八百八十四 唯物論研究協会、唯物論研究会の書籍を読む(その一)

平成二十八年丙申
十月二日(日) 古在由重訳、マックス・ヴェーバー「ヒンドゥー教と仏教」
平成二十一年に出版されたこの書籍の奥書を見ると、古在由重さんは
戦前、戸坂潤らと唯物論研究会で活動。治安維持法で2年間の長期留置。保釈後、戦時下は上智大学でカトリック文献の翻訳などに従事。戦後は民主主義科学者協会哲学部門の中心メンバー。原水禁運動、平和運動にも挺身。専修大学教授、名古屋大学教授も務める。
とある。奥付の1ページ前には、刊行した経緯が書かれ、一九九〇(平成二)年に古在さんが亡くなった後も翻訳原稿は藤沢市総合市民図書館に保管されたままになってゐたこと、数年掛かって電子化作業が完了したこと、大月書店から出版することになったものの厳しい出版事情と、すでに何種かの既訳のある出版にはファンドが必要で百名近い募金者があったことが書かれてゐる。

翻訳された本文について、何回か読んでみたが、行読みからページ読みになってしまふ。しかし頭には何も入らない。これはヴェーバーが西洋人向けに書いたのと、ヴェーバーの主張が正しとは限らないといふ思ひがあったのと、古在さんの翻訳が直訳で難解といふことが挙げられる。
しかし唯物論研究会で活動したのにこのやうな翻訳があると云ふことに、当時の唯物論研究会は良心的な人たちだったのだらうと想像する。

十月五日(水) 東京唯物論研究会編「戦後思想の再検討 人間と文化篇」高田求さん、その一
昭和61(1986)年に出版されたこの書籍は、思想の異なる五名が各章を担当する。まづは労働者教育協会常務理事高田求さんの序論「思想の戦後史をどうとらえるか」。
マルクス主義はしょせん「輸入思想」「外来思想」に過ぎなかった、という人がいる。だが(以下略)
高田さん自身は大日本帝国憲法自体が「輸入思想」「外来思想」だとして反論し、またこの話は戦前についての論評だが、ここで注目すべきは「輸入思想」「外来思想」といふ意識が昭和61年はまだ言論界にあったことだ。同じく戦前について
それは、天皇制打倒の民主主義革命を志向したが、民主主義の階級性を強調することに急で、一般民主主義、思想としての民主主義の理解は弱かった。ヒューマニズムについても、その階級性を指摘することにもっぱらであった。また、集団主義を強調するのに急で、個の尊厳を媒介しての集団主義という観点、個の尊厳を基本にすえるという視点は弱かった。
明治憲法は天皇が中心に位置したが、天皇独裁ではないしそれどころか、政治は内閣、軍事は軍人に任せると云ふおよそ独裁とは正反対のものだった。天皇中心の制度に反対するとしても、長い歴史を鑑みると天皇が中心に位置すると源平合戦や南北朝のやうになるので、幕府の雑事は国民が責任を持つべきだと主張すべきだった。天皇制打倒なぞとロシア革命やフランス革命みたいなことを云ってしまふところに、「輸入思想」「外来思想」の欠点がある。
しかしここで指摘したいのはそのことではない。一般民主主義をありがたがることへの疑問だ。勿論本当の民主主義なら賛成だ。本当の民主主義とは国民が政治に責任を持つことだ。ところが圧力団体による数の論理がまかり通る。それへの反対でなくてはいけない。ヒューマニズムには賛成だ。賛成だが、最近は死刑廃止だの同性婚だのと西洋の猿真似ばかりだ。この本の出版は昭和61年だし戦前への論評だからこの主張でよかったのかも知れない。高田さんは
ヒューマニズムとしての自己認識、自覚は、宮本百合子や古在由重に見られた。(中略)ただし、このようにヒューマニズムということを言いたがるのが「古在由重さんの理論の最後の弱点」だ、と戸坂は書いていた。(中略)すなわち百合子や古在の場合は別として、このヒューマニズム論議には、戸坂の言葉を使えば、「マルクス主義思想の退潮」のあとを襲うようにして「文壇的文化人」のあいだに-民衆のあいだにではなく(以下略)-登場した「新しい思想上の意匠」「インテリの思考のファッションの一種の意匠」であり、「ファシズム的統制化からの人間回復」を説くかのようでありながら、じつは「リアリズムからの人間回復」を主張するものという要素が確かに存在していたのだから。
あと注目すべきは
当時のある座談会(「近代主義をめぐって」季刊『思想と科学』一九四八年七月)での古在由重の発言に、「民族の独立なくして何の主体性ぞや」というのがあったことを思い出す。


十月六日(木) 東京唯物論研究会編「戦後思想の再検討 人間と文化篇」高田求さん、その二
五十年代前半の代表的イデオローグを二人えらべ、といわれたら、私はためらわず石母田正と竹内好の名をあげる。石母田の名は『歴史と民族の発見』(一九五二年、続=一九五三年)と結びつき、「国民的歴史学運動」と結びついている。竹内の名は魯迅研究と結びつき、また「国民文学論」とも結びついている。
(中略)それらはともに、ある意味で主体性論の問題提起を継ぐものであった。「ある意味で」というのは、学問や文学における民族の主体性、民族としての主体性の確立をめざすという意味で、ということである。
高田さんはかう述べたあと
しかし同時に、そのプラスには、マイナスがつきそってもいた。まず問題提起自身のなかに、悪い意味での民族主義の要素が(竹内の場合には、さらにアジア主義の要素が)からまっていたし、それに何より悪いことには、当時分裂していた日本共産党の一方の側のセクト主義的路線がこれと結びついた。
それが何かと云へば
「国民文学論」についていえば、それは竹内による問題提起(「新しき国民文学への道」一九五二年二月、「国民文学の問題点」同八月など)後ほどなく、問題提起者の手をはなれて、分裂した共産党の一方の側を背景にもった『人民文学』派の文学者たちの手に移り、「セクト主義的な文学論に仕立てあげられ*」ていくことになってしまった。
*印については注釈で
*「戦後の文化政策をめぐる党指導上の問題について」一九七四年。そこでは(中略)”国民文学論”は、もともと私小説でもなく、いわゆる大衆小説でもない、国民の多数に愛読されるような本格的な文学の要望として、文壇の一部の批評家によって提唱されたもので、それが正しく発展させられるならば、それは実りあるものとなったのであるが、そこにははじめから民族主義的な色彩がまつわりついていた。そしてそれが一部の党員学者や党員作家によって、セクト主義的な文学論に仕立てあげられていったのである
共産主義の良かった点は、西洋列強に対抗して民族自立を掲げたことで、民族の優劣や特権があれば問題だが、それらが無ければ問題ではない。共産党がことさら民族主義的な色彩に反対するのは、党内の分裂問題が理由だから、それには言及しない。私は民族と云ふ単語は西洋野蛮人の考へたものだから反対だが、別の云ひ方をすれば民族対立を煽ることで両方を西洋化させようとする社会破壊西洋崇拝反日パンフレットのやうな存在がここ二十年ほど目立ってきたのでそれに反対すると云ふことだ。だから民族と云ふ言葉には反対であり、民族差別にも反対だが、民族主義を批判することは西洋化の一端だから同じく反対だ。
共産党のこの文書は昭和四十九年だから、民族主義を批判してもまだ問題ではない。しかし現在では唯物論を掲げてゐると、米ソ対立によるソ連側の民族解放の主張で保ってきた平衡がないだけに、文化破壊、社会破壊になる。

十月七日(金) 東京唯物論研究会編「戦後思想の再検討 人間と文化篇」高田求さん、その三
昭和三十四(1959)年に哲学者山崎正一は
ロシア人にとって、マルクス主義の弁証法的唯物論は、なお借り物にすぎないであろう。マルクス主義哲学は、《経済が運命となった》段階における西欧文明のなかからの西欧文明の自己批判としてヘーゲル哲学のなかから生まれたものであって、ロシア人や中国人のごときが、現に採用しているごとく、西欧文明に対抗するための、差し当り最も有力な、そしておそらくは、暫定的な、設計書であるに相違ない
と書いた。太字部分は原文では点をつけて強調してゐる。翌年大井正さんが
一は、自民党が”新保守主義の政治哲学”をつくったことである。一は、新生の民主社会党が(以下略)
と書いたことに対して高田さんは
山崎さんが期待していた新しい哲学は、まさかこんなものではなかったと思うのだが。(中略)ただし、わが国にとってマルクス主義のもつ歴史的役割が、もう終わった、と氏が見ていることもまた、疑えない。(中略)この五十年代の後半、論壇からマルクス主義者たちの姿がほぼいっせいに退場した、ということである。
マルクス主義が西欧文明のなかからの西欧文明の自己批判として出てきたことと、ロシア人や中国人がその自己批判すべき西欧文明への対抗として用ゐたといふ部分に賛成だ。革新勢力が退潮になったのは昭和五十(1975)年以降だが、昭和三十年(五十年代の後半)以降、わが国でマルクス主義のもつ役割が終はった理由を探る必要がある。私にはその時間が無いので社会学者に期待したい。

十月九日(日) 東京唯物論研究会編「戦後思想の再検討 人間と文化篇」仲本章夫さん
東京都立商科短大教授仲本章夫さんによる「論理学論争について」は
わが国における「論理学論争」は、雑誌『思想』(岩波書店)一九五二年第八号に掲載された粟田賢三さんの論文「形式論理学と弁証法」にはじまった。(中略)この論争の特徴のひとつは、マルクス主義哲学者ばかりでなく、新実証主義(分析哲学)の影響を受けた哲学者、自然科学者もまたこれに参加したことである。
なぜこのやうなことが始まったかと云へば
粟田論文に先立って、ソ連ではすでに大規模な形で論理学論争が展開されていた。これはソ連共産党機関紙『プラウダ』一九五〇年六月二〇日の紙面に掲載されたスターリンの「言語学におけるマルクス主義」に触発されて開始されたもので(以下略)
日本の革新勢力が如何にソ連の影響を受けてゐたかよく判る。
ソ連における論争が理論的にも学校での論理学教育の上でもかなりの切実さにせまられて展開されたのにたいして、日本での極論すればなんとなく開始され、なんとなく終息したという感じをぬぐいさることができない。
とする。なぜソ連では切実にせまられたのかと云ふと
一九一七年のロシア革命の後、ソ連においては形式論理学は(中略)否定的評価を受けていた。「総括論文」は次のように述べている。
「マルクス主義を卑俗化する連中は、形式論理学によって研究される、思惟の諸法則、諸形式を、上部構造的・階級的なものとかんがえ、(中略)形式論理学を階級敵の道具、宗教世界観の基礎であると宣言し、(中略)ソヴェトの若者たちは、論理的思惟の初歩的な規則や方法にかんする知識を、中等学校ではさずけられなかったのである」
こののちスターリン論文は言語が上部構造ではなく、機械も言語もどんな階級にも資本主義にも社会主義にも奉仕しうる、とする。形式論理学か、弁証法か、上部構造かと云ふ議論が如何に無駄なものかよく判る。諸悪の根源はこれまでの社会のものはすべて階級敵だとするところから、形式論理学や言語まで敵かどうか判断せざるを得なくなる。諸悪の根源は共産主義思想の文化破壊、社会破壊にある。形式論理学を学ぶかどうかは重要ではない。社会を破壊したためその対策として、形式論理学を学べば新しい社会を再構築できるのではないかとスターリンが思って論文を出した。それだけの話だ。
日本で昭和三十年あたりまで言論界にマルクス主義が多かったことは今でも重要な意味を持つ。彼らはその後、転向し進歩的知識人を自称するが、社会破壊、文化破壊は捨てなかった。シロアリ民進党や社会破壊拝西洋新自由主義戦没者冒涜反日パンフレットはその延長線上にある。

十月九日(日)その二 東京唯物論研究会編「戦後思想の再検討 人間と文化篇」吉田正岳さん、その一
都留文科大学講師吉田正岳さんによる「戦後思想の人間論 --疎外論の展開と衰退--」では
戦後のマルクス主義思想を追っていくと、哲学、社会思想、社会学、経済思想の方面では、「疎外」概念がしきりに取り上げられて論じられているに直ちに気付く。しかし(中略)いつしか消え去ってしまった。(中略)そして、疎外を主題的に論じたのが、人間主義的マルクス主義であり、(以下略)
太字の部分は原文では点が付けられてゐる。疎外論が盛んになった理由はスターリン批判だとする。そして
スターリンの『弁証法的唯物論と四滴異物論』に代わる新しい哲学、(中略)それは客観主義的唯物論に対する反発、ルカーチ、コルシュ、グラムシ等の「西欧マルクス主義」の見直し、再評価、『資本論』に代表される後期マルクス主義に対抗する『経済学・哲学草稿』の初期マルクス思想への注目、といった方向をたどった。そして、初期マルクス研究の中から疎外概念がいやおうなくクローズ・アップされることとなったのである。
疎外論が下火になった理由について
六〇年代(五〇年代の後半から始まる)は、高度経済成長の時期であった。高度成長が終わって、七〇年代の低成長の時期に入り、特に石油ショック以降、イデオロギー状況も変化した。下部構造の変化が旧来のイデオロギー基盤を掘り崩したのである。
近代は疎外の時代だと云へる。一番大きな理由は西洋文明の急速な流入だが、経済の膨張による社会の変化もある。日本は農村社会から工業社会へと変化して行った。その急速な変化で生じた未解決問題は、疎外の一つの原因である。一方で経済の膨張が疎外による悪影響を吸収した面もある。吉田さんは専ら経済膨張による良い効果にのみ注目したやうに思はれる。それは
すでにJ・ハーバーマスは(中略)窮乏化と結びつけて考えられた「疎外」概念は、その効力を先進資本主義国では失ってしまった、と論じていた。
に現はれる。

十月十日(月) 東京唯物論研究会編「戦後思想の再検討 人間と文化篇」吉田正岳さん、その二
吉田さんは疎外を三つの立場の人々に分類し、各論に入る前に
竹内良知編『疎外される人間』の諸論文の著者が全て欧米人となっているような事態は、ここでは避けねばならない。なるべく重点を日本の著作に置くようにする。
と正当な主張をされてゐる。この本の出版された1986(昭和61)年はまだ国内がまともだったことが判る。こののち西洋の主張が正しくて日本のものは駄目だと云ふ奇妙な連中ばかりになった。まづは「(1)主体性唯物論と疎外論」で
日本の戦後思想における疎外論、あるいはこう言ってよければ「疎外論的人間論」は、主体性唯物論にその原流・原型をもっている。(中略)彼らが主体性唯物論を展開したのは、スターリニズム批判以前の五〇年前後のことであり、戦後日本におけるマルキストの独自の業績である。(中略)それは唯物論、マルクス主義の「客観主義的傾向」の克服を意図していた。ここで言う客観主義的傾向とは、哲学教程としてはミーチン=スターリン型の「弁証法的唯物論と史的唯物論」の体系が念頭におかれていた。
主体性唯物論がどういふものか判らないので、今後調べてみたい。私の想像では意識を尊重した唯物論かな。だとすれば前に分類した三段階の唯物論の三つ目に近い。近いが意識は文化と密接に関はることを考慮しないのなら二つ目に留まる。次は「(2)大衆社会論と大衆社会的疎外」で
「疎外」が六〇年代の日本の思想市場で、最も流通した概念貨幣となった根拠に大衆社会論が大衆社会的疎外を提起したことが挙げられる。(中略)その代表的論客は松下圭一さんである。(中略)松下さんは、近代のみの一段階論をとらず、近代・現代二段階論を歴史発展観としている。(中略)現代社会は(資本主義国において)、資本主義的疎外に加えて、大衆社会的疎外という、二重の疎外を内包していることになる。(中略)大衆社会論は日本社会の構造変化に的中する議論を提起したのであり、左翼にも右翼にもインパクトを与えることができたし、また、事実そうなった。
その影響が教育、政治に及ぼした例として
六〇年代の高校教科書「倫理社会」には、必ずといっていいほど、大衆社会論の視角からの疎外が取りあげられている。その基調は、現代では機械(カッコ内略)や組織が主体で、人間はそれに従属する形になっているということである。
私はもう一つ、プラザ合意以降の西洋文明の異常な流入による疎外が必要と見るが、それは六〇年代には必要なかった。プラザ合意と書いたのは、急激な円高で簡単に海外旅行ができるとともに西洋かぶれが起きたことを指すが、それ以外に技能職の激減、西洋式労務管理の導入、更には米ソ冷戦終結によりアメリカからの内政干渉が始まったことが挙げられる。
自民党『昭和四四年度・党運動方針』には「繁栄の中の”人間喪失””人間疎外”の風潮は二〇世紀後半の生んだ最大の課題」であるとうたわれ、(中略)”繁栄の哲学”が唱道されるに至るのである。
この広がりを持った疎外概念に共通するものとして
ヒューマニズム(人間性)を理念として設定するところにあった。(中略)以前の主体性唯物論者も同様の地平にあった。
ヒューマニズムを巡る論争では
大衆社会的疎外を現代社会に特有のものとみなし、社会形態レベルでの疎外を強調する大衆社会論と、大衆社会論者を、動揺する新中間層、小ブル知識人層のイデオロギーとみて、労働者階級のうける資本主義的疎外を基底的なものとみなし、階級闘争を主軸に現代の疎外状況の突破を試みるいわば「階級闘争主軸論」との間であった。
二つのどちらが正しいかは一概には云へない。前者だと大衆社会的疎外を解消しても現在で云ふと失業や非正規雇用の疎外があるし、後者だと社会主義化させても別の疎外が出てくる。後者で社会主義化して国全体が貧乏になれば国内の疎外は出ないかも知れないが、海外と比べた疎外が出てくる。それよりプラザ合意の円高以降は、新中間層、小ブル知識人層が被雇用者の中心になってしまった。次に「(3)芝田進午氏の体系的疎外論」として
疎外論争を通過してひとつの疎外論体系をまとめあげたものとして、芝田進午さんの『人間性と人格の理論』(青木書店、一九六一年)がある。(中略)疎外論を初期マルクス特有のものとし、後期マルクスを俗流とみなすK・レーヴィット的見解を斥ける。(中略)疎外論を『資本論』に即して検討するという方向は、経済学史でいえば、内田義彦『資本論の世界』(岩波新書、一九六六年)や、水谷謙治『労働疎外とマルクスの経済学』(青木書店、一九七四年)といった業績と同じ問題意識に基づいていた。
成立背景は
国内的には疎外論論争、近代化論、大衆社会論論争を、海外的にはスターリン批判とハンガリーの悲劇を成立の契機としている。
面白さうだが、これらの書籍を読んでから論評したい。

十月十二日(水) 東京唯物論研究会編「戦後思想の再検討 人間と文化篇」吉田正岳さん、その三
マルクス主義者だけではなく広く国民に親しまれた疎外と云ふ言葉を、マルクス主義の側から放棄してしまった。まづ
疎外論に対する否定的見解は、六〇年代半ばから唱えられはじめた。(中略)疎外概念との対比では、物化・物象化の概念が疎外論を克服していく概念として提出されたし、宇野派の場合に特に強調される概念である労働力商品概念が、疎外概念に代わる科学的概念として提起された。
語感は大切だ。物化、物象化、労働力商品概念では国民の共感は得られない。尤も一番語感の悪い単語は、唯物論とプロレタリア独裁だが。さて
六〇年代に影響力を持っていた思想といえば、サルトルを典型とする実存主義、とくに(中略)人間学的マルクス主義であった。それに対立する形で、レヴィ=ストロースらの構造主義があらわれ、日本では六〇年代後半から(中略)影響を持つようになった。そして現在ではポスト構造主義の時代になっていることは周知のことである。
私は構造主義とマルクス主義の関係がよく判らないから、判ってから論評したい。
アルチュセールの「構造主義」(括弧内略)は、反スターリニズムと、反スタからあらわれた疎外論=ヒューマニズム論に対する批判、すなわちマルクス主義を近代ブルジョア・ヒューマニズムの脈絡で解する傾向への批判から出発していた。
これもアルチュセールの著書を読まないと何とも云へない。
ところで第二次大戦後の欧米、日本における経済的発展は、「今や『貧困』ではなく、『疎外』が革命の、従って革命党の最大の注目点でなくてはならない」という「先進国革命論」を生みだすとともに、同じ経済・社会構造の変化・発展が、人間主義(ヒューマニズム)と結びついた「疎外」概念の影響を喪失せしめていった過程でもあった。
前半部分は賛成だ。後半は貧困が無くなれば疎外感も無くなるといふ発想だと思ふ。しかし人類が長年生活した環境と異なるところで生活すれば、新たな疎外を生む。その度合いが西洋とアジアでは異なると云ふことだらう。近代文明は西洋文明から発達したためである。


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