千五百十 (和歌)窪田空穂全集
庚子西暦元日後(2021)
閏十一月六日(水)(2021.1.6)
数ヶ月前に、窪田空穂が次男のシベリア抑留中の死を悼んだ長歌を作ったことを本で読み、しかしそのときは印象に残らなかった。今週の月曜に、窪田空穂記念館と云ふ建物が松本市郊外にあることを知り、改めて空穂が長歌を幾つも作ったことを知った。
早速、窪田空穂全集を何冊か借りて、読み始めた。窪田空穂の歌は、日記を定型化したものだ。或いは、散文を和歌にしたものだ。
ここは私と共通だ。散文を定型化するところに美がある。その一方で、違ひもある。私は口語、空穂は文語だ。
二日前
窪田空穂は 信州の 出身にして
和歌のうち 長歌も作ると
初めて知った
閏十一月七日(木)
昭和の初めから終戦後までの和歌は、貴重な国内民衆史だ。戦後に突然、戦争反対を装ふ人もゐるなかで、窪田空穂は当時の和歌をきちんと残された。
その文脈で、次男のシベリア抑留中の病死を悼んだ長歌を読めば、偉大な長歌だ。空穂の和歌は、単独で読んではいけない。全体の流れが大切だ。
単立の 和歌には非ず
全体の 流れに乗って 読むとよい
空穂の和歌は 日記にて
その上更に 小説でもある
(反歌)小説を すべての人が 一つ持つ 人生こそは 長い筋書き
閏十一月八日(金)
歌人は、和歌それ自体で作り方を示すべきで、短歌論、短歌作成法を書いてはいけない。窪田空穂全集第七巻歌論1を読み、最初はさう思った。空穂が文語体、私が口語体。それなのに、旧派和歌が全国では多く、空穂は新派だと云ふ。
気を取り直して再度読むと、明治以降に起きた万葉集に習ふ派を新派、江戸時代までの古今集以降の流れに沿ふのが旧派。多くの短歌の本に書かれた内容で、これなら空穂に賛成だ。
万葉集は五七調、古今集は七五調。これは初耳で、しかし例外も多いと云ふ。
総じて空穂に限らず昭和四十年代までの人は、文章に重複が多く、これが昔の書き方なのだと気付いた。これは当時の書き方だから、賛成でも反対でもない。
空穂が例として取り上げた、一般人と歌人の作品は、空穂の日記調の和歌とは異なる。ここでは再び、歌人は短歌論、短歌作成法を書いてはいけない、に戻った。とは云へ、最近の歌人による短歌論、短歌作成法と比べれば、奥が深い。最近の歌人のものは、自分の経験に従ふことを表面的に述べるため、当てはまる人と当てはまらない人が出てくる。
閏十一月九日(土)
第一巻から第三巻は歌集だ。私は口語体なので、参考になることは少なかった。しかし、将来私も文語体で作りたくなった。文法のみ文語体で、単語は現代語。
第三巻まで読んで、感じたことを述べると、ふるさとのことを「ふる里」「故里」と書く。これが正解だ。十年以上前に、「古里」をふるさとと読ませようとする悪質な新聞があった。「古里」は普通は「こり」と読むし、字の意味でも古い里だ。古びたふる里ならよいが、新築した古里では話にならない。
湯の原温泉にて詠んだ和歌もある。湯の原など三か所をまとめて山辺温泉と呼ぶこともあったが、昭和四十五年頃、美ケ原温泉と改称してしまった。美ヶ原は山頂の地名だから、麓で名乗るのは適切ではない。窪田空穂が聞いたら、さぞ驚くだらう。
浅間温泉、白骨温泉、別所温泉で詠んだ和歌も、収録されてゐる。
閏十一月十日(日)
窪田空穂全集第八巻歌論2を読み、新派和歌が成立した経緯を、楽しく読むことができた。私自身は空穂と作風が異なるため(そもそも口語と文語の違ひが大きい)、空穂の作品のどこが優れるのかよく判らない。しかし選歌の様子が判り、なるほど応募者で下手な作品が多い。空穂は優れた歌人だと判った。現代に生きる我々は、明治以降の和歌でも優れた物しか目にしない。だからかう云ふ間違ひをしてしまふ。
空穂は、三つの階段論を述べる。一番下が写生で、秋になると霧の歌が毎月二千首活字になるのが、その例ださうだ。
階段を一つ上がると、主観が現れ、優美、甘い悲哀、一つの観念、金銭を主とした実生活で、歌の多くはこれだと云ふ。
更に一つ上がると、作者の境涯、精神を現し、一茶の俳諧がその例だと云ふ。
一番上は、物に託して心を現し、芭蕉や柿本人麻呂ださうだ。
この主張を読んで、最初は反対だった。しかし下手な作品は階段を一つ上がればよいと云ふ、改善法としてなら、賛成だ。写生で優れた作品はそのままでよいし、主観が現れた作品で優れたものもそのままでよい。
字句の上からのみの推敲はしないほうがいいと云ふ。これは反対だ。推敲は、すればするほどよくなると私は考へる。
意見の相違のみが目立つが、賛成のものもある。植松寿樹の
仰ぎつつ筆のはこびを眼にたどる長押の上の柳里慕の額
など四つを優れたものだと云ふ。私も完全に同意見だ。私には、空穂の作品より合ふくらいだ。
歌を作ることに依って人格が養はれ、人格が成ったが故にいい歌もできる、と云ふ。これも全面賛成だ。
昭和五年は新派が三万人、旧派が九万から十二万と予想。
閏十一月十一日(月)
空穂は二十二歳で和歌を始めたが、これは他と比較して遅いほうだと云ふ。私は本格的に始めたのが八ヶ月前だから更に遅い。二十二歳で遅い理由は、文語で作るためだ。口語なら六十四歳でも遅くはない。
多くの人が定年後に口語で、長歌、旋頭歌、短歌など、和歌を作り始めてほしい。
現代語 口語で作る
和歌ならば 六十五歳は
遅くない 使用期間は 六十四年
閏十一月十二日(火)
空穂の短歌で、多くの人が代表作に挙げるのが
鉦鳴らし信濃の国を行き行かばありしながらの母見るらむか
私も、代表作に異論はない。これ以外に何があるかと訊かれれば
紫の小草がくれのかよひ路をわれに見られし野の鼠かな
その次が
手招けば波も寄り来る春の海白き真砂に腹ばひて見る
(或いはこの姉妹作品の)砂白き磯につくばひ秋の日を大海原に手を浸し見る
その次が
夕されば寺寺の鐘鳴りいでつこや古(いにしへ)の須我の荒野か
須我とは、万葉集の
信濃なる須我の荒野にほととぎす鳴く声聞けば時過ぎにけり
に因む。
閏十一月十三日(水)
空穂の和歌を読み最初に感じたことは、「濁れる川」以降、読ませどころがなくなる。昨日紹介した「夕されば寺寺の鐘・・・」は「濁れる川」の初期だ。
だが、空穂以外のどの歌人でも、読ませどころのある和歌は、それほど多くはない。魚が産んだ卵のうち成魚になるのが数尾なのと同じだ。
空穂の和歌は、日記、小説として読むべきだと、前に書いたが、空穂自身も似たことを述べてゐる。
前に歌を作る時には、私は歌といふものを作らうと思った。作る以上は人に見せ、成るべくは褒められたいとも思った。もとより心に感じた事を作つたのではあるが、そこには選択があつて、感じた程度の強さ弱さよりも、歌に作つて引立つか引立たないかといふ事を標準とした。
その結果
此の心は歌といふものをはかないものに思はせたのであった。歌に遠ざかつた主なる原因はそこにあつて(以下略)
そして
再び歌を作り出した時には、私は選択といふ事をしまいと思つた。(中略)従来の方針からいふと、当然歌の材料とはならないもの、即ち取上げる価値のないものを、好んで取上げるやうになつた。(中略)これは歌と散文の境界線上のものだ、その何れともならない物に、強いて形を与へたものだと思った。
ここは、私が和歌を作るときと、全く同じだ。あと、私は散文を作るときも、簡潔に書いたほうが褒められるが、ここは正確にここは詳細に書くべきだ、と二者選択を迫られることがたびたびあった。そして正確に詳細に書くべきものは、行動心象日記と称することにした。
韻文は 読ませどころが
あるとよい しかし無くても
それもよい 五七調の
文章は 世の為に書く
それにより 既に美文だ 優れた和歌だ(終)
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