百十七、動的社会科学のすすめ(資本主義以前、資本主義、社会主義を超えるには)

平成二十二年
一月九日(土)「資本主義以前、資本主義、社会主義を超えるには」
資本主義以前の一族経営から見れば、資本主義は民主的な経営に見えたに違いない。しかしすぐに労働者は過酷な生活に直面した。そしてその次には社会主義思想が現れた。しかし社会主義経済は自壊していった。そして資本主義は新自由主義に突入した。しかも資本主義は地球を滅ぼそうとしている。

資本主義以前と資本主義と社会主義の三つを超えるには、人間は堕落する動物だということをまず自覚する必要がある。

一月十日(日)「ランチのお店の例え」
民主党の本部の横に味がよくて安くて健康によくて種類が豊富で座席もたくさんあるランチの店があるとしよう。しかしこの店の系列店で名ばかり店長が過労死し裁判になっている。この店の隣には味と値段がほどほどの店もある。民主党の職員は昼休みにどっちの店に入るだろうか。99%は安いほうに入るであろう。なかには過労死裁判と関係がある職員がいて隣の店に行くかも知れない。しかし給料日前のお金のないときには安いほうに行くはずである。そればかりではない。目と鼻の先の社民党本部からも職員が安い店に来るであろう。
これが人間の現実である。

資本主義以前と資本主義と社会主義を超えるには、動的社会科学ともいうべき思考方式が必要である。

一月十一日(月)「堕落と改革の繰り返し」
江戸幕府というと、贅沢な将軍、参勤交代、幕閣による官僚政治などが思い浮かぶ。しかしこれらは家康の作った幕府そのものではなく、幕府の堕落した形態と言える。最初は織田信長や豊臣秀吉の晩年よりまともな政治をしていた。初期における多数の大名の改易も、幕府の短期政権を前提とした人材の流動化と世襲制への対抗とみることができる。
歴史を更に遡れば、平安時代の末期に貴族は堕落していた。その次に現れた平家は人柱を止めさせるなどの功績はあるがすぐに堕落した。その次の源氏は京都から遠い鎌倉に幕府を作ったが頼朝の死後にすぐに堕落した。後醍醐天皇は幕府を倒したが側近がすぐに堕落した。足利が幕府を作ったがすぐに堕落した。

歴史はすぐに堕落する人間とそれへの改革の繰り返しであることがわかる。資本主義と社会主義もそのような視点から見る必要がある。

一月十二日(火)「重力と堕落は目に見えないが存在する」
重力を考えないと星の運動の理論は複雑になる。重力を考えれば簡単になる。重力と同じように人間は堕落するものだということを考えれば、従来の社会科学とは別の理論を多数考えることができる。
人間はなぜ堕落するのだろうか。それは理性と本能の二つを持つことによる。朝は早く起きたほうがいいが、いつまでも寝ていたい。地球保護のために自家用車は使うべきではないが、歩きたくはない。この理由で堕落する。

一月十三日(水)「資本主義と共産主義の対立」
資本主義と共産主義の対立もこの理論で説明することができる。資本主義者は共産主義ではなく共産主義の堕落したものを批判するし、共産主義は資本主義ではなく資本主義の堕落したものを批判する。両者とも資本主義と共産主義のよいところを採ることなくソ連崩壊まで冷戦が続いた。

それではなぜソ連は崩壊したのに資本主義は崩壊しなかったのだろうか。資本主義では堕落した会社は生き残れない。その結果、新しい会社と経営陣が次々と現れ堕落を克服したのであった。一方の共産主義は克服できなかった。

一月ニ十八日(木)「民主主義も堕落する」
民主主義も堕落する。そのことを知らないと悪政を見逃すことになる。
民主主義とは、すべての有権者がよい社会を築くにはどうしたらよいか、と知恵を絞り合うことである。ところが今の選挙を見てみよう。既得権を守ろうとする勢力ばかりだ。少なくとも経済団体、労働団体、宗教団体による推薦は禁止すべきだ。

一月三十日(土)「資本主義の堕落を防ぐには」
新自由主義とグローバリズムと地球温暖化は資本主義の堕落した行き着く先である。しかしこれらに至らないまでも堕落した資本主義には問題点が多い。それを防ぐには 西洋では、各国が独自の資本主義を発展させている。例えばドイツでは監査役を労働組合から選出する規定がある。日本では企業別労組だから、このやり方は適切ではない。今挙げた四つを行うべきだ。

ニ月ニ日(火)「明治維新」
幕末の政治はよくなかった。あのままでは日本は欧米の植民地になっていたであろう。水戸や薩摩や長州の浪士は憂国の士と言える。その一方で、幕府が大政奉還したあとの薩長はよくない。権力を目前に堕落したのであろう。坂本竜馬の死で憂国の士は途絶えたと言える。
今年の大河ドラマはその坂本竜馬である。しかしこのドラマは出来がよくない。第一回目の冒頭は勝負どころである。その勝負どころになぜ岩崎弥太郎の暗殺未遂というつまらない話を持ってくるのか。岩崎弥太郎が暗殺されたのならまだしも、実につまらない話である。あれで私はスイッチを切った。
たまたま第一回目だけ出来が悪かったかも知れない。もう一回先週の土曜に第四回目をみた。竜馬が生まれて初めて江戸へ来て賑わいに仰天するという出だしであった。江戸で商人や職人の賑わいに感心するのならわかる。口から火を吐く見世物になぜ竜馬が驚くのか。江戸の街でそんな縁日みたいなことを毎日やっていると思っているのか。それよりひどいのは番組開始時のテーマ音楽に合わせて日本語の次に英単語が五つくらい出てくる。外国人にも見てもらうように英語や中国語や韓国語を入れるのならわかる。あの英単語は日本人向けに出している。時代劇の日本人向けの英単語は国恥である。NHKは相当堕落している。受信料は廃止したほうがいい。

ニ月四日(木)「もっともまともなNHK」
偏向がひどい大手新聞社、特に最近、鳩山政権を何とかしてつぶそうと必死になっている産経、読売に比べればNHKはまともである。しかし昭和五十年あたりにNHKは既に駄目になっていた。まずは番組紹介である。見たい番組を探せるような紹介であれば視聴者のことを考えているといえる。しかしあの番組紹介はいったい何だ。あの制作費と電波発信経費は本来は番組関係者が私費で払うべきである。それでも当時はまだよかった。BSの番組紹介をなぜNHK総合でやるのか。BSは独立採算にしてその費用でやるべきだ。

大河ドラマもそのころから駄目だった。一年分に引き伸ばすためのつまらない話をたくさん入れるようになった。演出は何をやっているのか。自分の名前をテーマ音楽の最後に大きく載せる必要はない。出演者以外は裏方に徹するべきだ。

ニ月六日(土)「官公庁と公共事業体に目立つ英語かぶれ」
二十年ほど前までは民間企業の商業施設には横文字のものがあっても、官公庁や公共事業体は何々会館だとか古風を保っていた。そこが役所の良さでもあった。ところがその後、役所が率先して変な名前を用いるようになった。民間でももちろん用いてはいるが、うまく行くも行かないも自己責任である。「和民」や「華屋与兵衛」のように古風を売り物にするものもある。役所に古風な名前を付けられるか。付けられないであろう。役所が堕落すると必ず欧米かぶれになる。
NHKについても報道番組は別にして、その他の番組は英語かぶれがひどい。英語を勉強するのはよい。私だって今でもNHKラジオの「やさしいビジネス英語」は聴いている。しかし英語かぶれはよくない。英語かぶれは文化破壊即ち社会破壊につながる。

ニ月八日(月)「日本資本主義の堕落の過程」
日本の資本主義は残業と下請けで帳尻を合わせている。

長時間残業やサービス残業が起きる理由は人事発令制度の堕落である。管理職や役員の役割は下請けを含む従業員が幸せになりなおかつ企業が利益を上げられる人のことである。ところが日本では、部下をこき使い過労死やうつ病や退職で利益を上げる連中ばかりが管理職や役員になる。なぜなるかは長時間残業やサービス残業のご褒美で出世するからである。日本の資本主義が利益を上げる秘策である。
日本は貿易黒字を減らすことがここ三十五年の課題となっている。黒字の元凶もここにある。残業を原則禁止すればほとんどの問題は解決する。

ニ月十日(水)「輸出規制こそ鳩山政権浮上の秘策」
貿易赤字のときは輸出の促進が重要である。その逆で、貿易黒字でそれも国内の農業や製造業がやっていけない為替レートのときは、輸出税と残業の原則禁止で貿易黒字を抑制すべきである。今までの自民党長期政権はこんな簡単なことさえできなかった。利権勢力に取り囲まれ堕落していたからである。鳩山政権は中期的には輸出規制で国民の信頼を取り戻すべきだ。その前に輸出規制はどれだけ国民のためになるかを広報する必要がある。
輸出規制はこれだけ世の中のためになると、輸出企業の経営陣や輸出企業の労働組合が納得するような広報を、民主党はすべきである。

ニ月十ニ日(金)「長幼の序」
長幼の序は堕落し易い。「長」がゴリ押しやわがままを通すからである。しかし本来は長幼の序は「長」にとり大変な制度である。
堕落させない長幼の序を復活させる。これが今の日本を復活させる鍵である。ここで長幼とは年齢だけを指しているのではない。思想の長幼、志の長幼、努力の長幼もある。

人は堕落するがその度合いは異なる。権力者はもっとも急速に堕落する。今までの自民党はこれに当たる。独立し干渉を受けない組織は二番目に堕落する。戦前の軍部や戦後の官僚組織はこれに当たる。欧米の猿真似で作られた制度は三番目に堕落する。大学の文系教授や弁護士や医師はこれに当たる。その他四番目や五番目があって、最後に一般庶民も堕落する。堕落の速度は各々異なる。ここが重要である。
権力者だけが堕落すると考えるのが自由主義だし、誰も堕落しないと考えるのが民主主義だし、一般庶民は堕落しないと考えるのが共産主義だし、三番目だけは堕落しないと考えるのが丸山真男である。

ニ月十四日(日)「改革ではなく堕落の是正を」
一時は「改革」という言葉がはやった。改革には重大な落とし穴がある。何でも新しいことがいいと勘違いしてしまうことだ。改革すればよくなることもあるし悪くなることもある。確率は五分と五分である。大切なことは改革ではなく堕落の是正である。江戸幕府が倒れたのも、明治政府が戦争で敗北したのも、黒船やマッカーサーというアメリカの圧力があったとはいえ、改革ではなく堕落の是正であった。堕落した幕府、堕落した軍部と政治家を是正したのである。
一方で環境の変化に合わせて変化しなくてはならないことも多い。特に民間企業では変化に乗り遅れると存続にかかわる。世界各国は、短期的には変化に合わせながら、長期的には変化しない環境を取り戻すべきである。先祖代々漁師をしている、農業をしている、商人をしている、職人をしている。そういう世の中が一番いい世の中である。

職業を変えたい人は自由に変えられることはもちろん必要である。


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