千六百八十三(和語の歌) 現代日本文学全集11 正岡子規 伊藤左千夫・・・
壬寅(西洋野蛮歴2022)年
ニ月二日(水)
「現代日本文学全集11 正岡子規 伊藤左千夫 永塚節」(筑摩書房 昭和四十二年)の、正岡子規の「竹の里歌」を読んだ。凡例には
一、右の歌稿には明治十五年から始まつて新体詩長歌をも併せ二千首許り記してある。其中から明治三十年以降の長歌十五首、旋頭歌十二首、短歌五百四十四首を抜いて本書に収めたのである。
(原文は正字体)
選歌は伊藤左千夫、香取秀真、長塚節、蕨真など七名で、最も適切なところだ。
一、明治三十年以前を省いたのは先生が真に歌の研究に心を寄せられたのは同年以後であるからである。
一、尚明治三十年より後も先生の趣味標準は年一年に進歩して居る。故に我等同人が先生の遺構を選ぶのも前後六年を通じて一定の標準を以てしたわけでは無く、其年々の作中に於て取捨を決したのである。年次を以て項を分つたのは此の為めで、旁先生が進歩の跡を知るの便宜もあらうかと思はれる。(以下略)

子規が万葉集を重視したのは、古今集以後を批判するためだとする、後世の主張がある。その根拠として、万葉集には載る長歌や旋頭歌を子規が作らなかったとするが、実際には作った。
子規の作風が年を経るほど優れることは、左千夫らが編纂した「竹の里歌」を読むと実感できる。これまで読んだ子規の歌は、年代がばらばらで選歌の方法も問題があり、左千夫は子規より優れるのに、なぜ子規を師匠として敬慕したのか疑問に思った。それが解決した。明治三十三年の
いたつきに病みふせるわが枕辺に牡丹の花のい照りかゞやく

から後は、歌風が万葉風になる。(比率の違ひなので、その前にも該当する歌はあるし、後にも該当しない歌はある)

ニ月三日(木)
書籍の最後部に「作歌論・解説・年譜」が載る。正岡子規は、斎藤茂吉が書いた。子規は最初
幸田露伴に私淑し、月の都は露伴作風流仏の影響があると云はれてゐる。

ところが
美文調から擺脱(はいだつ)して平語脈になつた。そこで、嘗ては露伴の文章に心酔した子規が、(中略)『露伴の二日物語といふが出たから久しぶりに読んで見て、露伴がこんなまづい文章(趣向にあらず)を作つたかと驚いた。それを世間では明治の名文だの(以下略)』と云ふに至った。

明治三十一年から三十五年までの歌を二首づつ並べ
俳句調から万葉調になり、内容の複雑から内容の単純に行つた。

子規につき 斎藤茂吉 文(ふみ)を論(と)く 今は茂吉を 多くの人が


ニ月四日(金)
左千夫については、土屋文明が書いた。
左千夫の短歌は、厳密な意味では、近代的といふのではないかもしれない。その根本は常に生活の基盤に立つて歌はれてをるので、その限りに於ては、左千夫短歌も決して近代的でないとは言へないが、その発想法なり用語なりは、むしろ前近代的といふことになるであらう。

生活を詠ふと近代的、と云ふ発想は不賛成だが、歌が古今調以降貴族化したので、その改革としてなら理解できる。
併し一見前近代的と見える左千夫の短歌(中略)には、左千夫の著しい特色があるので、恐らくかうした格調の高い歌調はこれは左千夫が最後の作者であつて、押し寄せる近代的風潮は、左千夫以後にかうした歌調を留める余地がないであらう。

これは同感。だがこれだけでは不十分で、子規も明治三十三年の途中から格調高い歌調になったと思ふ。
左千夫の歌調は(中略)必ずしも子規からばかり来たものではないやうに見える。ことにその前近代的な重厚なる音調は、むしろ子規にないものとさへいふことができるかもしれない。

私は、左千夫の音調が子規に影響したのだと思ふ。尤も土屋文明は
根岸派の擬古的歌風は、子規によるといふよりも、むしろ彼の局部的先駆者と見られる天田愚庵や福本日南などの影響に、子規周囲の無理解なる万葉模倣者の、内なるものを缺いて、ただ古を模さうとする人々の作り出したものが多いのではないかと思ふ。

子規が万葉調になったのは、天田愚庵や福本日南だと云ふ。左千夫ではないとするとがっかりする半面、安堵する半面もある。昨日紹介した子規について斎藤茂吉が書いた文章に
子規には大勢の門人がゐた。併しその門人の数人は、子規を育てあげたもののやうに思つてそれを口外したことさへある。(中略)例へば万葉集を子規に教へ、万葉調の妙味を子規に教へたのは某々である云々といふ如きである。

斎藤茂吉と土屋文明は、近代調を好む。文体としての万葉調を嫌ひ、その生活題材を好む。土屋文明をインターネットで検索すると、
1917年(大正6年)に『アララギ』選者。長野県の諏訪高等女学校・松本高等女学校で教頭・校長を務める傍ら作歌活動を続け、(中略)1930年(昭和5年)には斎藤茂吉から『アララギ』の編集発行人を引き継ぎ、(以下略)

とある。松本高等女学校は、私の伯母(母の一番上の姉。伯母の小学校の担任は太田水穂だったは二番目の姉)の出身校で、今の松本蟻ヶ崎高校だ。母も松本高等女学校卒業だが、このときは戦争中で学校が地域別で家から近い学校へ行くことになり、蟻ヶ崎高校ではない。
土屋文明の次の文章を批判しようと思ったが、見逃すことにした。
左千夫の歌調は(中略)子規の近代的な文学感によつて、ひどい擬古に陥るのを救はれてゐたのかもしれない。左千夫の歌調もよし子規に似ない所があるとしても、その文学観の全部が子規に支へられてゐたといふことになるわけである。

私自身は口語で作るから、表面上は万葉調ではない。だが万葉調の歌を読むと美しいと感じる。

ニ月五日(土)
歌は、読んで美しいと感じるかどうかで、好き嫌ひが決まる。だから人によって、合ふ歌は異なる。私は、子規の後期の歌の多くと、左千夫の歌の多くは美しいと感じる。
左千夫は晩年に、弟子たちと不仲になった。世代の差が原因だが、子規と左千夫は天才で、茂吉や文明は秀才と云ふ理由も考へられる。
どちらが優れると云ふのではない。天才には天才の役割、秀才には秀才の役割がある。
地(ところ)から 天(あめ)にも響く 歌を詠む人 地(ところ)にて ほかより秀でた 歌を詠む人
(終)

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