千六百七十(和語の歌) 永塚功「伊藤左千夫」
辛丑(2021)西暦元日後
閏月七日(金)(2022.1.7)
永塚功「伊藤左千夫」を読んだ。昭和五十六年の発行である。まづ「序」に
万葉を基調とし、あわせて子規の詩精神を継承しつつ自己の主情的な性格と相俟って、全精神の叫びを強調した歌人にふさわしい生き方を示した半面、近代の時代思潮にほとんど関心を示さなかった。それだけ左千夫の文学は擬古的で偏狭的であったとも言える。

門人との対立はそこから生まれたのか、と納得した。本文は、伊藤左千夫の生涯を記した「作歌研究編」と、「秀歌鑑賞編」に分かれる。
「作歌研究編」には、膨大な数の歌が載る。これを読み、伊藤左千夫の歌には美を感じなかった。しかし「秀歌鑑賞編」を読むと、そんなことはない。歌は続けて読んではいけない。會津八一の歌は、続けて読んでも美しさを感じるので、教訓を忘れてしまった。
なかむれは霞める山の麓より沢辺をさして駒のおりくる

明治三十一年の作品で、「日本」紙に「春園」の筆名で発表した。永塚さんは「「なかむれば」「霞める山」「沢辺をさして」「駒のおりくる」といった表現は、あまりに模倣的であり、既成的でもある。恐らく空想で詠んだのであろう。(中略)もう一首の「青駒のくつわならへて益良夫やあかきもゆたに花を見るかも」には、万葉的な調べが感じられる。いずれにしても古今調から万葉調へと変化していく時期の作品ということができる。」
私は今まで空想で作ることは考慮しなかった。題詠は空想だ。永塚さんは伊藤左千夫研究が専門(日大教授)なので、なるほどと思った。
葺きかへし藁の檐端の鍬鎌にしめ縄かけて年ほぎにけり

明治三十三年の作品。
「初歩的な発想でありながら技巧に処さず(中略)初期の作風の良さが感じられる。また、子規の選を得ているだけに、写生の手法が的確に生かされている(以下略)
私は、心の動きも写生に含める(心の写生)が、子規は光景だけを写生とすることを、今知った。と云ふのは、私と子規は違ひ過ぎるので、左千夫が子規の門人だと云ふ事も先日知った。
つがの木のしみたつ岩をいめくりて二尾におつる滝つ白波

明治三十三年。日光旅行で詠んだもので「子規の選かはかなりきびしかったようで、左千夫は十二首しか選ばれていない。(中略)題詠ということもあって、深みのあるものは少ないが、(中略)自己を失なわない態度があらわされている。(中略)やや表現の複雑さはありながら作者の意図したものははっきりと表現されている。」
次は
池水は濁りにゝごり藤浪の影もうつらず雨ふりしきる

明治三十四年。「作者は暗い心で読んだのではないが、この一首に人間の弱さ、暗さをみることは可能だろう。」
私は別の感想を持った。「濁りにゝごり」は「濁り」とは異なり、文芸表現だ。左千夫は何回か水害に遇ったので、暗い心と想像することも可能だが、藤と雨に美を感じたのではないだらうか。
ここまで十八首のうち三首(永塚さんが批判的に取り上げた一首は、その批評を紹介するためなので除く)。

閏月八日(土)
ここから明治三十五年以降に入り
さきりたつ岡田の里は朝鳴にまつめしば鳴く家のいもりに

明治三十六年。まつめは松雀、いもりは忌森で防風林。私は「さきりたつ」「朝鳴」「いもり」に美しさを感じた。
夕日さし虹も立ちぬと舟出せば又時雨くる諏訪の湖

明治三十七年。「虹も立ちぬと舟出せば」と「又時雨くる」が美しい。
みすず刈る南信濃の湯の原は野辺の小路に韮の花咲く

明治三十九年の作品「蓼科遊草」。「八月五日、甲州・信州間の中央線開通にともなって、信州行きを思いたち七日山辺の湯に赴いたときのもの。」
五日に東京を発ち善光寺、六日松本郊外浅間温泉、七日に『山辺の湯に行き、「地名殊に優美趣亦それにかなふ」自然の景観にひたった。』
湯の原と聞いてまづ山辺だと思ったが、南信濃は諏訪や飯田辺りなので、歌集名から蓼科の地名かと思った。「地名殊に優美」なのに、昭和四十年頃に湯の原など山辺の湯は、美ケ原温泉と軽薄な名前に変はった。
山辺の湯 湯の原御母家藤井なる 湯が集まりて 左千夫らは 宿に泊まりて 趣きを 味はひながら 韮の花詠む

(反歌) 山辺の湯 地(ところ)の名まで 美しく 美ヶ原 頂に見る
山辺の湯については、過去に
六百七十五、飛騨旅行記(その三)の三月二十一日(土)その三
千九十七 ・・・浅間温泉国際スケートセンターの二月二十四日(土)その三
千九十九 Wikipediaは使はないほうがよいの二月二十五日
千五百十 窪田空穂全集の一月九日
麓にて 美ヶ原 名乗る湯は 名と異なりて 美しくない

左千夫の歌で、字余りが気に掛かる。江戸時代までの「あ、い、う、お」を含まない物も多い。今回「伊藤佐千夫」を読んで思った。掛詞など技巧が旧派、感情が明星派、写実がアララギ派、文が會津八一。
伊藤左千夫の歌に戻ると
木曽川のねさめの床のそゝり岩千重の岩峰も草若葉せり

明治四十一年。解説に「諏訪を通られければ別れ惜しく共に松本浅間温泉に到り千代の湯にて麻葉会同人と昼夜作歌す」
秋風の浅間のやどり朝露に天の門ひらく乗鞍の山

明治四十二年。「天の門」は「あめのと」と読む。「浅間温泉小柳の湯に宿泊したときの作」とある。母に訊くと、小柳は立派な和風旅館だ。
飯つなのすそ野を高み秋晴に空遠く見ゆ飛騨の雪山

明治四十三年。「若き歌友堀内卓が松本市伊勢町の自宅で没した。(中略)その墓参りをかねて信州戸隠・飯綱を訪れたときのものである」
明治三十五年以降は、八十二首のうち六首なので、私の選ぶ比率が急に低くなる。しかもすべて旅の歌だ。

閏月九日(日)
「秀歌鑑賞編」のあと、「作品選」として百首が載る。これを見ると、明治三十五年から作風が変はることは無ささうだ。永塚さんが、解説し易い作品を選んだだけだった。
「作歌研究編」に戻ると
明治四十年代の文芸思潮は、すでに浪漫主義から自然主義の潮流に入っていた。そのなかで根岸派の地味ながら写生から出発した運動も、漸く写実主義の基盤とその色合いをもつようになった。

そして
「アララギ」「比牟呂」の合同は(中略)やがて訪れる大正初期の全盛期を迎える原動力となったと言うことができる。
(終)

和歌論二十四、歌(二百九)へ  和歌論二十六へ

メニューへ戻る 歌(二百九)へ 歌(二百十一)へ