千九十七 小平奈緒選手、相澤病院、浅間温泉国際スケートセンター
平成三十戊戌
二月二十二日(木)
平昌オリンピックで小平奈緒選手が500mで金メダルに輝いた。ライバルで銀メダルになった韓国選手との友情は、現代の感動物語として日韓両国で報道された。オリンピック史に長く刻まれるに相違ない、人類が地球を滅亡させなければの話だが。
その数日前に小平選手は1000mで銀メダルにも輝いた。そのとき小平選手の勤務先がオランダ留学を出張扱ひにして応援した美談が報道された。うかつにもこのとき、このニュースを聞き流してしまった。
その後、小平選手は長野出身と云ふニュースがあった。長野とは善光寺から半径200m以内のこと(本当?。もう少し広いやうな気もする。戦国時代でも川中島北方の犀川までが適正面積では)だから気にしなかった。
次に小平選手が茅野の出身と聞いて少し気にした。その後、勤務先の相澤病院が松本と知って調べてみると、私の祖父が移転前の家から200mだった。
二月二十三日(金)
帰宅後母に電話を掛けてみると、祖父(母にとっては父)は相澤病院と仲が良く、診察してもらふときは相澤病院だったさうだ。
小平さんは最初、午前中は2時間病院で勤務し、午後から長野市内のエムウェーブと云ふスケートセンターで練習をする計画だった。しかしそれでは両方駄目になってしまふと理事長兼院長の好意で、1日中練習できることになった。
この話を読んで、松本にも浅間温泉国際スケートセンターがあるはずだがと不思議に思った。松本盆地のはずれに浅間温泉があり、背後の山並を頂上まで登ると美ヶ原高原、その途中に美鈴湖がある。浅間温泉スケートセンターは美鈴湖にあり、日本の新記録はほとんどここで作られた。氷の質がよいためだと聞いたことがあったが、標高1000mで気圧が低く、空気の抵抗が少ないこともあるらしい。
インターネットで調べると、七年前に閉場になった。「新まつもと物語」と云ふ記事によると
標高が高く気温が低いため氷の質がよく、旧ソ連(現カザフスタン共和国)のメディオ、ドイツのインツェルとともに世界三大高速リンクと呼ばれていました。日本を代表するスケート選手が多く練習し、競技大会も行われています。もちろん一般も利用可能で、貸し靴も完備し初心者でも楽しめます。
とある。別の方のブログには、スケートリンクと背後の
松本市営・浅間温泉
国際スケートセンター
と書かれた看板の写真とともに
平日の昼間はほとんど利用者がいません。
貸靴(フィギュア、ハーフ、スピード)500円
滑走料600円(本日は無料でした)
浅間温泉から美が原のほうへあがっていったところにあります。
(しかし冬季はその道が閉鎖され、今回は三才山の方から迂回しています)
となりに美鈴湖があります。
橋本聖子選手や清水宏保選手など有名選手からも
名リンクとして愛されたこのスケート場も今期で閉鎖が検討されています。
みなさん、是非利用してください。
とある。
二月二十三日(金)その二
開設は昭和四十四年で当時の東筑摩郡本郷村。パイピングリンク。
地元の選手の方のホームページ「Shigeru's Ice Skate Rink List in Japan -長野県編-」を見つけた。それによると
おそろしく良く滑る氷です。まさに「鏡のような氷」です。500mの時の第二コーナーなどは、スピードが出過ぎて、回りきれない位です。
M-Waveは確かに良く滑るのですが、浅間に来ると、やっぱり浅間は良く滑るなあ、と思います。
とある。静かなので
昼の大会の時は、本当にいいものです。
しかし、夜の練習の時は辛いです。静けさがかえって、辛さを加速します。15年以上前は、朝練も出来たそうですが、霜だらけのリンクで滑るのはもっと辛 い、と私の先輩は言っていました。
(中略)W杯が開催されるのをきっかけに、製氷機・冷却パイプの取り替え、控え室の新築、コーナーマットの取り替えがされました。これによって、製氷能力がアッ プして、より良い氷が維持できるようになりました。
このリンクの氷作りには、信大生がバイトで参加します。私も何度か参加しましたが、カルガリー五輪のあったシーズン('87-'88)の時に日本新が連 発された時には、うれしかったような、こんないい加減な奴らが作った氷でいい記録が出ていいものかと、複雑な思いでした。
このリンクは、かつての私のホームリンクでした。夜間練習の時は、開始時に-1度だった気温が、終了時には-15度だった、なんて事もあったりして、思い出のリンクです。
(中略)カルガリーができて以来、「高速リンク=カルガリー」、となってしまいましたが、浅間のリンクに屋根を付けたり、完全な風よけを作れば、M-Waveな ど問題にならない国内最速、そしてカルガリーと匹敵するような高速リンクになると思うのですが…。
とある。貴重な情報が更にある。美鈴湖について
松本市浅間温泉から美ヶ原に向かう途中にある、かんがい用溜め池です。浅間温泉国際スケートセンターのすぐ下にある池、と言った方が分かるかも知れませんし、釣り好きな方には、へらブナ釣りで知られる所です。
昭和50年代までは滑走できたようですし、私が松本に住んでいた昭和60年代にも滑走できそうな時期がありましたが、氷が張らず、全くダメです。湖畔に ある国民宿舎「レイクサイド美鈴」の新築工事や、美鈴湖の湖岸工事などもあって氷が張らなかったんですね。
二月二十四日(土)
美ヶ原の中腹に位置するスケートリンクが、ふもとの温泉名を名乗る理由は、当時の行政区画にある。本郷村は浅間温泉があるので財政が豊かだった。だから松本市とは合併せず、浅間温泉を宣伝するため美鈴湖に村営のスケートセンターを作った。この試みは大成功で、浅間温泉国際スケートセンターの名は冬になると新聞やテレビを賑はした。
私が中学生くらいの時だらうか、祖母が横田まで松本市になったと説明してくれた。(横田とはこのとき既に廃止になった路面電車の代はりに走るバスの停留所名で、最初は自動車学校から先は料金が高くなった。松本駅から自動車学校までと、自動車学校から浅間温泉までは安いが、それを越えると高くなった。しかしこれだと自動車学校を挟んで乗車すると短距離でも高くなるため、横田から途中(下浅間辺りか?)も安い料金になった。それだけの理由で横田の地名を知ってゐたのだが、)横田と云へば畑ばかりで市内の印象はなかったから、あんなところまで松本市なのかと思った。当時は松本城公園の境界から東西400m、南1200m、北500mまでが松本と云ふ感じだった。余談だが最初は南1000mと書かうと思ったが、これだと相澤病院がぎりぎりになってしまふので200m増やした。
昭和四十九年(1974)に本郷村は松本市と合併した。今思へば浅間温泉国際スケートセンターの命運はこのときから尽き始めた。長野オリンピックのため平成六年(1994)には長野市内にエムウェーブと云ふ屋内スケートセンターの建設が始まった。
もし本郷村が松本市と合併しなければ、本郷村は村の存亡を賭けて、政府や長野県に対し強力に運動をしただらう。そして浅間温泉国際スケートセンターは屋内施設に建て替へオリンピック会場になっただらう。
しかし松本市にとって観光地は美ヶ原(このとき既に頂上まで松本市だった)、上高地や北アルプスへの登山口、松本城、開智学校と沢山ある。観光以外にも工業団地、松本空港、中央線・篠ノ井線の高速化など関心事は多い。スケートセンターに関心を持つ人はほとんどゐなかった。
二月二十四日(土)その二
ここで、長野県スケート連盟のホームページに載る県内アイスリンクの一覧表から、エムウエーブと浅間温泉国際スケートセンターのデータを比較したい。
長野市オリンピック記念アリーナ(エムウエーブ)
長野市北長池195
規模 屋内 400m トラック 営業団体 (株)エムウェーブ
観客席数 6,400 開設年月日 H.08.10.
標高(m) 340 開業期間 10月~3月
松本市浅間温泉国際スケートセンター
松本市大字三才1830
規模 屋外 400m トラック 営業団体 松本市
観客席数 1,500 開設年月日 S.44.12.
標高(m) 1,000 開業期間 12月~2月
県内は400mトラックがあと四つ(いづれも屋外)あるので、やまびこ国体のときに建設されたものを対比データとして引用したい。
岡谷市やまびこ国際スケートセンター
岡谷市字内山4769-14
規模 屋外 400m トラック 営業団体 岡谷市
観客席数 917 開設年月日 H.06.11.23
標高(m) 940 開業期間 11月~2月中旬
いづれ長野県スケート連盟のホームページから浅間温泉スケートセンターが削除されるから、その前に引用記録させていただいた。
二月二十四日(土)その三
浅間温泉と浅間温泉国際スケートセンターの名称関係と似たものに、美ヶ原と美ヶ原温泉郷がある。本郷村の隣に里山辺村と入山辺村があり、ここに藤井、湯ノ原、御母家と云ふ小さな三つの温泉があった。しかし昭和四十年前に三つをまとめて美ヶ原温泉郷と称するやうになった。
美ヶ原は入山辺村(今は松本市に合併)、小県郡武石村(今は上田市と合併)、長和町にまたがるから、このうち入山辺が美ヶ原温泉を名乗って武石村や長和町から苦情がでなかったのか心配だ。
今回、小平選手の金メダルを機に調べて、新たなことが分かった。藤井、湯ノ原、御母家の三温泉は入山辺だと四十年以上思ってきたが里山辺だった。だとすれば美ヶ原は隣村の地名だから、かなり詐称ぎみだ。私の祖母は御母家の出身だから美ヶ原温泉郷に敵対する訳ではないが、地名は正確に伝へるべきだ。
次に、里山辺村と入山辺村が松本市に合併したのは昭和二十九年(1954)とずいぶん古かった。祖母が横田まで松本市だと云ふから長年さう思ってきたが、その外側が美ヶ原の山頂まで私の生まれる前から松本市だった。
松本の奥座敷と呼ばれた浅間温泉はその後、ずいぶん寂れた。温泉街が自家用車に対応してゐないこともあるし、松本の企業が浅間温泉で一泊の宴会をやらなくなったこともあらう。国内の観光客が海外旅行に流れたこともある。かつてウエストンホテルは浅間温泉を代表するホテルだったが平成十八年(2006)に休業した。ウエストンホテルの一階にはボーリング場があり、料金を払へば宿泊客以外でも利用できるので、我が家は祖父母の家に泊まるから宿泊はしないのだがボーリングをよくやったものだった。あと浅間温泉から美鈴湖まで、父と歩いてよく往復した。当時は自家用車が普及する前だから稀にバスが来るくらいだった。
休業を伝へるホームページによると
浅間温泉旅館協同組合の加盟旅館数も、15年ほど前のおよそ35軒が28軒に減った。
とある。今、同組合のホームページを見ると、旅館が十五、外湯が三しかない。ここ十二年間で更に激減した。美ヶ原温泉が十四だからほとんど同じになってしまった。激減の始まりは浅間温泉国際スケートセンターの閉場にある。浅間温泉の名が報道されなくなった。ひと冬にたくさんある大会の選手、役員、観客、応援者、報道陣が浅間温泉に宿泊しなくなった。(完)
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