一四九、東京大学教授林香里氏の愚論を批判
平成二十二年
十二月十五日(水)「二人の林香里氏」
林香里氏を検索エンジンで調べると二人いる。今回批判するのは一番目に検索される女性ではなく二番目の東京大学教授のほうである。
東京大学教授のほうのどこが悪いかというと、まずは神奈川新聞の記事である。
十二月十六日(木)「目的のない留学は有害」
留学とは、その国の優れた学術を学ぶためにある。ところが林氏は留学そのものを目的としている。これは留学ではない。西洋化人間製造戦略の一環である。だから林氏の想定する留学先は欧米ばかりである。世界は欧米で構成されているわけではない。その発想がまず戦前の列強志向と変わらない。留学するとすれば日本と長い文化交流の歴史を持つアジア諸国から学ぶべきだ。そして英語で学んではいけない。それではアジアで学んだことにはならない。
今の日本は西洋文化が入り過ぎて社会不安を引き起こしている。しかも社会学者は西洋に目が向いて日本の社会に役立たない。こういう偽学者どもは大学から放逐すべきである。
十二月十七日(金)「公共性で身構える林氏」
林氏は「マスメディアの公共学」という論文で次のように述べる。
筆者はマスメディアの関連で「公共性」が言挙げされると、つい身構えてしまう。
その理由は「公共性」が情報化社会の規範的理念として重要だと認めるが、大手メディア企業の既得権益の言い訳に使われたり、クリエイターやジャーナリストの創造力萎縮を招きかねない「戒めの言葉」となるからだという。
この部分は一見何でもないように見えるが、巧妙に誤魔化している。まず林氏はこの前で公共性を重要だと認めると言っておきながらまったく認めていない。大手メディアの既得権益という誰もが反対しそうなことをまず述べてから、クリエイターやジャーナリストの創造力萎縮となるという。つまり「公共性」に反対だというのが林氏の本心である。だったら最初から反対の理由を述べればよいのに身構えたり規範的理念として重要だと認めるふりをする。実にずるい書き方である。
十二月十八日(土)「公共性と創造力」
明治維新以前は今よりはるかに自由が制限されていた。しかし優れた文学や絵画が多い。そして今よりはるかに公共性があったはずである。だから公共性が創造力を萎縮させるという主張は間違っている。余談だがクリエイターという珍妙な単語を用いる人は大学教授には不適格である。
ここで明治維新以前に優れた芸術の多い理由は時間が長いためである。昔だって駄作は多かった。しかしそれらは淘汰され優れたものだけが残った。長い時間が優れたものを生む。西洋かぶれの人間はそのことがわからない。西洋はそれ自身長い。しかし西洋の真似をすれば短い。
十二月十九日(日)「自由を考える」
林氏は更に次のように述べる。
・歴史的には第一義的に「公共性」より「自由」が主要な価値概念となってきたことをおさえておこう。
・しかし20世紀初頭から続く過剰な報道合戦を経て、米国ではついに1947年、「プレスの自由委員会」が招集された。
この委員会の目的は、商業主義に陥り、無責任な報道をするメディア企業に自由を制限することが可能かどうか(中略)検討することだった。
独裁主義に対抗するために自由を叫ぶことは尊い。しかし自由を獲得した後は自由が変質する。林氏はそんなことも気が付かないのか。奇しくも林氏は米国の例を紹介しているが、日本の現状を見ずに欧米の猿真似ばかり繰り返すから、こういう間違いを犯す。
十二月二十日(月)「他文化多言語に見る林氏の珍説」
林氏は次のように主張する。
NHKの場合、これまで「視聴者=日本語を話す日本人」を当たり前の前提として番組を製作しており、多文化多言語化が現実的になっている日本社会でもNHKの制度理念が再び問われている。
日本に住む外国人は、日本では日本語が話されるという前提で入国した。NHKが日本語で放送するのは当たり前である。ところが林氏はこの前提を認めようとしない。アメリカは移民国だからいろいろな言語が話されている。アメリカのケーブルテレビではいろいろな言語のテレビ番組も存在する。林氏はアメリカの猿真似で言っているのだろうが、アメリカだって日本で言えば1チャンネルから12チャンネルに当る地上波の放送局は英語である。ましてや地球温暖化の現代にあって移民国が許されるのかどうかが今後は世界問題となろう。
十二月二十一日(火)「結論のない論文(一)」
林氏はこの後、リップマンとデューイを取り上げたり、ステークホルダー方式のジャーナリズムに言及したりしているが、結論ではない。つまり欧米の真似や紹介だけに終った。だから国内問題の解決には役立たない。
次に「ジャーナリズムに見る文化作用」という論文を見てみよう。
ジャーナリズムの世界にとって、「文化」という概念は居心地が悪い。
まず前回の「身構えてしまう」といい今回の「居心地が悪い」といい、こういう曖昧で偏向した言葉を用いていいと思っているのか。
十二月二十三日(木)「結論のない論文(二)」
この居心地の悪さは、ジャーナリズムが社会を見る目として、科学的「客観性」というエピステモロジー(認識枠組み)を積極的に取り入れていった歴史に由来するだろう。
これは完全に間違っている。日本のジャーナリズムだって文化重視の人もいれば文化軽視の人もいる。それは欧米も同じで一般に保守と進歩派に分けられる。保守は文化重視、進歩は軽視と考えられているが、経済と文化は別のものだからこのような組み合わせは適切ではない。例えば自由主義で文化軽視なのに保守を自称する人は多い。しかしこれは正しくない。
さて日本などアジアは事情が更に複雑である。自国文化尊重派と欧米の保守派を真似した勢力は正反対の立場である。そして欧米の保守派は今述べたように二つに分けられ自国文化尊重派も経済では二通りに分かれるから合わせて保守を自称する人だけでも四通りになる。それに保守を自称しない勢力が加わる。これらが国際情勢や国内政党別に集合するから、アジアでは文化軽視が有力になる。
アメリカは事情がこれらとは更に異なる。元々文化がない。
十二月二十四日(金)「人間の家畜化」
人間と動物の違いは何だろうか。人間は本能のほかに文化を持つ。文化には道徳も芸術も宗教も含まれる。これが違いの本質であろう。宗教を文化の中に含めると外来宗教は認められないのか、と心配する人もいよう。しかしその心配はいらない。外国の宗教を受け入れたことのない国はない。宗教を受け入れてきたという文化の一環として外来宗教も歓迎される。しかしその国の文化を破壊するものは駄目である。例えば「私が所属する教会の牧師さんはアメリカ人なんでーす」とか言って英語交じりの日本語を話す信者がいるとすれば、そういう教会は駄目である。
人間と動物の別の違いとして、人間は言葉を話す、ということを挙げる人もいよう。しかし言葉は赤子が成長すると自然に身に付く。人間の大脳はそのように出来ている。つまり言葉は文化だが話す能力は本能である。
ところが林氏は一旦はジャーナリズムの世界にとって文化は居心地が悪いと言っておきながら文化の定義を変質させることも試みている。
「文化」に対するこのような(「文化的なるもの」を削ぎ落としていった)態度には「文化」を人間の外側にあるものとして捉える思考方法が認められる。その一方で「文化」には人間の生を掌握し規定する「場としての文化」あるいはレイモンド・ウィリアムズが述べたような価値判断の基準をつくる「生活の仕方」(way of life)そのものであるという生の本質的要件として捉える方法があることを想起したい。
この林氏の主張には徹頭徹尾反対である。もしこのような再定義を認めたら、動物にも文化があることになる。人間の家畜化である。
十二月二十五日(土)「株式会社と従業員」
ジャーナリズムで「文化」を居心地悪くさせている原因として、「言論・表現の自由」という権利が関与されていることは指摘しておくべきだろう。
林氏は言論と表現の自由が何のためにあると思っているのか。社会をよくするためだろうが。ところが林氏は公共性に身構え、公共性と自由を対峙させ、文化は居心地が悪いという。
まずジャーナリズムは株式会社が経営している。つまり営利目的である。従業員は給料を目的としている。そして新聞社など大企業にあっては社内での出世も目的としている。つまり経営側も従業員側も自分のことを目的としている。だから言論と表現の自由を与えても社会をよくする方向に向わない。
林氏は、公共性が大手メディア企業の既得権益の言い訳に使われることを認めているが、何か対策を考えたのか。相変わらず「自由」「自由」と叫び続けただけである。
十二月二十六日(日)「ジャーナリズムの無責任は誰の責任か」
ジャーナリズムが自由を獲得した結果、弊害も出たがこれについて
とはいえ、こうした無責任についてジャーナリストたちだけを責めるのは完全ではない。いまや(中略)社会全体に広がるものでもある。
と述べている。社会全体が無責任になったのは政治とマスコミに責任がある。そして今年九月の民主党代表選で明らかになったように選挙はマスコミの影響を大きく受ける。政治が無責任なのはマスコミが悪い。つまり責任はすべてマスコミにある。
無責任社会になった原因は欧米の猿真似にある。猿真似が悪い一つ目の理由は、都合のいい部分だけ真似をする。労働者派遣法をこれまで何回も取り上げたので今回は別のものを取り上げてみよう。ドイツ、オーストリア、スイス、北欧諸国には教会税がある。集めた税金を信者比率に応じて教会に配分する。XX教徒として届け出なければ課税はされない。日本では教会税の真似はしない。これは都合の悪い部分は真似しない例として挙げることができる。反対する人は憲法に反しているだとか信教の自由に反するだとかを言うだろうがこれは正しくない。日本に合わない理由はそういう歴史が全国的にはないことに尽きる。江戸時代までは幕府が寺社に知行地を与えたから税金の一部を分配するならまだいいが、江戸時代の宗教政策が寺院を堕落させたことを考えると、国は宗教には係わらないのが歴史から学んだ結論となる。
猿真似が悪い二つ目の理由は、西洋と日本は文化が異なる。真似をしてもうまくは行かない。だからマスコミの現時点で優先すべき公共性はこの二つにある。まずは欧米の猿真似を止めさせることであり、二番目に社会にどのような不都合が生じているかを一つひとつ地道に指摘し、我が国に合った方法を国民に見つけさせるべきである。
見つけることは学者が先頭に立つべきだが、日本の社会学者は欧米の猿真似だから役に立たない。そればかりではない。想像力が欠乏している。林氏は公共性に言及するとクリエイターやジャーナリストの創造力萎縮を招きかねないというが、想像力が欠けているのは、実は日本の欧米猿真似三流学者どもであった。
十二月二十七日(月)「模範となる日本語を」
新聞記者は文章で飯を食っている。だから模範となる日本語を使うべきだ。ところが外来語を多用するばかりか、外来語ではない単語、つまり外国語そのものをカタカナで用いる連中が多い。大学教授も同じである。模範となる日本語で授業を行い、模範となる日本語で文章を書くべきだ。しかしそうではない人もいる。例えば林氏である。
「フェミニズム、ジェンダーと新聞」という論文を見てみよう。まず特定の社会グループに関与(コミット)しないことによって(以下略)である。関与と書けば誰でも意味がわかる。なぜ関与(コミット)と書く必要があるか。日産自動車社長のカルロスゴーンは十年前に重役たちに「コミットするか」と質問した。このときは約束するか、という意味だと当時の週刊誌には載った。コミットを受動態にするか後ろにyourselfを付ければ約束するという意味になるがコミットだけでそういう意味になるのか今でも疑問である。コミットに関与するという意味があるかも疑問である。外国語を濫用してはいけない好い例、というよりは悪い例である。性差(ジェンダー)という使い方もしている。性差ではなぜいけないのか。場合によっては性差別と書き換えてもよい。genderという英語は性という意味である。場合によって変な意味でも使われるから使うべきではない。他にもニューズルーム、ルーティーン、エスニシティ、パブリックな空間、メタフォリックと珍文見本市である。ニューズルームとはいったい何だ。ニュースルームならまだわかる。ルーティーンとはいったい何か。ルーチンならまだ判る。ルーティーンという用語はゴルフとダンスにはあるらしい。
十二月二十八日(火)「日本のジャーナリズムの戦後最悪の汚点」
かつては自民党にも社会党にもアジアの連携を重視する人たちがいた。しかし社会党は解党してしまったし自民党にはそういう人が少なくなった。
代わりに日本にしつこく謝罪を強制しアジアの友好を重視するふりをしてアジアの連携を妨害するという手の込んだ連中が出てきた。朝日新聞はその代表である。「あきつ・あんてな」というページに中田安彦氏の七年前のブログを紹介している。
朝日新聞は実は新自由主義路線経済政策路線を推進する急先鋒の新聞メディアです。わたしは彼らの経済記事を丹念に読んでいますが、この方向で、強烈な論陣を張っています。
その中心ライターの一人が、船橋洋一編集委員・コラムニスト(朝日の命運を背負っている人物)です。
米国外交政策は、純然民間組織を名乗る「外交問題・評議会(C/F/R)」が政権指導に当たっています。この組織はアメリカ国籍の人しか入れないですし、入会に異常な厳しい審査があります。
アメリカの国益を考えるシンクタンクですが、なぜか船橋氏は日本人としてこの組織に属し、かつこの組織から単行本(英語)まで出しています。この組織に唯一入っている日本人は1億2千万人の日本人のうち、船橋氏この人だけです。
この組織体は、新自由主義経済政策(市場主義・競争原理・規制緩和・民営化など)を強力に推進している中心なのです。この組織に入ると、この組織とは異なる考えを表明した場合、除名され、キャリアが破壊されることになっています。
朝日新聞社説で経済政策関連は、彼が中心で書いているとみられます。船橋氏は自分がこの組織のメンバーであることを一切隠しております。公表したことがありません。彼が公表している自著のリストに上記の英語本を入れていませんが、それほど、彼は身分を隠しています)。彼の経歴紹介のいかなる部分にも、この事実はでてきませんが、この組織のホームページに行って、彼の名前で検索すると、一発で、正規メンバーであることが判明します。彼はとぼけ続けていますが、米英支配層の手駒の一人です。彼は、朝日で大出世するか、ハーバード大学あたりで教授職をえるか、米英支配層から厚遇を受けることは間違いありませんので注目していてください。
朝日新聞はその後三十年ぶりに主筆を復活させて船橋を就任させ、船橋は今月十五日の定年退職まで長期に亘って社長と同格の権限を有した。
林氏はジャーナリズムが専門なのだからこういう事実こそ指摘すべきではないのか。しかし林氏にはできない。林氏自身が船橋と同じ立場だからである。『「冬ソナ」にハマった私たち』という林氏の書籍を見てみよう。
十二月二十九日(水)「アジア分断の陰謀にハマった林氏」
韓国政府ならびに韓国国民は再三再四日本側の植民地化の歴史に向ける眼、そして戦後の日本による歴史問題の処理の仕方に怒りと不満を表明してきた。その一方で、日本政府はこれらの歴史問題は、一九六五年の日韓条約よる国交正常化を通して基本的に解決済みとして対応してきた。
これは間違っている。韓国も日本も一九六五年の国交正常化の後は輸出入や観光など交流を重ねてきた。韓国の若者で日本に留学する者も多い。日韓の友好を壊す二種類の日本人がいる。一つは戦前の併合を美化する人たちである。かつては閣僚でこういう発言をする人が出てその度に日韓関係が悪化した。しかし最近は少なくなった。代りに出てきたのがやたらと日本に謝罪を強制する変な日本人である。このような連中は日本の西洋化とアジアの分断を狙っている。林氏は次のように主張する。
(J・ナイは)日本は二十世紀初頭に海外を侵略した歴史をきちんとした清算をしていないため(中略)というのだ。すなわち、日本はアジアの近隣諸国に心から賞賛されるようにはなっていない。
J・ナイはアメリカの元国防次官補である。アメリカ大陸の先住民を分断して互いに対立させ滅ぼしたように、アジアを分断しアジア文化を滅ぼすのがアメリカの戦略である。ここ十年ほどで突然現れた日本に謝罪を強制する変な日本人の源流がアメリカ国防省にあることがこれで明らかになった。
十二月三十日(木)「世代を超えた文化共有と善を無視する林氏」
林氏は「公共放送としての位置価」で次のように述べる。
「公共性」の名のもとに、社会の論争的問題への積極的な関与は回避されてむしろ社会の基本的共通ニーズだけが番組として生き残る可能性が高い。具体的には、天気予報や国および自治体のお知らせ、大事件・事故・災害の速報、あるいはひょっとすれば、誰もが楽しめる娯楽(そういうものがあればの話だが)などもここに入るかもしれない。
ここで問題となるのが誰もが楽しめる娯楽(そういうものがあればの話だが)である。林氏はジャーナリズムが専門なのだから誰もが楽しめる娯楽を提言すべきだがそれが出来ていない。そればかりか括弧内の言い方からすれば誰もが楽しめる娯楽はないというのが林氏の本音であろう。
誰もが楽しめる娯楽とは世代を超えて楽しめる娯楽である。夏の盆踊り、民謡、浪曲、講談、俳句、和歌、漢詩などたくさんあるではないか。戦後の日本は世代の文化継承を無視した。
林氏は続けて次のように述べる。
しかし(中略)局所的な思想や文化が、二次的な扱いを受けるか、あるいは排除される可能性もある
林氏はまず局所的な文化を心配する前に全体的な文化を心配すべきだ。国内の一例を紹介すると革新系の集会ではここ十年ほど沖縄の歌やアイヌの踊りをよく出演させる。その前にまず民謡や浪曲を上演すべきなのだが。これとよく似ている。革新系の場合はソ連の官僚化と中国の文化大革命の失敗とソ連の崩壊の後は目標を失いやむを得ない面もあった。しかし林氏は朝日新聞の社説ではないのだから無責任な態度では困る。
このような基礎的な「公共性」の追求、つまり、「誰もが異論を唱えない」基準を追求していくならば、社会で伝統的に支配的となってきた価値が(中略)普遍的公共性だと宣言されてしまう危険性も生じる。
そのような価値として典型的なのは現実の社会の複雑さを考慮せずに安直に語られる善の構想、つまり道徳(モラル)が考えられる。
現実の社会の複雑さを考慮せずに安直に欧米を猿真似し、しかも平衡を考えずに自由、自由と叫んでいるのが林氏ではないか。それは次の文章にも表れている。
NHKの目標とするオープン・エンドな「公共性」が追求されていけばいくほど、NHKは「自由」を切り開いていく回路を見失い、「社会的包摂」の原動力となる活力も奪われてしまうのではないかという懸念である。
十二月三十一日(金)「時間の経過による平衡」
林氏が道徳に拒否感を示すことに理解ができない訳ではない。戦前の硬直した道徳が国を滅ぼしたからである。しかしあれは明治維新の後に欧米の猿真似をして天皇一神教とでもいうべきものを造った。実際には国民が政府に逆らわないようにしただけで、道徳の欠如が戦争を引き起こしたと考える者は多い。
日本には仏教、儒教などで道徳が平衡状態に達していた。最近「英語より論語を」という藤原正彦氏と宮城谷昌光氏の対談が文藝春秋に載ったが同感である。日本は長いこと論語を学んだがそれで国は不安定にはならなかった。一方で人も組織も制度も時の経過とともに堕落する。平衡と堕落の平衡を保つことこそ社会学者の使命ではないか。
一月六日(木)「マスメディアのリアリティ(一)」
林氏に「マスメディアのリアリティ」というニクラス・ルーマンのドイツ語を翻訳した書籍がある。まず日本国内で英語、英語と九官鳥の如く繰り返す輩がいるなかでドイツ語の翻訳は立派である。しかし古くは英語とドイツ語は方言同士であった。後にイギリスはノルマン人の征服でフランス語が公用語になった。英語の文法が崩れ男性、女性、中性の区別がなくなったり名詞と冠詞に格がなくなった。のちに英語が公用語に復活したが崩れは回復しなかった。
もっとも文法が崩れるのは低地ドイツ語の傾向かも知れない。オランダ語は低地ドイツ語の一つである。低地ドイツの出身者に、ドイツ語とオランダ語の違いを質問したところ、ドイツ語は文法が極めて厳格だと答えた。オランダ語は戦後に男性と女性の区別がなくなった。だから今でも英語とドイツ語は方言同士である。
一月八日(土)「マスメディアのリアリティ(二)」
十年前にドイツのギュータースローという町に一ヶ月間出張で滞在した。デュッセルドルフから近郊列車に乗って1時間半ほどの小さな駅で、一つ先にビーレフェルトという中小都市がある。だからビーレフェルトに滞在した、と普段は言っている。そうしないと聞く人がわからない。ニクラス・ルーマンはそのビーレフェルトの大学で定年を向えた。
林氏の「マスメディアのリアリティ」は日本のマスメディアにほとんど役に立たない。一つには西洋の学説はそのままでは日本に当てはまらないし、二つには翻訳がわかりにくい。例を挙げてみよう。
マスメディアから得られた知識は、ひとりでに強化するかのごとく、自分の構造へと再びつながっていくからである。
この翻訳が難解な理由は赤で書いた部分である。後を読むと、自分とは知識のことだと判る。つながっていくというのはドイツ語の動詞の多数ある意味のうちの選択が最適ではなかったのであろう。つまりこの文章は別段大したことを言ってはいないが読むのに時間がかかる。
日本の社会科学の学者は社会の役に立たない上に、わざと難解なことを言って権威の高いふりをしている。
日本の学者に言いたいことがもう一つある。自分の著書で授業をするのはやめるべきだ。給料をもらう上に印税で稼ぐのは二重取りだ。しかも駄本がほとんどである。授業で使わない限り一般の人で買う人はほとんどいない。文部科学省はそんなことも取り締まらずに今まで何をやってきたのか。日本に西洋式の学校制度ができて百四十余年。かなりゴミが溜まっている。大学と文部科学省を廃止しその後に日本にあったものを作るべきだ。社会学者は社会に放逐し、自分の学説が社会で役に立つか肌で感じさせるべきだ。
一月十四日(金)「文化の補足」
最後に、文化の下に宗教などがあり、外来宗教を受け入れてきたからXX教などの自由は保障すべきだと述べたことについて補足しよう。
漢字も外国から入ってきたのだからカタカナ語も無制限に受け入れるべきだという反論が出るだろうからそれへの補足である。
漢字は長い年月をかけて入ってきた。声調は取り入れず返り点をつけるなど多くの先人が工夫を重ねてきた。だから漢文や漢詩は日本文化の一部と言ってもよい。現代中国人がどう感じようと、或は唐や隋の時代の人がどう感じたであろうと、日本人が好いと感じればその漢文や漢詩は日本では優れている。
一方明治以降の外来語はどうか。数世代の間に急激に流入し、しかも同じ意味の日本語があってもカタカナ語を用いる連中がマスコミと猿真似学者に多い。
私は外来文化の流入そのものに反対しているのではない。余りに度が過ぎている。そんなことさえ気が付かないのがマスコミと猿真似学者どもである。(完)
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