千六百三十ニ(和語の歌) 良寛らしくない詩を論じる
辛丑(2021)
十月三十日(土)
飯田利行「良寛詩集譯」を図書館へ返却する前に、再度読み直した。この詩集訳は、内容別に章を分けてある。改めて読み返すと、実に優れた分類である。
「六の一」から後は、良寛らしくない詩が続くため、斜め読みだったことに気付いた。そこで、文献調査は終了したにも関はらず、第六章以降を集中して読むことにした。六の一で二番目の詩
がらんとした室(へや)で独りぽつんと端坐したが/心が暗くむすばれて やすらかにならない。/そこで 心を想念の奔馬に乗せて/遠いところに ぐんゝと走らせてみた。/(中略)ふと「我れ」に帰ってみると/人生の黄昏が 現実にせまっている老いの身/その身は 何一つなすところなく/たゞ 狼狽し切っているばかりだ。

良寛の修行法には、得失両方がある。それは曹洞宗標準の修行法も同じで、もし後者が正しいなら、徳川寺社政策に飲み込まれることはなく、良寛が嘆くこともなかった。
同じやうに良寛の修行法も、この詩にあるやうな心理状態を招いた。
その次の詩は
わがこちこちの愚かさは/(中略)さむざむとした村の路を/今宵また からの鉢を拿(ささ)げては/足どり重く/帰ってゆくばかり

(1)良寛の人気は、近隣の村からではなく、江戸の書家や漢詩家からだった、(2)それなら村を廻っても食べ物は得られない、(3)村を廻る意味がないのになぜ廻ったか、(4)別の詩では食べ物をたくさん頂いて方が重いものもある、(5)不作の時季だったか。
私は(5)と見た。
貧しきを 仏の道と 悟る人 老いと飢ゑでは 心が沈む

二三五頁の
かぐわしい春の草がすくすくと生え揃い/(中略)ああ わしもまた過去の仏祖方のように/機知分別を超越らんと希う者であるのに/この美しい春の風光にすっかり心奪われ/未だ悟境のすがすがしさに 辿(たど)りつけそうにない。

辿りつけない理由を良寛は、詩的な感情にあると考へた。良寛は僧書詩を主目的、歌を副目的にした。一方で、過去の仏祖方のやうになれないと考へたのであって、僧団に属する人たちのやうに為れないとは云はない。つまり現存の僧たちよりは優れると考へた。だから二三五頁でその次の詩では「緇衣人」(訳文は「墨染めの僧」)、二三六頁の詩では緇衣僧(訳文は「黒衣の僧」)と表現する。
詩(うた)の為 辿(たど)りつけずに しかしまた 残りの皆も 境届かず

二四三頁には
家は閔川(ビンセン)の東叉た東に在り
 (今回は原文を私が書き下した)
閔は東越(福建省)のこと。この詩は鈴木文台に贈った。越後は越中や越前より東なので閔は該当するが、文台の家は信濃川の西だ。西川と云ふ小さな川はあるが、信濃川を差し置いて川の東とは表現しないだらう。信濃川の分水路は明治時代の建設だからこの当時はなかった。この詩は、文台の家を詠ったのではなく、古い漢詩の改作ではないだらうか。
二五四頁の
わしは この土地に来てからはや/(中略)近頃の人達は路で出遭うても/たがいに知らないばかりか/路上行きずりの乞食坊主かと/誰れでも見過ごしてゆく

国上山などに住んでゐれば、たがいに知らないことはないし、親が食べ物を供養する姿を見て育つ。留守が長いのかも知れない。

十月三十一日(日)
二八二頁の
詩を苦吟していると覚束(おぼつか)なく頼りなくて/(中略)こんな時大忍師がいてくれるとよかった/(中略)わしの詩を 世間びとの嗤(わら)いから庇(かば)うて/くれるような 情の厚い人はなくなった。

漢詩を理解する人は少ないから、この当時の交友は、僧、庄屋、儒学者だったことが判る。良寛の詩を嗤ふ人がほとんどだったのは、平仄を無視したためだらう。日本では不要なのだが。
二九五頁の
幼少にして漢学を学んだが/儒者となるのは嫌いだった

(中略)の後は、書き下し文を引用すると
今 草庵を結んで 宮守となる/半ば社人に似 半ば僧に似たり。

これを以って仏道を越えたと考へてはいけない。この同時は、神社が寺の管轄下にあり、仏を祀ったり神の前で読経した。
二九六頁の
驕りたかぶり酒色に浸って月日を過ごす間/多くの人たちがこのわしを陥し入れようと/すきをうかがっているのも気付かずにいた。(以下続く)

これが本当なら大変なことだ。書き下し文は
簡傲 酒を縦(ほしいまま)にして 歳時を消(すご)し/衆人 間(すき)を闚(うかが)ふも 相知らず

「酒色」は「酒を飲むことと女遊びをすること」(日本国語大辞典)だから、原文の酒を縦(ほしいまま)にする、とは意味がまったく異なる。
「多くの人たちがこのわしを陥し入れようとすきをうかがっているのも気付かずにいた」と「衆人間(すき)を闚(うかが)ふも相知らず」も、かなり異なる。後者は(1)酒が原因で円通寺を出る原因となった、(2)円通寺を出たあと、初心が鈍る原因になった、(3)越後に戻ったあと、普通の人はとかく楽をしようとするのでそれに流された、の三つが考へられる。良寛が渡航しなかったのなら(2)、渡航したのなら(3)だと思ふ。詩は最終行で
終宵 君が為に 涙 衣を沾(うるお)す。

君とは、老齢の良寛を世話してくれる多くの周りの人たちのことだらう。正確に云へば、その人たちの中で今、詩を渡さうとした一人のことだ。
三一五頁の
仙桂和尚はほんとに道に親しかった/(中略)参禅もしなければ読経もしなかった/(中略)黙々と菜園を作っては(以下略)

良寛は越後に戻った後に、これを実行した。しかし良寛には菜園も、それを食べる雲水もゐなかった。働かないことへの歎きが僅かな詩にあるが、それはこれが原因だった。
三四四頁の
少年時代を想いかえすと(中略)朝(あした)には 新豊(いろまち)を目ざして美酒を求めてゆき/暮れには 美人を酒肴にして 酔うていた。(以下略)

新豊は解説によると
長安の東にあったという花柳界

とある。つまり、良寛が自身のことを詠ったのではなく、漢詩の改作として作ったものだ。唐の時代には無かったが、その後は美人を題材とした詩が流行した。花を詠った詩と同じである。
良寛が渡航したとしても、自身のことではない。明治維新辺りまでは、還俗が厳格に行はれた。酒は般若酒として認められても、それ以外はきちんと還俗した。良寛は終生還俗しなかった。 三六四頁の
わが生涯は一体何に似ていると言えるのか

の詩で、書き下し文の
俗にあらず 沙門にあらず

は、俗ではなく、さりとて僧団で生活する普通の人ではない、と云ふ意味である。決して親鸞みたいな妻帯ではない。その根拠は、先ほどと同じで還俗しなかった。(終)

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