千六百ニ十八(歌) 良寛のまとめ
辛丑(2021)
十月二十二日(金)
五月二十八日に開始した良寛の図書調査は、本日で一旦終了した。その間に、私の良寛への考へが大きく変動することが何回もあった。特に良寛関連の書籍を読み終へてにて出した結論は、寒山詩に偏り過ぎた。
それは、国清寺が一時禅宗になるものの、唐代は天台宗だった。だから良寛は天台宗の影響を受けて、浄土真宗にも寛大になったと考へた。その後、寒山詩を調べることが良寛理解に不可欠と思ひ、寒山詩を調べ三聖の真作と、後世の作を想像してみた。
そして良寛の詩を更に読み、達磨が唐に来たとき釈尊の直説を伝へたと達磨の末流の人たちは確信を持ってゐる。良寛もこれこそ釈尊の直説だと確信した。しかし達磨の末流は曹洞宗と臨済宗などに分裂したから、曹洞宗の僧ではなく、達磨に従った。
とは云へ、行動は寒山に似るので、寒山詩宗と呼ぶことは間違ひではなかった。
良寛は 達磨を仏陀 直説と 信じてゐたが 各宗に 分裂をして 道元が 達磨直説 復活を 果たしたものと 喜ぶも 江戸時代には それも復た 堕落を起こし 悲嘆に暮れる


十月二十三日(土)
僧団に所属する利点は、道を間違へたり、疲れて歩けなくなったときに、復活できることだ。良寛は、一人で歩き続けたから、それができなかった。
とは云へ、仏道の因果と清貧を保ったから、道を間違へてもまもなく復活したし、疲れて歩けなくなった時も休んで復活した。
膨大な数の詩を読むと、道を間違へたときのものだ、歩けなくなったときのものだ、と感じるものが幾つかある。多くはない。
良寛は、悟りを得ようだとか、解脱しようとは考へなかった。人間界または天界で良いと考へたことだらう。しかしそれが執着を脱し、因果の法則と清貧は保ち続けたから、逆に悟りを得て死後は解脱したかも知れない。それは少数の詩に描かれた確信に示される。
良寛は 無欲に達し 子供らと 手毬で遊ぶ 仏の姿


十月二十四日(日)
私が良寛に興味を持ったのは、寺泊駅から寺泊港まで歩いたときだった。かつて越後交通長岡線が、国鉄の大河津駅(現、寺泊駅)から旧、寺泊駅(寺泊港)まで走ったが、昭和四十八年に廃止になった。今はバスがあるが、本数が少ない。
今ならタクシーに乗るが、五年前は二人の子供が大学生なので、タクシーに乗る発想は無かった。5kmなら歩ける。
途中、右方向の矢印と「良寛堂」と書いてあった(と五年間思ってきた)。このとき良寛がどう云ふ人か知らなかった。家に帰り検索した。このことがきっかけとなり今回良寛を調べることにした。良寛との出会ひは、最初は実に単純だった。
地図で調べると、良寛堂は駅の左方向で7Km。鉄道だと二つ先の駅が近い。自動車用の案内板だとしても、確か矢印は右側だった。昨日、地図を見て判った。右側は「良寛の里」だった。(十一月七日追記、「良寛の里」も間違ひで、五合庵及び乙子神社だった。しかし五年前の記憶では、先頭が「良寛」だった。「良寛居住跡」だらうか)
私は昨年八月から和歌を始め、長歌や旋頭歌、仏足石歌もある。良寛も和歌を多数作り、そこには長歌や旋頭歌もある。しかしこれはまったくの偶然だった。私が良寛を始めたのは今年の五月である。

十月二十七日(水)
千六百ニ十四 報道を読んでに「若い頃 小杉中原 南武線 通勤経路 府中は馴染み」を書いたが、矛盾に気付いた人もゐることでせう。浦和から通勤するときに、府中は経由しない。武蔵小杉と武蔵中原は、半導体時代の勤務地。電算時代は南武線沿線だが別の場所だった。そのとき武蔵野線の府中本町で乗り換へた。北府中の引き込み線は窓からよく見えた。電算時代の三年間は勤務地さへ抹消した。
良寛は 修行の寺を 去りてより 行方不明の 期間あり 私の若い 勤務地が似る
(終)

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