百八十二、曽野綾子さんの講演を聴いて
平成二十三年
七月十一日(月)「ブツクフエアの講演」
昨日ブツクフエアで曽野綾子さんの講演を聴いた。近代の地球温暖化は限度を超へてゐる。永続可能な文明に戻すためにはアジアにあつては仏教、儒教、道教、ヒンドゥー教、イスラム教、西洋にあつてはカトリツクに負ふところが大きい。一方で曽野さんは拝米の産経新聞に近い。
講演ではカトリツクが出るだろうか拝米が出るだろうか。期待と不安を持つて参加した。
七月十二日(火)「カトリツクの大時代性」
残念なことに曽野さんは後者だつた。私がカトリツクに期待する最大の理由は産業革命や大航海時代以前から存在するが故に西洋において石油文明を停止する先端となり得ることである。しかし曽野さんの講演からはカトリツクの大時代性がまつたく感じられなかつた。
講演では英単語を三つと英文を三つ言つた。一時間半の講演で英単語三つは少ないほうだが作家としては失格である。一方で英文はアフリカ人やアラブ人と話した内容だが船橋洋一ではあるまいし英語公用語みたいなことは止めるべきだ。
カトリツクとしてラテン語で話すならまだ分かる。英語では神がバベルの搭に怒つて言語を分けたことに反しよう。
七月十七日(日)「大江健三郎」
曽野さんは講演の前半で、大江健三郎が沖縄戦で軍が集団自殺を命令したと書いたことについて、現地の島を訪問しその場にいた人たちの話を聞きそのような命令はなかつたことを話した。大江健三郎は「悪の巨魁」と書いたが、皆ほどほどの人で悪の巨魁はゐないと曽野さんは語つた。私も同感である。
大江健三郎は平和主義者ではない。敗戦嫌悪主義者である。敗戦は悲惨に決まつてゐる。なぜ戦争になつたのかその原因を調べて二度と起こさないことが重要ではないか。戦争に勝ち続けてきたのは米英である。その米英の猿真似を繰り返すのが、戦後にあつては大江をはじめとする自称知識人であり、戦前にあつては軍部や政治家や新聞社であつた。
七月十八日(月)「日本は天国に近いか」
曽野さんはアフリカを例にとり、皆さんの中で食べるものがない人はいるか、と手を挙げさせ誰もゐないことを確認した上で、日本は平等で天国に近い国だと述べた。これには三つの理由で反対である。
まず先進国が豊かなのは化石燃料を浪費するからだ。家庭ゴミを見てみよう。プラスチックが半分近くを占める。これらは石油から作られる。食料も石油消費と農薬により作られる。先進国は地球破壊を行ふ悪魔にもつとも近い国である。
二番目に生活は周囲に合せる必要がある。アフリカでは食べ物があれば普通なのだろう。日本では子供を義務教育だけで社会に送り出すことはできない。義務教育を受けたのに社会に出て仕事がないのは不自由な国だし親にも過大な負担をかける。不自由な国だがしようがない。
三番目に曽野さんは「百二十何カ国しか行つたことがない。世界は二百何十カ国ある」といふ言い方をしてからアフリカを紹介した。まづ「百二十何カ国しか」といふ言ひ方にほとんどの人は驚く。庶民と感覚がずれてゐる。アフリカでは神父とともに活動することもあるそうだが、これは良し悪しである。アフリカに安定した宗教があればこれを育てることをカトリツクやアジアの仏教界やイスラム諸国やヒンドゥー教やアジア共産主義諸国や儒教道教は総力を挙げて行ふべきだ。
日本の仏教界にも言へることだがカネにモノを言はせて非先進国に大きな宗教施設を作るのは止めるべきだ。その国に溶け込み平衡状態に達するには長い年月がかかる。それよりその国の宗教を育成したほうか住民のためになる。カトリツクが医療活動でアフリカに貢献し曽野さんもそれに参加されたそうだか、そういふ活動ならおおいに賛成である。
七月二十日(水)「古典主義とカトリツク」
YouTubeやニコニコ動画で私が最もよく視聴するのは、モーツアルトの「ハレルヤ」と日本の「浪曲」である。この二つの共通点は時代を超へて親しまれてきた。浪曲は明治時代に広まつたがその前に貝祭文と説経節などの長い歴史がある。だからあれだけ広まつた。
西洋の音楽について、本当のクラシツク音楽とはベートーベンあたりまで、つまり古典主義あたりまでを指すのだと思ふ。しかしウェーバーの「魔弾の射手」を聴くとやはりクラシツク音楽である。だから「古典主義まで」と言はずに「古典主義あたりまで」と幅を持たせてゐる。
古典主義の終わりから人類は言論の自由を獲得した。しかし化石燃料の消費など路線を誤つてしまつた。そして現今の地球温暖化と福島第一原発事故を迎へた。
人類はインターネツトで言論の自由を獲得した。だから過去を振り返つても暗黒の時代には戻らない。文化では古典主義の時代に戻るべきだ。カトリツクに期待する理由もそこにある。
七月二十一日(木)「マダガスカルの牛泥棒」
曽野さんはマダガスカルの牛泥棒の話もした。牛泥棒はまづ家の人を全員殺してから牛を盗むそうだ。警察に通報しても警察と裏でつながつてゐて釈放されるから、牛泥棒は射殺するそうだ。
非先進国の話をする人には二種類ゐる。その国のよいところに着目する人と、非先進性を吹聴し西洋文明かぶれを増長する人である。
曽野さんは日本財団の会長や日本郵政の取締役を歴任して後者になつてしまつたのだろうか。ちなみに私は発展途上国といふ言ひ方は絶対にしないことにしてゐる。先進国を目指してその途上にあつてはいけない。先進国とは地球を滅ぼすことについて先に進んでゐる国である。
七月二十三日(土)「民主主義」
曽野さんは、電気があるかどうかと民主主義があるかどうかは一致すると述べた。これは二重に間違つてゐる。民主主義は目的ではなく手段である。独裁の時代でよい政治を実現する一番よい手段は民主主義であつた。しかし民主主義も堕落する。
まづ西洋にあつては民主主義性の強い国こそ植民地をたくさん持つてゐた。偽善の典型である。次に民主主義が少数者の差別を強化することは欧州のユダヤ人差別、アメリカ大陸の先住民と黒人差別で明らである。
マスコミによる世論支配と、政治屋といふ民主主義を食ひ物にする連中が管直人政権の登場以来問題になつてゐる。
次に電気について考へよう。電気のあるなしではなく、電気を引ける経済力の国には現今の民主主義体制が似合ふだけだ。化石燃料の使用を停止しても住民が圧政を受けない体制の模索こそ現代人の使命である。
キリストの時代やカトリツク全盛の時代に電気はなかつた。電気を賞賛することは歴史の断絶を作る。
七月二十四日(日)「権利と平等」
講演を紹介するパンフレツトには「なんでもかんでも権利だとか平等だとか、極端な考え方がまかり通る世の中になってしまったのは、言葉が極度に貧困になったせい、その原因の一つは、読書をしなくなったからだ」と書かれてゐる。
権利といふ日本語はたしかによくない。西洋の言葉をそのまま訳すからこういふことになる。
平等は社会環境との平衡である。昭和六十年辺りまでは東京に山手と下町があつた。金持ちは山手に住めばよいし庶民は下町に住めばよかつた。その後、下町はマンシヨンだらけになつた。一軒家やアパートの本来の住民も過去の残存物みたいになつた。だから今は平等が必要である。
非正規労働が増へた。本来労働者は下層だから労働組合が認められる。ところが総評解体で下層を切り捨てた。以前は個人商店や中小製造業が多かつた。これらも大手が進出するか海外に流出してゐる。
つまり日本ではプラザ合意以前の経済成長時代の惰性で政治を続けたために、変な中流階級が出てきて大変な社会になつた。ここで中流階級をすべて否定するわけではない。「変な中流階級」を否定してゐる。
完全な平等は必要ないが誰もが生活できる社会にする必要がある。今の日本の社会環境には平等が必要である。(完)
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