九百五十七 伊吹敦さん「最澄と禅-日本禅宗史序説-」を聴いて
平成二十九丁酉年
三月二十八日(火) はじめに
昨日の浅草寺仏教文化講座は東洋大学教授伊吹敦さんの「最澄と禅-日本禅宗史序説-」だった。東洋大学学長竹村牧男さん「日本佛教のあゆみ~信と行」が良質なテレビ番組だったので、伊吹さんの講演もそれに匹敵するだらうと期待し、事実情報量が多く有意義な御講演だった。
ただし伊吹さんの、日本の天台宗は中国天台とは異なり四つの思想を統合したものだとする四つの中に禅を入れたことに、私は別の考へをもつ。天台大師の摩訶止観は禅だ。中国天台に密教、大乗戒を入れて独特の宗派にしたと云ふのなら大賛成だ。この点について伊吹さんは、禅の思想が既に日本に入ってゐたから大乗戒を取り入れたとする。この点について考察したい。

四月八日(土) 第一章「奈良時代における禅の流入:道璿による布教活動」
舎人親王の命を受けて伝戒師を求めて入唐した二人の僧が、洛陽から道璿(どうせん)を渡来させた(736年)。その後、鑑真も来日させた(754年)。
道璿は北宗禅の指導者、普寂の弟子で、初期の禅宗は山林に居住した私度僧の集団で、非僧非俗、小乗戒の軽視、梵網経に説く出家在家共用の大乗戒を基礎としたが、両京(長安、洛陽)に進出すると戒律に甘いと批判されたため、普寂がそれまでの方針を転換して小乗戒も遵守するやうになった。そして両京の密教、天台宗と融合の傾向を生じた。これが最澄の四種相承に繋がる。
道璿は伝戒師として来日したが立場は禅宗で、鑑真が渡来すると、律師を辞して吉野の比蘇山寺に籠った。ここは禅定修行のメッカだった。晩年まで道璿に従ったと見られる弟子が行表で、その門下から最澄が出た。

四月八日(土)その二 第2章「鑑真の渡来とその影響:天台宗の布教と道璿の弟子たちの反撥」
南嶽慧思-天台智顗-灌頂、の次が玉泉寺系と国清寺系に分かれ、前者の三代後に鑑真、後者の五代後の二人の僧に最澄は学んだ。
鑑真は伝戒師として来日したが玉泉天台で、この系統は京に進出し律宗と天台宗を統合してゐた。弟子の伝記によると鑑真は智顗の予言に基づき、日本を天台宗が広まる新天地と考へてゐたやうだ。
鑑真の弟子たちが、聖徳太子は南嶽慧思の生まれ変はりと唱へ、これは唐の種本を日本の書籍が引用したときの誤りだが、最澄は若い時にこれを信じた。道璿の弟子の1人が、この説を改変し菩提達磨が南嶽慧思に日本への転生を薦めたことになってゐる。天台宗に対する禅宗の優位を主張したものだった。最澄は晩年にこれを信奉し、先ず禅を学び、その後に天台宗となった自身の思想遍歴を正当化した。

四月十日(月) 第3章「最澄の思想形成:禅思想の影響と大乗戒の独立」
最澄の長期留学は天皇から愛されてゐて許されなかったので還学生として入唐。まづ天台教学を学び大乗戒を受ける。次に天台山を出て禅、更に密教を学んだ。最澄はこのうち密教について日本で知識が無かった。
晩年に三一権実論争、これは理想主義と現実主義の争ひ。翌年小乗戒を捨て山家学生式を制定。死後七日目に大乗戒の独立が認められた。
最澄は天台宗を自らの立場と定めた後も、禅宗を捨てたわけではない。内証仏法相承血脈譜で、禅宗、天台宗、大乗戒、純密、雑密の五つの血脈を併挙。
北宗禅と天台宗で共通の「虚空不動の三学(戒・定・慧)」を生涯に亙って強調。
最澄の最も著しい特色は、大乗戒だけで僧侶になるべきとの主張。戒律に緩い日本仏教の原点になった。そこには出家・在家の相違を無視し、小乗戒を捨てて大乗戒を指導原理とした初期禅宗の思想。
以上のお話があったが、明治以降の僧侶妻帯について、伊吹さんは批判的に述べた。これはよいことだ。戒律が緩い原因を最澄まで遡っても、明治維新以降の僧侶妻帯は別物だ。世の中は急激には変化しないから、明治、大正、昭和くらいまでは何とか寺院が維持できた。しかし檀家の減少、家族葬、散骨、インターネット僧侶申し込みと、世の中は変化し、今後は廃寺が相次ぐだらう。

四月十二日(水)、十六日(日) 第4章「天台宗におれる禅:禅宗文献の将来と禅宗の位置づけ」
円任、円珍らは密教を学ぶために入唐したが、帰国のとき多数の禅宗文献も持ち帰り比叡山の蔵に収めた。
円任、安然、源信らは、その著作に敦煌出土の禅宗文献と並行する内容を引用。このことは百年くらい前に判った。
中国で禅宗の勢力が拡大し、日本でも義空(馬祖道一の孫弟子)が蘇我天皇の皇后の要請で来日した。しかし皇后死後は中国に帰った。
天台宗は義空に冷淡で、義空は天台宗とは対立関係の真言宗の東寺に住んだ。義空の禅が馬祖系で、四種相承の日本天台宗の枠組みに収まらなかった。
鎌倉時代の大日能忍、栄西、道元に対する天台宗の圧迫も、基本的にはこの線。大日能忍は中国には行かなかったが、天台宗の僧が持ち帰った文献に寄り達磨宗を創設。栄西は天台宗の伝統として禅を学び、栄西の作った寺は、天台、密教の堂もあった。道元は大日能忍の弟子たちを弟子にした。

固定思想(百三十三)固定思想(百三十四)その2

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