千六百八(和語の歌) 田中圭一「良寛の実像」
辛丑(2021)
九月十二日(日)
私は、良寛の詩歌には興味があっても、良寛の人生には興味が無かった。田中圭一さんの「良寛の実像」を読んで、その理由が判った。熱愛者たちは、良寛を大げさに書き過ぎる。
だから田中圭一さんの「良寛の実像」は、興味深く読むことができた。まづ序章の
『良寛禅師奇話』は良寛の生きた時代に近く成立したということで、もっとも信頼の置ける伝記だと一般には言われているけれど、とてもそんなふうに言えるものではない。(中略)松平定信の寛政改革と水野忠邦の天保改革の間にあって、「人倫」とか「道徳」とかいう言葉が氾濫した時代である。(中略)それはかなり倫理観のつよくにじみ出た道徳的伝記部分が多く、(中略)良寛は最初から全知全能の人とされたのである。

そして明治時代もその傾向は続き、西郡久吾(にしごりきゅうご)は
『北越偉人沙門良寛全伝』(大正三)という大著を世に問うが、(中略)その本の序で、現在(明治)の世の中を「奢侈と淫靡、軽佻浮薄」の世とみ、(中略)名利の前には友人もおとしいれるような社会である、とする。それに対して良寛は利欲に淡泊で浮世に超然たる人物であることを明らかにして(以下略)


九月十三日(月)
良寛の詩歌だけに注目せざるを得ない事情は昨日書いたが、詩歌の他にもう一つ注目したいことがある。良寛が有名になった経緯だ。
それを田中さんは解決してくれた。
偉人への飛躍のきっかけとなった出来事の一つが亀田鵬斎の良寛訪問である。(中略)江戸儒学の権威が良寛を訪ねたということは越後の孺子ゃ村名主にとって目を見張る出来事であった。

第一章から、最終の第七章に飛ぶと
良寛の生き方は(中略)交友者の多くが村の資産家や金持ちの医者だった(以下略)

これが、良寛が有名になった理由だ。このことは悪いことではない。田中さんは水上勉の
寺持ちの住持は民衆の敵、金持ちもまた民衆の敵という図式が気にかかる。(中略)己れのいる場所で最善を生きることでよいではないか、と思うのである。

同感である。

九月十四日(火)
以南は
癇癪もちで権威をかさにきて、ささいな恨みを弱い者に向かって発散するような陰険な性格の持ち主であった。

そして良寛は光照寺に行ったのではなく、家出だったとし
越後蒲原紫雲寺にあった曹洞宗観音院の僧、乞食宗竜を訪ね参禅した。この間だれが良寛に空堂を世話し、だれが良寛に宗竜の道徳高きことを語ったのか。そこに私は、新津の大庄屋で自分の屋敷内に円通閣を建ててふかく円通寺派曹洞宗に帰依した桂誉章の影をみる。そして桂誉章こそ橘屋の婿として良寛の母おのぶと最初に結婚し(中略)ニ、三年の月日を出雲崎でおくった人物、名跡新次郎であった。

良寛の生まれた年は、今でも不明である。しかし
文化・文政の頃ともなれば、大庄屋クラスの家で人の出生年や没年がわからないというようなことは一般には考えられない。

貞心尼の「はちすの露」について
良寛は二十二歳のときに出家したと書きながら、なぜ同時に十八歳と書いたのであろう。(中略)かくして私は、栄蔵(良寛)の誕生は公式には宝暦八年とされるが、事実は宝暦四年の十二月だったのではないか、と考えるに至った。

宝暦四年だと、良寛の実父は以南ではなく、桂誉章になる。
良寛は 生まれながらに 変はっては おらず家での 難しい 事に耐へかね 家を捨て去る

(反歌) 難しい 家が作った 仏の子 名は広がりて 今でも続く


九月十五日(水)
田中圭一さんの「良寛の実像」を読んで、安心した気分になった。これなら良寛の一生を調べることも必要だ。今までの著作がひどすぎた。
もう一つ安心した理由がある。良寛は普通の人だったことが確認できたからだ。普通の人が、家の事情で飛び出した。後に出家し、しかし寺でも幕府の寺社政策による堕落に失望した。五合庵の生活が、自然に親しむ書詩歌の名人、良寛を作った。(終)

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