千九十九 Wikipediaは使はないほうがよい
平成三十戊戌
二月二十四日(土)
Wikipediaは使はないほうがよい。私がこのことに気付いたのは、今から十五年以上前のことだった。まづWikipediaは本質とは関係のない説明が多い。次に自分の意見を押し付ける文章が、政治、宗教などの分野では多い。三番目に、明らかに特定の人や団体を応援するために(或いは貶めるために)加筆したと思はれる文章がときどき存在する。
四番目の欠点は、欧米のWikipediaを真似して書く人がゐて、これはよくないと思った。このことに気付いたのは今から五年前の五月だった。なぜ詳細に時季が判るかと云ふと加藤晋介弁護士の講演を聴いた。
加藤弁護士についてWikipediaに「愛称はカトシン」とあるが、これは余分な書き込みだ。日本ではニックネームは使はない。似た例として福島第一原子力発電所について「略称は福島第一原発(ふくしまだいいちげんぱつ)、1F(いちエフ)」、横浜線について『地元沿線地域での愛称は「ハマ線」』などがある。
二月二十四日(土)その二
Wikipediaが改善されたと思ったことが、最近になって一回あった。それは出典のない書き込みは、独自研究として削除の対象になった。これで改善されたと期待したが、間違った情報が無くなった程度で、余分な書き込みはほとんどが残ってしまった。
事典を目指すには、必要な情報を取捨しなくてはいけない。しかし書籍などに載ってゐても不要な情報は多々存在する。また出典探しが形式的なものもある。前回指摘した横浜線の愛称ハマ線について出典は『「ハマ線」名物、荷物電車と"奇跡の3本並び" 昭和の残像 鉄道懐古写真 マイナビニュース 2011年10月5日』とするが、一回のマイナビニュースの題名を以って愛称がハマ線だと断定することはできない。
二月二十五日(日)
前から以上について書かうと思ってゐたが、五年ほど延びてしまった。今回特集を組むことを決めたのは、美ヶ原温泉の項目だった。
温泉名が美ヶ原温泉になったのは昭和30年代に入ってからで、それ以前は「白糸の湯」、「山辺の湯」、「束間の湯」という名称で呼ばれていた。「白糸の湯」は、共同浴場へとその名が受け継がれている。
これは不適切で、正しくは藤井、湯ノ原、御母家の三温泉をまとめて美ヶ原温泉郷と称した。藤井、湯ノ原、御母家のことは昭和四十年代の旅行ガイドには、誰もが知ってゐることだから当然のやうに書かれてゐた。世代が代はると昔のことを知らないから、白糸の湯、山辺の湯、束間の湯をまとめて美ヶ原温泉にしたなんてでたらめが通用してしまふのかと驚愕した。
束間の湯について平凡社の世界大百科事典によれば
《日本書紀》に見える束間温湯(つかまのゆ)は,浅間温泉または山辺の湯(入山辺温泉)を指したものといわれている。また近世までは犬飼(甘)の湯とも呼ばれ,歌枕ともなった。
とある。浅間温泉旅館協同組合のホームページによると
浅間温泉は、古くは、西暦698年の飛鳥時代、日本書紀に登場する束間(つかま)であろうと推定されています。浅間の地には天武天皇に仕えていた有力な氏族の古墳が数多く見つかっていることからも、この頃から都にも知られていたことがうかがわれます。
江戸時代には松本城のお殿様が通い、明治時代には与謝野晶子や竹久夢二ら多くの文人に愛されました。
とあり、美ヶ原温泉旅館協同組合のホームページには
天武天皇が「束間の温湯」に行幸せんと、三野王に信濃の国の地形図を献上させた旨が
「日本書紀」に記されていますが、この「束間の温湯」こそが、今の美ヶ原温泉なのです。
安土桃山から江戸時代には、松本を治めた歴代城主の保養地として経営される中、
堀田氏が城主となった寛永、正保の頃に入浴施設として「山辺茶屋」がつくられました。
その後、増改築を重ね訪れる多くの湯治客のために宿も増え、明治になって「山辺温泉」と改めました。
昭和三十年代には現在の「美ヶ原温泉」となりましたが、今でも「白糸の湯」「御殿の湯」などと呼ばれ親しまれ続けている歴史的由緒ある、落ちついた雰囲気の湯の里です。
とある。束間とはこの辺りで自然に湧き出る源泉を称したのであって、今の浅間温泉がポンプで汲み上げる源泉や、藤井、湯ノ原、御母家の三温泉がポンプで汲み上げる源泉とは位置が異なることは当然だ。
双方の組合が束間を自称することは構はないし、後者が『今でも「白糸の湯」「御殿の湯」などと呼ばれ』とするのも構はない。しかしWikipediaの『温泉名が美ヶ原温泉になったのは昭和30年代に入ってからで、それ以前は「白糸の湯」、「山辺の湯」、「束間の湯」という名称で呼ばれていた』は歴史の捏造であり、悪質な書き込みだ。
例へば横浜市は元は大部分が武州、一部が相州だった。だから「横浜市は武州と相州だった地域で構成される」と書くのは正しい。
しかし「横浜市は江戸幕府があった地域と、鎌倉幕府があった地域で構成される」と言ったら、これは間違ってゐる。江戸幕府があったのは武州の北方だし、鎌倉幕府のあったのは相州の南方で、どちらも横浜市の市域とは無縁だからだ。
これだけなら単なる間違ひだが、もし横浜市内に広大な不動産を持つ業者が値段を吊り上げるためにWikipediaに書いたり、横浜市内の学校法人が経営する大学の評判を高めるためにWikipediaに書いたとしたら、これは悪質な書き込みとなる。
Wikipediaのいろいろな単語を見ると、特定の人や特定の組織をやたらと持ち上げたり功績を誇るものがある。考へてみれば、さういふ人こそWikipediaに書き込むのであって、一般の人はなかなか書き込まない。Wikipediaの限界がここにある。
明治維新直後と、昭和末期から平成に掛けて、地名の軽視が目立つやうになった(悪い例として「さいたま市」「新宿区西新宿」がある。浦和、大宮、与野の三市が合併してさいたま市を名乗るが、三市は埼玉郡ではなく足立郡だ。新宿区は戦後に牛込区、四谷区、淀橋区が合併した。新宿は四谷区の地名で伊勢丹辺りから東側だ。だから新宿駅は新宿にはなく淀橋区角筈だった。新宿駅より更に西側を西新宿と称し、しかも西新宿にある淀橋警察署を新宿警察署と改名してしまった。その結果、本来の新宿は新宿警察署ではなく四谷警察署の管轄と云ふ変な関係になってしまった)。地名には昔から今に至る人たちの思ひが込められてゐる。それを安直に変更してはいけない。
二月二十五日(日)その二
私も十五年以上前までは、Wikipediaを良いものにしようと加筆したことがあった。Wikipediaの間違ひに気付き、それを修正した。ところが後日見たら元に戻ってゐた。暇な人が書き込み、しょっちゅう監視して修正されるとまた間違ったものに戻すのだと判った。
別の項目で、本筋とは関係のない部長の誰々が開発しただとかの長々とした書き込みがあったから削除したら、これも戻ってゐた。Wikipediaの欠点にこのとき気付き、それ以来加筆することをやめた。今ではユーザ名、パスワードともに忘れてしまった。(完)
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