千六百十六(歌) 良寛の特集を始めて四ヶ月
辛丑(2021)
九月十五日(水)
良寛の特集を始めて四ヶ月を経過した。その間に読んだ本は六十冊を超える。開始して一ヶ月後の千六百(1.渡航はしたか、2.書詩歌の関係)で、書と漢詩は本奉仕、和歌は書を際立たせるための副奉仕とした。それから三ヶ月を経過し、今でもこの結論に変化はない。
変化があったのは、
1.良寛は死ぬまで曹洞宗の僧だったと思ってゐたが、宗派を超越した僧になった。
2.円通寺が、国仙の死で変化したため飛び出したと思ったが、円通寺、更には曹洞宗、国内の全宗派に飽き足らず飛び出した。国仙が印可のときの詩はそれを表す。
3.僧侶から、非俗非僧に揺らいだことが一部書籍にあり、良寛の詩にもその表現があるがあくまで表現であり、最後まで僧の立場を貫いた。

九月十六日(木)
昨日の1.から3.の根拠となるのが、法華讃の
私は「法華讃」を作った。/(中略)そこに自分の思いとぴったり合うものがあったら、/その人はただちに仏の世界に至るであろう。

この内容は一歩間違へると、自分は仏だといふ慢心になる。しかし良寛に限ってそれは無い。その根拠は清貧に生きた。飲酒は、円通寺でも行はれたから、当時の寺院での習慣と云ふことで、清貧があれば不問だ。
清貧以外に、書が有名になっても、それで収入を得たり高名にならうとしなかった。これらも清貧に含まれるが、清貧は受動、収入を得たり高名にならうとしないのは能動である。
良寛が生きた時代は 釈尊がすべての経を唱へたと 皆が考へ良寛もそれに従ひ しかしまたすべての宗派後世の作と見抜きてそれらを越える

(反歌) 良寛を釈迦直伝と云ふ人がゐたがおそらくそれは正しい

九月十九日(日)
田中圭一さんの良寛の実像は、伝記として最も信憑(ぴょう)性が高い。
長谷川洋三さんの良寛の思想と精神風土は寒山詩との関係を示した。私は更にその論を発展させ、良寛は寒山を目指した、と考へる。
良寛の一生を一直線と考へてはいけない。(1)円通寺に行った直後は、道元を目指した。(2)寺院界の堕落に失望の後は、達磨を目指した。(3)越後に戻った後は、寒山を目指した。
すべての思想は、時代とともに複雑化する。仏道もその例外ではなく、従って中村元さんの説は正しい。良寛は複雑化する前を目指した。
良寛は数千年で分流のすべての宗を統一し 釈迦の時代へ返るため模範を示し生涯を捧げ次には経典のすべてが釈迦の直説と思ふ時代に 法華讃法華転とそのほかの詩にて教義の簡素を計る

(反歌) 良寛の模範を示す生涯は釈迦直説の教義へ帰る
良寛の生涯で、飲酒は模範ではない。そのため六道を越えることはできなかった。しかし模範を示した。(終)

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