六百七十五、飛騨旅行記(その三、1.地元復活のためには消費税廃止が必須だ、2.原発と太陽風力地熱発電を叫ぶ輩は悪魔の手先だ)
三月十六日(月)
その土地が観光地
初めて訪れる土地や久しぶりに訪れる土地は、そこ自体が観光地である。だから更に観光地には行かないことにしてゐる。更に観光地に行くとその土地に行つた印象が薄れてしまふ。今回の旅行で観光地に行つたのは飛騨古川まつり会館と下呂発温泉博物館の二つだけだつた。あと彦根城開国記念館に入つたが、ここは市民向けの展示である。
白川郷や五箇山にも行かなかつた。勿論これらには行きたいが往復に要する時間と既に観光化されたことを考へれば、写真やインターネットで見たほうがよい。運賃も白川郷で往復4940円は高い。子どもの教育費でお金が掛かるから今回の旅行は一泊4000円前後に泊まつた。バス代で一泊分になつてしまふ。
三月十七日(火)
非電化路線
高山本線は非電化で、これはかつて中央東線で松本に行くとき気動車だつたから懐かしかつた。気動車は調べると奥が深い。
低速時には流体変速機を用ゐる。しかしそのまま高速で走ると効率が落ちて燃費が悪くなるばかりか流体変速機が過熱で壊れる。だから時速45Kmあたりで直結に切り替へる。これは手動である。変速から直結に切り替へるときにエンジンの回転数と車軸の歯車前の回転数を同じにしないと車内に衝撃が伝はる。それを避けるためダブルクラッチみたいな操作が必要になるらしい。
長いこと変速と直結が1段づつだつたが、二十年くらい前から直結が2段、最近では3段、4段を自動で切り替へるようになつた。なぜ自動でうまく切り替へられるかは電子回路でエンジンと回転数を合はせる機構が発達したためである。かつて気動車は登り坂に弱かつた。速度が落ちて直結から変速にするとエンジンを吹かしても流体変速機が熱に変へてしまふからだつた。直結の段数を増やして切り替へを20kmくらいに下げてからこの問題は解決した。
それにしても不思議である。私は中央東線急行型の気動車(キハ58)は変速から直結への切り替へは自動で、しかも直結は2段だと思つてゐた。今回気動車を調べて四十年ぶりに手動と直結1段のことが判つた。
三月十九日(木)
国鉄時代の車両、JR東海発足後の特急車両
高山本線は沿線で多数の鉄道マニアが写真を撮つてゐた。岐阜から高山までに十人くらいゐた。私は鉄道マニアではないから理由が判らない。上りと交換のため停車中に車掌に訊いたところ、古い型(キハ47)は残るが少なくなるといふことだつた。少なくなるだけなら撮らなくてもよささうなのにと思ひながら高山に着いた。因みにこの型は国鉄時代の車両で、この世代までは特急を除くすべての気動車が混結可能だつた。回送は貨物列車の最後尾(昔は車掌者の前)に連結することも可能だつた。
各駅停車は特急との交換待ちが多い。特急「ひだ」はJR東海が発足後に造つた型(キハ85)で、ホームで見てゐるとすごい煙を上空に吐きながら高加速で発車する。この型になる前の特急(キハ80)は東北本線の「はつかり」で登場したが最初は過熱や火災など故障の連続だつた。気動車の歴史は登り坂、過熱、昭和四十年辺りからは冷房の動力をどう捻出するかの闘ひだつた。
三月二十日(金)
電車は矛盾を発電所が引き受ける
電車は登り坂に強い。それは矛盾を発電所が引き受けるからだ。矛盾の最たるものが福島原発事故である。
それにしても高山本線の列車は加速がよく登り坂にも強い。調べるとその理由が判つた。型 | エンジン(馬力) | 変速機 | 切り替へ | 登場 |
昔の一般の気動車 | 160〜180ps1台 | 変速1段直結1段 | 手動 | 昭和28年 |
昔の勾配用急行型(キハ58) | 180ps2台 | 変速1段直結1段 | 手動 | 昭和36年 |
前の特急「ひだ」(キハ80) | 180ps2台 | 変速1段直結1段 | 自動 | 昭和35年 |
今の特急「ひだ」(キハ85) | 350ps2台 | 変速1段直結2段 | 自動 | 平成元年 |
普通列車の古い型(キハ47) | 220ps2台を 350ps2台に交換 | 変速1段直結1段 | 手動だが回転数が 合ふ装置付き | 昭和52年 |
普通列車の新型(キハ11) | 330ps2台 | 変速1段直結2段 | 自動 | 昭和63年 |
普通列車の最新型(キハ25) | 520ps | 変速1段直結4段 | 自動 | 平成22年 |
桃色は過去に乗つたことのある車両、黄色は今回乗つた車両である。水色は国鉄、紫はJR東海である。昔の特急型(キハ80)は「ひだ」に一回乗つたことがあるだけで、だから高山本線とは縁がある。今の気動車が速い理由は一目瞭然である。出力がかつての2倍ある。その分、石油を消費し地球滅亡を早める。
三月二十一日(土)
下呂発温泉博物館
温泉には昔からあるものと、ポンプで深層から汲み上げるものがあることを始めて知つた。深層から汲み上げるのは温泉法の濫用である。温泉法を改正し、温泉と人造温泉を区別する必要がある。
帰宅の後に温泉を調べてゐて地熱発電には反対しなくてはいけないことに気付いた。湧き出る温泉の熱量は発電に比べればはるかに少ない。発電で熱量を消費したら温泉の中には枯れたり水温の下がるところも出るだらう。そんなことをしてはいけない。
地球温暖化の防止は省エネですべきだ。原子力や地熱に頼つてはいけない。
三月二十一日(土)その二
北アルプスと呼んだ途端に長野県の独り勝ちになつてしまふ
日本アルプスといふ言ひ方がある。飛騨山脈のことを北アルプス、木曽山脈のことを中央アルプス、赤石山脈のことを南アルプスと呼び、三つを総称して日本アルプスと呼ぶ。飛騨山脈は飛騨越中と信州の間、木曽山脈は信州、木曽山脈は信州と甲斐駿河の間にある。だからアルプスと三つまとめた途端、長野県の独り勝ちになる。岐阜県は長野県から馬篭(元長野県木曽郡、十年前に岐阜県中津川市に越県合併)を分捕つたぞなどと喜んでゐる場合ではない。住民税がわずかに増へただけなのに対し今までずつと多数の観光客を取られて来た。ここは飛騨山脈と呼び飛騨側に観光客を呼び寄せるべきだ。
高山バスセンターからは、平湯経由新穂高ロープウェイまで13往復、平湯温泉経由松本まで6往復運行する。松本行きは濃飛バスとアルピコ交通が3往復づつである。アルピコとは松本電気鉄道のことだらうと調べると平成4年にグループ名称を「アルピコ」に決定し松電ストア(といふスーパーが長野県内に多く、松本市内は全部松電ストアだつた記憶がある)をアップルランドに変更した。また貸切バス5社が合併しアルピコハイランドバス株式会社になつた。このバスは都内でときどき見かけることがある。ところが平成19年「私的整理に関するガイドライン」に基づく「事業再生計画」を策定し取引金融機関に支援を要請、経営者一族は事業から手を引き松本電鉄の株を移動しアルピコホールディングス株式会社を設立。松本電鉄はその部門会社となり、更に四年後、諏訪自動車と川中島自動車を吸収しアルピコ交通になつた。
ここまでがインターネットで調べた結果だが、私の場合は昔のことも多少は知つてゐるといふことで諏訪バスと川中島バスを旧社名で呼んでみた。更に知つてゐることとして松本電鉄は瀧澤知足氏が乗つ取つたと母が言つてゐた。それまでは初代から四代まで社長は苗字がみな異なり任期も八年、十六年、三年、三年とそれほど長くはない。しかし五代の瀧澤知足氏は三十七年と長い。六代の瀧澤至氏は十一年間だが、当時は無関係だつた川中島自動車が倒産した時に、県内バス業界の中心的存在であり事業の多角化を進めてきた瀧澤至氏が管財人になり、そして見事再建した。だから優秀な経営者に違ひない。
八代瀧澤徹氏のときに松本電鉄は倒産した。川中島自動車もさうだがモータリゼーションと人口の首都圏集中を考へれば、大都市以外でバスを経営するのは大変なことである。倒産して変はつたことと言へば、浅間温泉へのバスが激減した。それまで浅間線は10分間隔だつたのに一時間に一本になつた。昔は路面電車も走り、廃止後は新浅間線になつた。こちらも15分に一本はあつたのに1日2.5往復になつた。残りは浅間線と新浅間線をつなげて温泉の入口までしか行かなくなつた。瀧澤氏の自宅が浅間温泉にあつたためではないと思ふ。浅間線と路面電車は上高地線と並ぶ松本電鉄の中心だつたためである。
三月二十一日(土)その三
二つの単純アルカリ泉
下呂温泉は入浴すると肌がぬるぬるする。アルカリ性単純温泉である。一方、信州浅間温泉の場合は近年落ち込みが激しい。こちらは単純泉が原因かと思つたがインターネットで調べるとやはりアルカリ性単純温泉である。ここで松本大学といふ初めて聞く大学の教授である山根宏文氏の論文を見よう。その前に松本といへば信州大学と松商学園である。それ以外に学校があつたのかと驚いてインターネットで調べると松商学園の経営とある。だつたら松本商業大学だとか松商大学と名乗ればよいのにと思ひながら論文を見よう。平成元年に宿泊客が39万1千人、日帰り客が9万2千人、旅館数37だつたのに、平成14年には宿泊客20万0千人、日帰り8万1千人、旅館数31にまで落ち込んだ。長野県全体では宿泊客は74%に減つたが日帰り客は127%と増えて、全体では102%と微増した。浅間温泉の落ち込みが際立つ。山根氏は対策として住民及び学生へのアンケートから情緒ある街並み、土産店・飲食店、日用品の買へる店、遊歩道などを挙げる。また浅間温泉は民家や農家の間に旅館が点在する生活観光地であることから地域に愛される温泉街を挙げる。
私は上高地や美ヶ原に行く観光客が浅間温泉に寄らなくなつたことが大きいと思ふ。上高地への途中に白骨(しらほね)温泉といふ単純硫化水素泉、含硫黄-カルシウム・マグネシウム-炭酸水素塩泉(硫化水素型)がある。観光客がこちらに流れた可能性が高い。あと岐阜県側の平湯温泉。こちらは炭酸水素塩泉、塩化物泉である。安房トンネルの開通で上高地に行つた観光客が松本に戻らず平湯に一泊して高山に抜ける可能性が高い。高山から来た観光客が松本に来たとしても白骨に一泊するだけで浅間温泉までは来ないだらう。
美ヶ原温泉が誕生したことも大きい。もともと湯ノ原、御母家、藤井といふ三つの温泉だつたがまとめて美ヶ原温泉として売り出した。本物の美ヶ原(美ヶ原高原)にはバスで1時間くらい掛かる。しかも4月の下旬から夏の間しかバスは運転されない。一方で松本方面に15分も歩けば街中の信州大学付属病院に至る。つまり本来は松本温泉とでも名乗ればよいのに美ヶ原温泉と名乗るからややこしい。何でこんなことが許されるかと云へばここから美ヶ原の頂上までは今は松本市内だが元は山辺村だつた。私の祖母は山辺村の出身だが美ヶ原温泉といふ言葉を知らなかつた。「何だ湯ノ原のことか」などと言つてゐた。Wikipediaによれば歴史は古く、開湯は奈良時代である。(中略)江戸時代は松本藩の御殿湯である「山辺茶屋」が置かれた。/温泉名が美ヶ原温泉になったのは昭和30年代に入ってからで、それ以前は「白糸の湯」、「山辺の湯」、「束間の湯」という名称で呼ばれていた。とあるがこれは正確ではない。湯ノ原、御母家、藤井が正しい。環境省が指定する国民保養温泉地といふ制度があり長野県内では美ヶ原温泉など七箇所が指定された。このうち美ヶ原温など二箇所は国民保健温泉地にも指定された。岐阜県では平湯温泉など四箇所が国民保養温泉地に指定されるが、下呂温泉は指定されてゐない。
三月二十一日(土)その四
二度目の岐阜訪問
岐阜市を訪問したのは今回で二回目である。一回目は二十五年くらい前に一般周遊券を使ひ名古屋、岐阜、明治村などを回つた。犬山で線路と道路が同じ橋を走る併用橋を通つた。岐阜駅前で路面電車を見た。岐阜市内の路面電車(名鉄市内線など四線)が廃止されるなど世の中がどんどん悪くなつた。路面電車が廃止されるとなぜ世の中が悪くなるかといへばエネルギー大量消費社会になるためである。
原子力に反対するときは我々も自動車は使はず冷暖房も節約するなど忍耐することを主張しなくてはいけない。ところが反原発運動は言はない。言つても風力や太陽光の発電を増やさうといふだけで、本当に実現できるとは思つてはゐないはずだ。もつと省エネに心がければ廃止されたバスが復活し、海外旅行はジェット燃料の無駄だから全国各地が繁栄する。そして全国を繁栄させるためには悪税消費税の廃止が必要である。
(その二)へ
(その四)へ
メニューへ戻る
前へ
次へ