二百七十五、日本アナキスト労働運動史を読んで
平成二十四年
五月二十日(日)「萩原晋太郎氏」
図書館で萩原晋太郎著「日本アナキスト労働運動史」といふ書籍を偶々見つけた。読んでみるとなかなか名文である。ここで名文とは決して文学的に着飾つた文章ではない。普通の文章である。アナキストと自称するからは特異な文章かと思つたが、普通の文章である。
この本の出版された昭和44年はまだ拝米軽薄の世の中ではなかつたといふことだらう。
五月二十二日(火)「日本のアナキズム運動第一号」
この本は前書きはなく、次の文章から本文が始まる。最近の書籍はやたらと前書きが長いが読んでも内容のないことがほとんどである。前書きのないのはよいことだ。
日本のアナキズム運動第1号は、――多少問題はあるが――一八八二年(明治15)に樽井藤吉のおこした、「東洋社会党」といえよう。
(前略)七〇~八〇名で結成されたが、七月七日、政府は治安に害ありとしてこれを禁止した。翌年一月六日、樽井は再建をはかったが、ふたたび禁止され禁固刑に処せられた。
「綱領」や「盟約」はスチルナーの説くアナキズムによるところが多く、その思想は自由党左派の運動に大きな影響をあたえた。
著者の萩原晋太郎は、最終ページに書かれた略歴によると、
1925年東京に生まれる。
1946年5月、アナキスト連盟に参加。
1969年5月、麦社を設立。
略歴も最近の書籍はごてごてと装飾したものが多い。しかしこの本は素朴である。アナキズムといふと私は悪い印象しか持たないが、この本を読む限り好意的に見ることができる。
五月二十三日(水)「日清戦争以前」
明治27年の日清戦争は日本の資本主義の発展に転機をもたらした。組織的な労働運動が起きたのもこれ以後である。
それ以前の争議や騒擾は、記録されるものでは六一件ある。だがそれらは一揆的なもので、ストライキのための結束も、闘争がおわるとともに消滅してしまっている。
こうした情勢のなかで、徳富蘇峰が『国民之友』(八七年二月発刊)で先進国の労働運動や社会主義を紹介し、労働組合の結成をよびかけたことは意義ふかいものである。
欧米列強の労働運動が日本に紹介されたのはこのときからである。欧米列強のものを取り入れるときは功罪両面があることに注意する必要がある。
自由党左派と中江兆民門下の小島竜太郎・酒井雄三郎をはじめ、江口三省・直原守二郎・石川三四郎・佐藤・紺谷そのほかが、「社会問題研究会」をはじめた。彼らは財産平均論や、当時フランスでもっともさかんであったアナキズム運動、メーデー運動など夜を徹して論じあった。
五月二十四日(木)「日露戦争以前」
そして日清戦争は終はつた。この本は石川三四郎編・幸徳秋水補「日本社会主義史」を紹介してゐる。
「日清戦争終結を告げて、社会運動の舞台はひらかれぬ。いわく企業の勃興、いわく大工場の新建設、賃金労働者の激増、そしていわく軍備拡張、いわく租税増微、いわく物価の騰貴、いわく細民労働者の困窮。労働問題は世に喧伝せらるるにいたれり。」
一八九八年(明治31)に村井知至・幸徳伝次郎(秋水)・西川光二郎・木下尚江・片山潜らが「社会主義研究会」を結成する。翌年に
研究会は、「社会主義の原理を日本に応用すること」を目的として「社会主義協会」と改め、安倍磯雄が会長となった。
同じ年に治安警察法が公布され、労働組合加入、ストライキ、団体交渉を目的として「他人ヲ誘惑モシクハ煽動スルコトヲ得ズ」として実質的に労働運動が禁止された。
社会主義協会は、「人類の平等、軍備・階級制度の全廃、資本や重要企業の公有、財産の公平分配など」社会改造の最初の手段を普選の団交にあるとして、一九〇一年一月社会主義政党の結成をきめた。
そして社会民主党を結成したが政府は解散を命じ、翌月に社会平民党として届け出たが、これも即日禁止になつた。そして〇四年に協会は強制解散となつた。
五月二十六日(土)「日露戦争後」
一九〇三年(明治36)、ロシヤは満洲占領をくわだてて大軍を進駐し、日露開戦はさけがたい情勢となった。
今の拝米新自由主義派(例、朝日新聞)だと日本はすべて悪く欧米はすべて正しいといふ書き方だが、昭和44年はまだ客観的に見ることができたことが判る。とは言へ戦争には反対である。だから次の文が続く。
一〇月八日、『万朝報』は社長黒岩の心境の変化から主戦論に転じたので、翌日、内村・幸徳・堺は退社した。
退社の後は平民社を設立し戦争反対を主張したが、発売禁止、印刷機械の没収で廃刊となり、その後は分裂した。
・〇五年(明治38)一〇月二八日に渡米した幸徳は、I・W・Wの影響によって、それまでのマルクス派社会主義者から画然とアナキストに脱皮した。
・大杉は一一月二五日『光』第二八号に、「新兵諸君に訴う」(フランス・アナキスト団体機関紙『ラ・ナルシイ』掲載)を記載し、徴兵忌避をよびかけた。
・年末来の戦後恐慌による足尾をはじめとする争議の激化と大弾圧のなかで、アナキズムの浸透は大きかった。こうした渦中で二月一七日、錦輝館で日本社会党第二回大会がひらかれた。
大会は議会政策派と直接行動派があらそい、(中略)日本の社会運動史上はじめての大きな革命論争であり、アナ・ボル論争の第一号ともいうべきものである。
アナキズム(特にその中でもストライキ、生産管理などで無階級無国家社会を作らうとするアナルコサンジカリズム)と、ボルシェビズム(レーニン主義)の論争がアナ・ボル論争である。渡米やフランスアナキスト団体の影響を受けて、日本の国内とは無縁の論争を繰り広げたのがアナ・ボル論争だつた。この海外思想直輸入が重大な事件を引き起こすことになる。
五月二十六日(土)その二「大逆事件前夜」
一九〇六年(明治39)、岩佐佐太郎・赤羽巌穴ら在米邦人は、幸徳の感化をうけて「社会革命党」を結成し、機関紙『革命』を発行した。
当時在米のおもなアナキストは、つぎのとおりである。
岩崎佐太郎・長谷川市松・小成田悟郎・(以下12名の氏名)
岩佐・長谷川・小和田らは"The Terrorism"を発行してアメリカ中にまき、日本にも送っていた。
そして〇七年(明治40)一一月三日(天皇誕生日)を期して、岩佐らの「福音会」は公開状「睦仁に与うるの書」を発し、日本各地にかなりの部数を送った。この声明は、天皇が征服者・支配者・搾取者である実体をあばき、(中略)革命は必然であり、国際的なつながりをもつテロリズムによって、天皇に反抗すると述べている。
これはひどい内容である。そもそも諸悪の根源は西洋列強によるアジアの植民地化であり、資本主義や地主による搾取である。そのことを在米邦人は言へない。なぜならアメリカ自身も該当する。在米邦人が米国には都合の悪くはないことを日本に押し付けようとするとんでもない文書である。こんなものを日本各地にかなりの部数送れば日本国内は大変なことになる。
五月二十七日(日)「大逆事件発生」
この天皇制攻撃第一号は、明治政府に道鏡以来の不祥事件としてショックをあたえた。
(中略)のちに逸見直造・善三父子は、
「幸徳らを殺す動機を作ったものは岩佐である。」
と談じ、岩佐に、
「生きているうちに、"暗殺主義"時代の事情と責任を明らかにせよ。」
と再三迫った。だが岩佐はついにこの間の事情については黙したまま、六七年(昭和42)二月に世を去った。
一〇年五月、天皇暗殺計画を理由に数百名が検挙された。本当の関係者数は、弁護士が後に語つた数だと三~四名、警保局長も六月には「七名にすぎずして事件の範囲はきわめて狭小なり、騒々しく取沙汰するほどのことにあらず」と言つてゐた。これを大事件に捏造したのが明治政府だつた。
五月二十七日(日)その二「ロシア革命前」
十二年(大正元)、鈴木文治らが友愛会を結成した。
荒畑は当時、友愛会をつぎのように評している。
「友愛会の評議員も多くは学者、社会改良家、資本家であり、その運動方針は争議にさいして労資間の調停を勧告するものであった」
労資が協調するのは悪いことではない。私が総労働対総資本をいふのは日本では企業別組合だから総労働でないと労働者の団結が図れないのと生産性向上運動に巻き込まれるのと労働側に労働貴族が生まれることである。この三つの解決ができるならば労使協調は悪いことではない。
十三年(大正2)、石川三四郎はフランスに渡り滞欧は十年間に及ぶことになる。国内ではサンジカリズム研究会やアナキズム研究会がさかんに開かれた。
五月二十八日(月)「ロシア革命後」
二〇年(大正9)一〇月、大杉はコミンテルン社会主義者大会に出席した。そしてロシヤ革命の実体を見、共産主義がアナキズム否人類の敵であり、また「革命はどんなふうにやってはいけないか」を再確認した。マルキシズムの双子であるファシズムとボルシェビズムは、もはや解放運動に任ずる資格を全く失ったのである。
萩原氏の主張によればマルクスの二つの後継者がファシズムとレーニン主義だといふ。ファシズムもレーニン主義も西洋列強の帝国主義に乗り遅れた国に発生した現象で、マルクスの後継者とは異なる。レーニンはロシア領を譲歩してまで停戦するなどこの当時では優れた指導者といへる。レーニンが正しいかどうかは今後検証が必要である。
一方でアナキズムは社会を運営できるのか。この問題は後に触れるとしよう。こののち二一年(大正10)、大杉は近藤栄蔵、高津正道ら共産主義者と『労度運動』を発行、これを不満とする岩佐作太郎らは『労働者』を発行する。この年の暮に大杉は共産主義者との共同戦線に終止符を打ち、ソビエト共産党の実体をあばくとともに、バクーニンやクロポトキンの思想を宣伝した。
五月二十九日(火)「メーデー」
二〇年(大正9)、日本社会主義同盟が設立された。翌年プロフインテルン(赤色労働組合インター)が結成され、荒畑は共産主義に転向した。同盟は弾圧と思想対立から解散した。
対立の一つは友愛会の「労働組合に還れ」に対する進歩的労働者の不満、一つはアナ対ボルの抗争であった。
前年に続き、第二回メーデーが上野公園で開催された。以下の東京日日新聞の記事を引用してゐる。
定刻に松岡駒吉が壇上にたち『諸君、労働者の祝祭の日を象徴するメーデーの歌をうたいましょう』と叫ぶや、信友会や正進会は石油缶をたたいて革命歌を声をかぎりにどなり、松岡が開会の辞をはじめると同時に『演説無用』『理くつは知っている』『街頭に出でよ、しこうして戦え』と横槍を入れ(以下略)
本の末尾の註解には、「ああ革命は近づけり」の革命歌は禁止され、新メーデー歌「聞け万国の労働者」が募集で採用されたことが書かれてゐる。
五月三十日(水)「聞け万国の労働者」
「聞け万国の労働者」はよい歌詞である。ところがこの歌さへ今は連合も全労協も歌はなくなつてしまつた。その「聞け万国の労働者」では不十分だといふ。しかし改革は一歩づつ進めるべきで、その過程で既得権側となつた人達をどうするか。これが大切であり、そのためにマルクスの学説は今でも価値がある。その一方で一歩づつ進めることを改良主義だとして、外国の真似で批判してはいけない。「革命歌」が禁止されたのも歌詞に「露国」の2文字が入つてゐたからだ。海外の猿真似はいけない。
六月一日(金)「知識階級出身者のリーダーシツプ」
第二回メーデーは式典が終了した。
つぎに自由演壇になると、「緊急動議あり」と叫んで正進会の平野重吉が演壇にとびあがった。そして、「われらは知識階層出身者が労働運動のリーダーシップをとることに反対する」と演説した。
これは今でも正しい。知識階層が労働運動を進展させるなら歓迎である。実際は9割の人が停滞させる。西洋式の学問を世の中の為ではなく学歴といふ利己主義で学ぶためであらう。或いは祖国の伝統とは異なる西洋学問を無批判に受け入れるその鈍感のためであらう。特に連合総研と称する組織はまつたく役に立たない。
六月一日(金)その二「同盟会脱退」
第一回メーデーののちに「労働組合同盟会」が結成された。しかし第二回メーデーののちに友愛会が脱退した。これに対して労働組合同盟会は
『組織なき労働者に組織をあたえ、既成組合の連合提携を促進する』を目的とした労働組合同盟会成立の主動的地位にあった友愛会の脱退は、この目的を不要とみとめるか、もしくは労働組合同盟会の存在が、この目的の達成を妨害するとみとめるか、そのいずれかでなくてはならぬ
と批判した。これはまつたく同感である。しかし
労働組合主義は現在すべての組合の奉ずる主義であるが、それには二つの根本的な傾向上の差がある。すなわち一は資本主義打破を目的とするものであり、他は労資協調を目的とするものである。
労働組合は資本主義打破を目的とすべきである。それは現在にあつては資本主義は地球を滅ぼすし、地球温暖化が明らかになる前も資本主義の雇用は雇用を目的とせず利潤を目的とするから失業者や派遣や有期雇用を生むことであり、戦前にあつては帝国主義の原因であり、明治大正年間にあつては労働者の悲惨な生活の原因だからだ。
しかし資本主義を打倒したのちに(1)不安定、(2)官憲支配、(3)貧乏になつては困る。共産主義国はこの三つすべてに該当する。また労働者は自分の職場に愛着を持つ。のちの話だが昭和35年あたり以降、民間では総評系組合と第二組合が対立すると第二組合が勝つた。だから総国内では資本主義打倒を目指しながら各企業にあつては労資協調を目指すべきだ。
六月二日(土)「労働組合総連合」
二二年(大正11)、東京月島労働会館で「メーデー会計報告会」が開かれ
全国労働組合総連合を結成することが満場一致した。労働組合同盟会が分裂したのに再び違ふ名前で結成する経緯は書かれてゐない。また友愛会が総同盟と名を変へてゐる。この辺りの事情はアナキズムに都合のよいことしか載せず省いたのかも知れぬ。
準備委員会は、中央集権組織で目指す総同盟と、それに反対する組織が対立した。信友会・正進会の有志は次のパンフレツトを配布した。
「・・・・もし労働者のなかに、他の労働者を自分の利益のために犠牲とするところの資本家的精神や、権力で人を支配しようとする支配階級的精神から脱却していなければ、よし今すぐに資本家を倒すことができても、それは徳川の天下が薩長閥の天下になったと同じことだ。
労農ロシヤの労働組合が、ボルシェビキ自身もみとめているとおり、官僚的に堕落したことや、強制的に加入させているにもかかわらず一般組合員の離反する傾向が多いのは、中央集権組織そのものが労働者解放運動の精神にそむくからだ。」
前半はまつたく同感で今でも、他の労働者を自分の利益のために犠牲とする連中(例へば派遣や有期や下請けの犠牲の上で自分たちだけいい思ひをする電機連合)が多い。後半の官僚的に堕落することへの批判は同感だが、中央集権化を進めないことは逆に日本の労働運動の欠点である。企業別の単組だけが予算と組織を握り、単産や連合は権限がない。一方で単産や連合の役員は(1)出身組合の意向だけを尊重したり、(2)会長になりたい(例、高木剛)だとか、(3)国会議員になりたい(例、藁科満治)といつた連中ばかりだから、やはり中央集権は進めてはいけないといふ矛盾した状態に陥つてゐる。
総同盟は結成大会の前々夜に伸鋼工組合に荒畑寒村らが集まり自由連合派の排撃を協議した。だから後半はアナ・ボル論争そのものと言へる。大会の代議員106名のなかで総同盟派には松岡駒吉、西尾末広などがゐる。荒畑は傍聴席だつた。大会は大混乱に陥り労働組合総連合は結成されなかつた。
六月二日(土)その二「社会民主主義と共産主義とアナキスト」
松岡駒吉、西尾末広は反共の労働活動家である。一方の荒畑寒村は第一次日本共産党の結成に参加し、解散ののちは労農派の中心メンバーになり、戦後派日本社会党の国会議員を二期務めた。この3人がなぜ総同盟なのかについて、次の記述がある。
総同盟の指導者の多くは社会民主主義者であった。だがポルシェビストは、アナキズムをたたきつぶし、中央集権支配を確立するために、総同盟と結託したのであった。
大正期の運動がアナボル抗争、AB論争と形容されるのはこのためである。
一方で
アナキスト陣営はアナルコサンジカリストと、自称純正アナキストが対立していた。(中略)なお大会には、A・I・T書記長アウガスチン・スーシィがベルリンから祝辞を送ってきている。
これは今回の特集の私の結論だが、日本国内の問題を解決するには日本国内で努力するしかない。それを社会民主主義だ、ポルシェビストだ、アナルコサンジカリストだ、自称純正アナキストだと対立し、最後はすべて自滅する。戦後の社会党解体も同じ理由であつた。社会民主主義とマルクスとアナキストの主張を学説として参考にするのはよいことだ。しかし全部を信じてはいけない。
六月二日(土)その三「労組結成が難しくなつた理由」
組織化が難しくなつた理由についての記述もある。
明治時代には熟練労働者の移動が容易であり、横断的な労働市場が自然発生的に形づくられていた。このため横断組合の結成もまた比較的に容易であった。
だが第一次大戦による産業資本の確立とともに、紡績・石炭・鉄鋼などの大資本と軍工廠は、横断的労働市場を企業別に分断し閉鎖する政策をとった。つまり、それまで労働ボスなどによっていた労働力の調達をやめて、常傭労働者を永年勤続させる「永久職工」制度をとるようになったのである。
アナキスト系の労働組合は三四年(昭和9)で4000名。これは労働者総数の0.07%弱、組織労働者の1.03%である。戦後も少数に留まつた。昭和21年に日労会議が結成された。スローガンは
一、政党の労組介入支配絶対反対
一、労働組合の徹底的民主化
一、産業の復興はわれらの手で
一、労働組合戦線の統一
一、世界労働組合会議への参加
一、労働組合の徹底的自主権の確立
であつた。総同盟(左右社会党系)、産別(共産党系)に対抗したことがよく判るが、徹底的民主化は組合員の意識による。民主主義に欠ける人間ほど民主主義といふ名の多数決を好む。御用組合になつたときに多数派への理論がこれだと不十分である。この本も「労働者の解放は労働者自身の手で」とサンジカリズムを志向する反面、御用組合からぬけきれない多くの労組が同居するという弱さがあったと認めてゐる。人数も2万人でしかなかつた。日労会議は他の中立組合と結合し全日労となつた。世界会議への参加については「国際的には世界労連の理論的意義はみとめるが、ソ同盟の支配下にある世界労連には今すぐ加盟する考えはない」。四九年(昭和24)全日労は国債自由労連に加入した。各労組のアナキストは反対したが冷戦下で少数派に留まつた。たとえば電産のアナキストは
I・C・F・T・U(国際自由労連)はアメリカ帝国主義・ウオール街の代弁者であり、W・F・T・U(世界労連)はソ連帝国主義・コミンホルムの出店である。(中略)したがって、このどちらにくわわることも、われわれ日本民族を思想的に奴隷化することであり、世界戦争にまきこまれることになる。
われわれは、バクーニンのインターナショナルの精神を継ぐ、革命的サンジカリストの世界連合A・I・Tに団結せねばならぬ
五〇年(昭和25)総評が結成された。全日労は総評加盟を決定した。反対した組合は
日本の労働運動がアメリカ式でもソ連式でもなく、自由にしてかつ民主的な日本労働運動の確立であり、日経連・資本家・吉田内閣がわめく『ソ連かアメリカか』米ソ戦争から日本の労働者を守ろうとする批判と努力があらわれきたり、総評参加保留となってきたものである。
或いは次のようにも主張した。
われわれの総評参加反対の理由は、国際的国内的情勢の変化に対する日本の労働組合が、自分の力で民族の独立と労働者の解放を闘いとるためには、乞食根性を捨て去らねばならないことを強く主張する。
このときの総評は大転換の前だから総評に反対することは意義がある。そしてソ連が崩壊し、日本国内に拝米勢力が増大した今となつては、大手労働組合は企業主義、政治屋は拝米と、乞食根性だらけになつてしまつた。このときの主張は今でも正しい。
六月三日(日)「すべてはソ連型への不支持から生まれた」
アナキズムの父といはれるプルードンやバクーニンは元々マルクスの仲間であつた。マルクスがプルードンの著書を批判してから二人は不仲となつた。マルクスとバクーニンは第一次インターナシヨナルで不仲となつた。ソ連が建国されそれに批判的な人たちがプルードンやバクーニンを担いでアナキズムになつた。
ソ連の跡を継いだスターリンに批判的だつた新左翼がトロツキー主義者になつた。同じく日本では同じアジアといふことで社会党佐々木派が毛沢東派になつた。欧州の経済にあこがれた人たちは社会民主主義を自称した。
つまり日本の労働運動や社会主義勢力は、すべて海外のどれかを真似することで不要な分裂を起こした。しかし模範がないと政策は不安定になる。ここに伝統を引き継ぐ必要が生まれる。海外の真似をしなければ改良主義で行くことになる。その間で既得権勢力が発生しないやうにマルクス、プルードン、バクーニン、トロツキーの学説を活用すべきだ。
国家の戦争が続発する時代にあつては、無政府主義といふ言葉に意義もあつた。しかし今はグローバリズムといふ化け物がカネを吸い上げ、あげくに地球を破壊しようとしてゐる。平和を前提とした反グローバリズムが重要である。(完)
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