九百六十四 こころの時代「唯識に生きる」を批判
平成二十九丁酉年
四月二十三日(日)
先週日曜の朝五時からこころの時代「唯識に生きる」が始まった。第1回「唯識の歴史と基本思想」を見てとんでもない駄番組だったので批判せざるを得なくなった。民放なら何の批判もない。国民の視聴料で作っておきながらこのやうな低級な内容は許し難い。
まづ、立教大学名誉教授横山紘一さんが目黒区で行ふ唯識の勉強会の光景から始まった。ここからして間違ってゐる。勉強会の最初から放送すれば、なる程と納得したかも知れない。勉強会の一部だけ抜粋するから奇妙に感じる。横山さんの発言を要約すると
言葉のとおりには物事が存在しない。自分の手を見て下さい。誰の手ですか?

(参加者)自分の手。
名詞が2つありますが何と何ですか?
(参加者)自分、手。
手という名詞が指すものを見て下さい。どうですか?発見しますね。
今度は目をつむって自分という言葉が指し示すものを探してみて下さい。見つかった人は誰もいませんね?自分といふ言葉の響きがあるだけですね。自分と言っても言葉です。
自分を探す自分がゐるではないか。決して隣の人と意識が混ざったりはしない。目を開ければそこに自分と云ふ体がある。これも隣の人と混合したりはしない。こんな低級な内容だが横山さんは悪くない。制作したNHKが悪い。
次に
部派仏教はあらゆる物の存在を認めていました。これに対し紀元前後におこった「大乗仏教」では「般若経」などによりこの世のあらゆる存在には実体がないと考える「空」の思想が生まれます。この空の思想は一歩間違えば「一切は全く存在しない」という虚無主義に陥る危険性がありました。こうした中「瑜伽」現代でいうヨーガを行う人々から少なくとも心は存在するという思想が打ち立てられます。これを4〜5世紀ごろ唯識思想として体系化したのが無著と世親。
大乗仏教でも般若経以外はどうなのか。空と無はどこが違ふのか。一歩間違へて虚無主義に陥った人に例へば誰がゐるのか。無著と世親より前の人たちは唯識だったのか違ふのか。唯識だったら無著や世親とどこが異なるのか。それらを述べないまま、玄奘だ、法相宗だ、奈良の興福寺だと単語だけ羅列する。
唯識思想が起こって来る根源にはヨーガ体験がある。ヨーガというのは結びつくという意味なんです。ヨークという英語があります。馬車の横木の事をヨークという、結びつけるといふ意味。 ヨーガというのはまずは身体と心を結びつけるわけ。
これは完全な間違ひだ。止観(瞑想、座禅)は釈尊の行った修行だから今に至っても実行するのが普通だ。鎌倉仏教では行はない宗派が多いが、これは末法に入ったと各宗祖が判断し独自の修行を提唱したことと、当時の天台宗が堕落したことへの批判が理由で、念仏や題目を唱へることは実はさう云ふ止観の方法だと解釈すべきだ。少なくともヨーガは結びつけるものだとかの解釈は仏教とは無縁のこじつけだ。

今回一番許し難いのは、民放のアナウンサーと称する女が司会をどうすればもっとうまくできるかとマインドフルネスに興味を持ち、或る教室を訪れた話を延々と紹介した。アナウンサーが出演する番組も少し映し、字幕にはぼかしを入れた。ぼかしを入れなくては放送できないものは放送すべきではない。それより問題なのは、なぜぼかしを入れてまで民放のアナウンサーを登場させるのか。
アナウンサーはニュースの読み上げに専念すべきで、その場合も歌舞伎の裏方みたいに黒子を被るか副調整室の隅で原稿を読むべきで、顔を映してはいけない。司会やニュース解説は一般人に任せるべきだ。
今回NHKは、アナウンサーが有名人だと視聴者を洗脳するため民放のアナウンサーを無理やりこじつけて登場させたと解釈するしかない。
だいたいアナウンサーなる女のやったことはマインドフルネスでつまり止観と、そのための呼吸法だ。普通に考へれば唯識ではない。これを唯識だと言ひ張るなら、止観と唯識の関係をきちんと話すべきだ。

五月二十一日(日)
第二回を本日見た。無著、世親、玄奘法師、基(慈恩大師)、法相宗と先週の復習をまづ行った。ここでまづ不満なのは法相宗について詳しい人はゐないのだから、その説明をすればよいではないか。今日の放送内容は低級で中身のほとんどないものだった。時間が足りないのなら法相宗の説明はできない。時間が有り余るのだから、有益なことを放送しなくては駄目だ。先週はアナウンサーO(姓と名も放送したが、書くに値しない氏名は最近省略することにしてゐる)が体験しましたが、と発言したが、アナウンサーOとは一体何だ。運転手A、小売店店員B、農業Cと云ふ言ひ方を常時するのならアナウンサーOもあり得る。他はしないのにアナウンサーOだけあるのは、アナウンサーは特別だと思はせる洗脳行為なのでやってはいけない。
玄奘がゐなければ日本の仏教は無かったとの一言があった。法然、親鸞、道元、空海は唯識を学び、新しい宗派を作ったとの一言もあった。この二つだけでも一時間の内容になる。それなのに一言で済ませた。
今日の内容に入り
唯識は常識(例、目の前にコップがある)を否定、すべては心の中で作られる。なに(無我)->なぜ(縁起)->いかに。
人間関係の悩みを写経または念珠作りで集中力、注意を外ではなく内に向ける。
「これはペン」は誤りで、「これはペン」と私は考へる、が正しい。情報過多、例へば携帯。念(散乱する心)->定(念の力で)->慧。
ここで若手の浄土真宗の僧の話された部分を紫色にした。この部分だけ同感だった。なぜ同感だったかは真摯な態度で全力で人を救はうと云ふ努力があった。ここが他の参加者との違ひだ。このあと「アナウンサーのO」と再び敬称を抜いたので、この人もNHKだったのかと判った。この女が視聴者参加番組みたいに圓融寺で座禅指導を受けるのだが、天台宗なのだから座禅ではなく止観と云ふべきだ。私でさへここ二年ほど止観を用ゐる。それは仏教文化講演会を主催される浅草寺に敬意を表してのことだ。止観と座禅の違ひを説明しても興味深い内容になる。
このアナウンサーなる女は自身を「気が散る女」と称したが、私には「傲慢な女」に見えた。とかくテレビに出演すると、何だか自分が有名で一般の人とは異なる錯覚を持つ。それが態度に現れる。私が先月はこの女を民放と勘違ひしたやうに、一般の国民は別にアナウンサーのことを有名だとは思ってゐない。たまたまテレビカメラは前にゐる人は全国に映すが全国の人はテレビカメラの前に映らないと云ふ技術的欠陥があるため、勘違ひする人間が出て来る。
それより先月、私は恐ろしいことを考へてしまった。この女は本当に民放なのかと。民放ではこのやうな没特長の人間は裏方に近いアナウンサーは別として、やってはいけないだらう。
番組を我慢して見続けたが、あまりに内容が低質なので、ここでつひにスヰッチを切った。(完)

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