一五〇、簡易正假名遣ひと簡易文語のすすめ

平成二十二年
十二月二十三日(木)「正假名遣ひと文語」
日本では古來正假名遣ひが用ゐられてきた。ところが昭和二十一年に新假名使ひと云ふ變な書き方が出てきた。

文語も日本に漢字が入つて以來用ゐられてきた。明治以降に言文一致運動もあつたが、その後も國民に親しまれてきた。しかし文語も戰後に廢止された。しかし長く用ゐられたにはそれなりの理由がある。
文語の廢止に就いて言へば、これは東京辯の全國への押し附けであり許しがたい。今こそ正假名遣ひと文語を復活すべきである。

十二月二十五日(土)「まるやるま君を使はう」
まるやるま君と云ふサイトがある。まるや君とやるま君の二つの機能がある。まるや君は新假名遣ひを正假名遣ひに、やるま君は正假名遣ひを新假名遣ひに變へてくれる。
これは便利である。これを利用して正假名遣ひを復活させよう。 コンピュータの發達とともに正假名遣ひを復活させることができる。

十二月二十六日(土)「簡易正假名遣ひと簡易文語のすすめ」
パソコンがなかつたらどうするか。インターネットにつながらなかつたらどうするのか。それが今囘提案する簡易正假名遣ひである。
すべてを正假名遣ひにする必要はない。できるところから始めよう。とくに「は」行と「わ」行を正假名遣ひにすると美しい日本語になる。

十二月三十一日(金)「文語はなぜ必要か」
これより簡易正仮名遣ひと簡易文語で書いてみよう。
口語は人間関係を大切にする言語なり。しかして口語で書くは冗長となる。曖昧となる。文章は文語体が合ふと言へどもできるところから始めるが肝要なり。
口語文を常用するは過去と不連続となる。万葉集や平家物語や伊勢物語は別の世界となる。宮沢賢治は法華経を読み身が震えるほど感動したといふ。今我々が法華経を読んでも別に感動することなし。そは口語版を読むがためなり。明治時代にキリスト教に改宗したる日本人多しと言へども、文語体の聖書を読みしためなり。とは言へ今文語体の法華経や聖書を読むは違和感を生ず。そうならざる為にも文語を復活すべきに非ずや。

一月八日(土)「文化の復活」
文法を文語と口語に二分するデジタル発想はよくない。実際には両方が混じる。例えば下二段活用と下一段活用に二分するのではなく書いて語感のよいほうを用ひればよい。
文語を復活すれば各地の方言も復活する。正仮名遣ひを復活すれば戦後に不連続となつた文化も連続する。
パソコンは文語と正仮名遣ひを使へるようにすべきだ。二十年以上前に埼玉大学文学部にワープロソフトの新バージョンが発売されるやすぐに正仮名遣ひを辞書登録し早速使ふ熱心な教授がゐた。当時私はパソコンとワープロの開発を行ふ事業部に勤務してゐた。その教授は富士通製のワープロの熱烈愛好者で事業部に一度来られたことがある。私のところにも来た。知らない人が挨拶するので誰だろうと思ひながら挨拶して、後に富士通のパソコン掲示板で有名なあの教授だつたのかと判つた。
パソコン時代の今こそ正仮名遣ひと文語を復活できる。


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