千六百(和語の歌) 良寛(1.渡航はしたか、2.書詩歌の関係)
辛丑(2021)
六月二十八日(月)
良寛には、何処で何をしてゐたのか不明な期間があり、柳田聖山さんと飯田利行さんが、清国渡航説を唱へる。私はこの説に賛成だ。その理由は、良寛について不明なことが、渡航説ですべて解決するからだ。
渡航説を否定する材料を探しても、見つからない。わざと渡航を疑ってみた。道元は南宋で法統を受けた。良寛は受けなかったのだらうか。良寛は国仙の弟子だから、新たに法統を受けることはしなかったのだらう。尤も水上勉さんによると、良寛は首座までだから嗣法の二つ手前で、法は受けなかった。
日本で嗣法まで進むことは可能なのにしなかった良寛だから、清国でも興味が無かったのだらう。渡航ですべて解決する訳ではなかった。
一つの疑問を残してすべて解決する。この当時は、渡航を云ふことはできない。本人だけではなく、親兄弟や、渡航で世話になった人たちまでも、重罪になってしまふ。そこが、道元の時代との相違だ。
良寛が 船で渡って また戻る さうすることで ほとんどの 事が解けるが 一つを除く
六月二十九日(火)
良寛の、書と漢詩は本職だ。良寛は死ぬまで僧侶だったから本職の語が適切でないなら、本趣味だ。趣味は自分だけが楽しむことだから、その語を避けるなら、本奉仕だ。
それに対し、和歌はどうだらうか。私は、書を際立たせるための副奉仕と見た。
六月三十日(水)
これまで当ホームページは、地球温暖化防止と、非西洋地域は西洋野蛮人の猿真似を止めることを主目的としてきた。これからはそれに加へて、副目的として、和歌と良寛に注力したい。
ここで良寛の副奉仕は和歌だが、私が注力する良寛は、不明の年月とそれ以降の生き方だ。つまり当ホームページの副目的は、和歌と和歌を除く良寛で、複雑になった。
良寛の 知られてゐない 年月(としつき)を 調べることは 世の役に立つ(終)
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