八百五十七 在日ミャンマー人向けの止観会に参加

平成二十八年丙申
七月十九日(火) 久しぶりのミャンマー仏教
(瞑想と云ふと目をつぶる意味が強く、坐禅と呼ぶと曹洞宗と臨済宗に特化するため、昨年あたりから止観と呼ぶことにしてゐます。内容は瞑想と同じです。)昨日は久しぶりにミャンマー仏教に参加した。昨年の十月以来だから九か月ぶり、十一月に増上寺境内でミャンマー祭りがあったからそれから数へても八か月を経過した。会場はミャンマー寺院では手狭なので近くの地域センターで行った。ミャンマー寺院は法人を設立するときに宗教法人は基礎財産がないと設立できないので、ミャンマー文化福祉協会として登記した。昨年ミャンマー祭りで頂いたカレンダーには福祉協会と並んでミャンマー上座部仏教協会の紋章がある。
私はミャンマー経典学習会は参加者の立場だが、学習会を主宰し福祉協会の日本人顧問のようなこともされてゐるIさんがゐる。そのIさんに上座部仏教協会を質問したが、板橋に移転する以前の大塚時代ではないかといふことで現存するかについてはよく判らない様子だった。
Iさんは毎年ミャンマーからクムダ・セヤドー(セヤドーは僧侶の尊称)といふ止観専門僧を招聘し、一日単位の止観会を全国何箇所(東京以外で行ふものは地元の方が主催)かで行ったり、伊豆、房総、群馬県などで一週間程度の合宿を行ふ。日本にお呼びするための寄付募集と航空機、会場手配、ビザ手続きとその献身ぶりは日本の仏教徒の模範といふべきものだ。今年も土曜はIさん主催の「東京瞑想会」、日曜が今回初めてのミャンマー上座部仏教協会主催の雨安居入り儀式、そして昨日がミャンマー上座部仏教協会主催の在日ミャンマー人向けの止観法話会だった。土曜日曜と予定があったため、私は昨日に参加した。

七月二十日(水) 雨安居入りの儀式
雨安居入りの儀式は
10時頃 お坊さまへの食事供養、12時頃 在家の人たちの食事(ミャンマー文化福祉協会にて)、13時半頃 お坊さまの法話
とあり、参加した人の話では百人ほどでぎっしりだったさうだ。会場は止観法話会と同じ場所で、つまり二日連続で借りた(二日目は午後と夜間)。雨安居に入るに当り、衣などを寄進する儀式だが、参加者が順番に同じ衣を僧に寄進したさうだ。通訳が付かなかったので、法話はまったく判らなかったとのことだった。

七月二十四日(日) 止観
1時開始の予定だったが仏像、ミャンマー語の垂れ幕などの安置に手間取り、止観の始まったのは1時15分だった。ミャンマーの民族衣装を着た男女が数人づつゐた。女性で肩に袈裟(いろいろな巻き方、柄の写真へ)を巻いた人は十人くらいゐた。全部で70人くらいで日本人はそのうち10名くらいだらうか。坊主頭の日本人が何人もゐた。ミャンマーの止観センターである僧院で修行し帰国したのであらう。その熱心さには頭が下がる。2時まで止観ののち30分休憩、1時間止観ののち3時半からクムダ・セヤドーの指導(写真へ、仏像の背後が大きく光ったときだったので暗く写ったが会場は明るい)があった。ミャンマー語のため判らなかった。4時に経典学習会の通訳をしてくださる若い女性が到着し、暫くしてセヤドーが要点を再度話され、日本語に通訳してくださった。4時45分から1時間止観、15分休憩の後に1時間止観を行ひ、質問の時間に入ったが特に無かったので記念写真を撮り6時15分に散会した。
私は2回目の瞑想の途中から強い首凝り、肩凝りに悩まされた。休憩の度に地域センターの周りを1区画づづ遠回りに走った。次に大回りすると川越街道に至るところだった。休憩の時間に廊下で経行される熱心なミャンマー人の方、特に女性が数人ゐらっしゃった。休憩のとき民族服で向かひの7イレブンに買い物に行く女性を目にした。
仏像は背後で電光が色を変へて点滅するもの(写真へ)が、今は普及した。私が初めて電光式の仏像を観たのは今から二十年以上前にスリランカだった。まだ一つしかなく高僧が別の僧侶に説明してゐた。日本のミャンマー寺院に導入されたのは七年くらい前だらうか。タイに二ヵ月ほど出張したときは一つもなかった。
散会の後、多くの人は東武線の駅に向かったが、私は千川まで2Kmを七割くらい走った。走れば血流が良くなって首凝りと肩凝りが治るかと思った。多少良くなったが思ったほどではなかった。

七月二十四日(日)その二 クムダ・セヤドーのお話
通訳さんが来られた後に、セヤドーの話された内容はメモだから抜けたところはあるが、以下の如し。
戒律守ってから瞑想する。自分の心の汚いものが残ってしまふため。綺麗な心で瞑想すると、どんどん上がって行くことができる。瞑想すると心が過去に行きたがる。前へ進めなくなる。戒律の次のステップはサマリー(心を落ち着ける)。サマリーまでやらないと心があちこちさまよってしまふ。まづ深呼吸。入って出る。これでサマリーになれる。色、光が見えてくる。32の体の部分に集中、見えるやうにする。髪、毛、爪、歯、皮膚、肉、筋肉、骨、骨髄、心臓、肝臓、横隔膜、肺、腸、腸間膜、胃、胃に入ってくる新しいもの、胃から出る古いもの、脂肪、汗、唾液、涙、尿(メモが間に合はず九つ足りない)。x(聞き損ねた)の瞑想、死に関する瞑想、ルパ、パティサットモカ、・・・。ウィパッサナは何回も繰り返さないと涅槃に至らない。ルパ、ナマを行って心、体が無くなる。無常、苦、無我
32の体の部分を聴くと、大乗仏教関係者の中には自分の修行ばかりを考へる小乗仏教だ、と批判する人もゐよう。しかし天台大師の魔訶止観にもこのやうなことは書いてある。
私は上座部仏教を信仰するときは限りなく伝統的な上座部仏教信者でありたい。だから止観にそれほど熱心ではないが、一方で熱心に止観する信者に純粋に信仰する人が多いので、私自身は肩凝りなどで座しての止観(瞑想、坐禅)は向かないが、その機会があればいっしょに参加したいと思ふ。私自身は通勤時にバスの中、電車の中で止観するやうにしてゐる。目指すところは六根の認識とその奥の存在。
ミャンマー上座部仏教を学んでよかったと思ふことがある。それはミャンマー人の社会では怒ることは悪いことだといふ認識がある。これは大乗仏教では学べなかった。
写真撮影の前にIさんが、伊豆と水上で合宿があると日本語で案内された。Iさんは止観の前後で鐘を鳴らす役割もされた。或いは日本人参加者は十人ではなくもっと多いのかなとも思った。しかし私の見たところではやはり十人くらいだと思ふ。(完)


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