思ひ出したきっかけは行動日誌)

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