九百六十五 松本宿泊記
平成二十九丁酉年
四月二十四日(月)
今月の始めに青春18きっぷを使って松本に一泊した。子供のころ松本市郊外の祖父母の家に宿泊したことが何回もあったが、それから四十余年。青春18切符で往復したことが3回あるだけだ。1回目は二十代後半のときだと思ふ。2回目と3回目はここ十年くらいのことだ。
広岡と安曇郡の細野、翌日は南甲府、酒折に寄り、この日は松本市内のビジネスホテルに宿泊した。ビジネスホテルが一般化する前に営業を始めたのだらう。室内にポットが無く歯ブラシも無い。今の感覚からすると不足だが当時のビジネスホテルはこれが普通だったのかも知れない。
フロントに云ふと、お湯をここから持って行ってもいいですよと云ふが、お湯無しで済むやう夕食を買った。歯ブラシは別売するが、駅前のコンビニで別のものを買った。フロントで買ふと2日か3日しかもたない。コンビニで買ふと値段は2倍だが1か月持つ。

四月二十八日(金)
最初の日は到着後、あがたの森に行った。国体の会場跡に作ったのだらうと一回も行ったことは無かったが、旧制松本高校の跡地だった。その背後に松商学園があることも初めて知った。昔は甲子園野球の出場常連校で、食堂や商店は壁に信濃毎日新聞の松本駅時刻表を貼り、店内のテレビで長野県大会の準決勝や決勝を放送するのが、風物詩だった。
筑摩(つかま)神社は古風で宗教性を感じるよい神社だ。筑摩郡はちくまと読むのに、なぜ読み方が違ふのかは不思議だったが、神社に書かれた説明で判った。つかまだったのに明治維新後に筑摩県をちくまと読んだ。明治維新後に東京では町名を新たに作ったものも多いが、明治政府の伝統破壊性に注目する必要がある。重巡筑摩と海上自衛隊の護衛艦ちくまの写真が掲げてある。
筑摩神社のよいところはまだある。宮司さんが歴史などを調べてコピーしたものが何種類も配布用に置いてある。私も一部づつ頂き、先ほどお賽銭は入れたが、印刷物用として再度入れた。
駅の方角に歩き深志神社にも寄った。ここは建物が赤でしかし近代建築で、あまり好きになれなかった。松本市の整合性の無い建物が背後にあるのもよくない。とかく地方自治体は周囲と調和しない奇妙な形の建築物を作りたがる。ここは境内で一回合掌するだけで素通りした。筑摩神社で二回お賽銭を入れたからここはいいかと云ふ思ひがあった。深志神社を神社本庁別表神社にするなら筑摩神社のほうがいいと云ふ思ひもあった。
このあと極楽寺に参拝し松本駅に戻った。

四月二十九日(土)
時間があったので篠ノ井線で川中島駅まで行った。途中新しいトンネルがあり複線分の幅がある。最近開通したのかと思ったら二十八年前だった。
川中島駅に到着したときは既に外が暗くなりかけた。川中島合戦跡の名所の案内図と上杉武田両軍の陣形図が駅に掲げてあったが、読むのにそれほど時間は掛からなかった。駅前通りを少し往復した。寂れた町の印象がしたのは、かつて川中島自動車と云ふバス会社があったから、それなりの町だと期待したからだった。航空写真を見ると、田畑が少し残るもののほとんど家屋で、川を渡ると長野の市街地になる。郊外の住宅地で商店が少ないことが寂れたと感じた原因だった。

五月一日(月)
翌日の朝はまづ北松本駅に行った。四十二年ぶりだった。駅前通りがずいぶん広くなったがこれは後から作られたもので、本の道も残ってゐた。戻るときは旧道を聖十字協会経由で歩いた。松本城の特に二の丸御殿跡の礎石を時間を掛けて見た。
松本神社は複雑な思ひだ。神社自体は悪い印象はなく、近隣のお年寄りがラヂオ体操に集まり、道路の反対側で参加する人までゐた。名称がよくない。松本神社とは何か。伝統と歴史に外れた名称をつけてはいけない。総堀を見てホテルに戻った。
朝食の後は西総堀土塁講演を見て、松本駅から電車に乗った。(完)

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