千六百七十八(歌) 特急「しおさい」と伊藤左千夫資料館訪問記
辛丑(2021)西暦元日後
閏月二十一日(金)(2022.1.21)
本日は旭と成東へ行った。目的は
1.東京駅の総武線快速ホームから、初めて特急に乗る
2.特急「しおさい」に、初めて乗る。
3.銚子の手前にある街を幾つか巡る

銚子は何回も行ったので、今回はその手前の飯岡、旭、八日市場辺りを廻らうと調べた。航空写真で見ると、旭は街があるから見るものがあるだらう。それ以外は民家が少ない。そこで旭のみに行き、ついでに成東にも寄ることにした。そして伊藤左千夫記念館は徒歩で行けることが判った。
成東の歴史民俗資料館 伊藤左千夫の生家あり 資料館には通常の展示の他に企画展ほろびの光本人の最後の年を特集し 企画と生家 通常の三つ優れて楽し懐かし

(反歌)
生家には次の間座敷中の間と奥は茶の間と納戸奥の間
次の間は右の端にて縁側が無くて代はりに式台があり
六部屋を囲み右には土間があり下と左は縁側があり
縁側の突き当りにはお手洗ひ風呂は銭湯または別棟 どちらか不明
茶の間には囲炉裏がありて板敷で土間はかまどと右に穀入
下部屋も土間の右側穀入と並ぶ板敷使用人用

楽しと詠ったのは、アララギ派の歌人で小説「野菊の墓」を作った人の生家を訪ねるからだ。懐かしと詠ったのは、私の年代だと、小学生低学年までの家はこんな感じだった。茶の間が板敷なのは意外だが、座布団があればそれでよい。畳を敷くのは寝る部屋だけか。
企画展「ほろびの光」の資料には、「伊藤左千夫年譜」の大正二年に
アララギ及び弟子たちと疎遠になり、孤独の中、七月三〇日脳出血で死去

その次のページに大正2年の「出来事」があり、「アララギ」へは四月一日発行「六の四」を最後に歌は発表しなくなる。論文は六月十五日「六の五」に「叫びと俳句(二)」があるが、これは(一)の続きだ。七月一日の「六の六」は投稿無し。三十日に死去。
別の展示では、信州東筑摩郡出身の望月光と、伊藤左千夫と同郷の蕨桐軒があった。望月光は二十七歳で病死、蕨桐軒は
「アララギ」の編集に携わるが、明治42(1909)年蕨真と対立、左千夫の仲裁もかなわず「アララギ」より退く。
左千夫の晩年、無一塵菴を譲り受け居住した。

とあるから、蕨真より親しかったらしい。蕨真は伊藤左千夫に財政で支へたから、これは以外だった。葬儀の日は、棺側に土屋文明、蕨桐軒、斎藤茂吉などの名がある。参列者三十二名(店一つを含む)で名を知るのは夏目金之助だけだが、ここにも蕨真はゐない。
当日の参列が伝へられる人々として八名が載り、森鴎外、高濱虚子、佐佐木信綱がその中にゐる。展示の写真に、与謝野鉄幹が外国へ出発のときに十名ほどが写り、そこに伊藤左千夫もゐる。森鴎外の歌会で知り合ったのだらうが、明星派との関係はこの一枚だけだった。
死後の年表があり昭和二十五年に
史跡 歌人 伊藤左千夫生家県指定

昭和四十七年には
生家の前庭に「左千夫資料館」(正式の名称は成東町歴史民俗資料館)が建つ。
(終)

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