七百二十九(丙) 早速現れた浄土教寺院参詣の御利益(藤本晃氏の名著との出会ひ)

平成二十七乙未
八月二十二日(土) 浄土教の書籍
築地本願寺、芝増上寺に参詣するとともに浄土教の書籍を五冊読んだ。まづは「うちのお寺は浄土真宗」「浄土真宗の基礎知識」「極楽の本」「シリーズ大乗仏教5 仏と浄土」「浄土真宗は仏教なのか」である。最初の三冊は入門の書で役に立つた。四冊目は論文集でこれは少し目的が違ひ私には向かなかつた。五冊目の「浄土真宗は仏教なのか」は名著である。このような名著に出会ふのは、浄土教寺院に参詣した御利益だ。最初はさう感激した。しかしある文章で冷めたものになつた。その後、念のため著者の藤本氏について調べると再び名著だと思ふようになつた。浄土真宗本願寺派を離脱したようで、私が最初に見た或る寺院のブログは
まず、タイトルの問いですが・・・。/『浄土真宗は仏教なのか?』/・・・はい、仏教です。/おわり。


これだと少ないので続きがある。
・・・著者・藤本晃氏は浄土真宗本願寺派寺院の住職でしたが、上座部(小乗)仏教のアルボムッレ・スマナサーラに師事され、自坊でもたびたびその講師を招聘した点が真宗の宗風に合わないとされ、ついには僧籍剥奪・宗派離脱の処分を受けられ、そのご単立寺院の住職としてご活躍されている模様(本書356頁〜)。/著書は非常に真摯な僧侶であり、仏教を根本から学ばれ、実践されている。そのことは称賛に値する。しかし、とかく大乗経典を偽経であると強調し、阿弥陀如来は虚構だとし、釈迦牟尼時代の言行こそが真実とし、釈迦牟尼と乖離する浄土真宗の教学(ただちに親鸞教学、ではないだろう)を批判されるものである。


しかしこのブログを書かれたのは良心的な方で
宗教の問題はとにかくやっかいで、熱心になればなるほど、外部の声を聞き入れようとしなくなる。そういう悪弊が既得権益の中にいる我々にはあります。


と述べられる。しかし最後は
まあ、著書は宗派離脱したんだし、何も言うことはございません。ただ、当寺の門信徒もまとめて宗派から離脱されていますので、その点はお気の毒にと思わずにはいられません。


と結論づけられた。藤本氏が離脱してまでスマナサーラ長老に師事したことに敬意を表するし、一方でホームページを書かれた方の真宗への信仰心にも敬意を表するものである。

八月二十二日(土)その二 「浄土真宗は仏教なのか」に一度は冷めた理由
第一章、第二章に対し賞賛の感激が続く中、第三章の途中で突然嫌な気持ちになつた。まづ
日本仏教や僧侶に対して、一般の人々もちょっと気をつけないといけません。「修行も勉強もしないで、だらしないではないか」と僧侶に怒ることは、けしからんことではありません。一番ましなことです。「現状をなんとかしてくれ。少しは成長しろ」という、という、仏教や僧侶に対する叱咤激励が含まれているのです。


ここまで完全に藤本氏に賛成である。このあと無関心になつて仏教から離れるのはちよつと危険だと述べた述べたあと
一番困るのは、「こんな日本の坊主や仏教ではダメだから、いっそ足を引っ張って潰してしまえ」などという気持ちで、個々の悪い部分を取り上げて日本仏教全体の問題であるかのように宣伝したり、自分の方がよく仏教を勉強して理解していると思って僧侶を見下したりすることです。自分を高く評価する慢は、とても危険な心の歪みです。しかも、見下す相手が仏教では、勝ち目はありません。肥壺に落ちて糞尿にまみれた豚が「獅子を追い払ったぞ」と調子に乗るようなものです。
ちょっと仏教をかじって「俺は仏教を知っている」とうぬぼれた人が、もし目の前の僧侶や日本仏教が気に入らないなら、こう聞くかもしれません(そういう人は、お釈迦様のことも正式名の釈尊[釈迦牟尼]とは言わず、なぜか国名の「釈迦」だけで言い表します)。


私は僧侶が信徒を馬鹿にすること(例、NHKこころの時代「釈尊の遺言〜仏遺教経から」の「北枕は縁起が悪いといふ馬鹿がゐる」といふ発言)には絶対に反対である。僧侶だけではない。強い立場にある者が弱い立場にある者を馬鹿にすることにも反対である。私は今までに専門学校教師時代の学生を馬鹿呼ばわりしたことは一度もない。今でもさうだが会社で後輩に対し馬鹿呼ばわりしたこともない。林家木久扇を馬鹿な落語屋と呼んだことはあるが木久扇はテレビにレギュラーで出演しほとんどの国民が知つてゐる。だいたい同じ出演者が何十年も続けることは若い人の成長機会を奪ひ老害である。さういふ人は批判してもよい。
だから藤本氏のこの文章を読んだときは今までの感激が一瞬のうちに崩れた。しかし浄土真宗本願寺派を離脱してまで本当の仏教を求めたことを知つた。もう一度藤本氏の文章を読むと、どこかの組織に属して組織の布教目標だけを優先させる人や仏教に敵意を抱く人への批判であり、実際そのような人に遭遇するとこの程度の批判は出てくるものである。それにしても総代や檀徒を含めて全体を離脱させるには、よほど人徳がないとできない。改めて藤本氏に敬意を表する次第である。

八月二十三日(日) 偽経ではあつても大乗仏教を認める理由、藤本氏と私の違ひ
藤本氏は大乗経典を偽経だとする。そしてこれは不妄語戒に反するといふ。ここまで私も同意見である。次に藤本氏は
しかし、どうぞご安心ください。検証結果を先に申しますと、「浄土真宗は、初期仏教以来の在家信者が生きるべきみちをしっかり踏まえた立派な仏教」だと言えます。


ここも同感である。藤本氏は阿弥陀仏、浄土、極楽、還相回向、自力と他力について章を分けて解説されてゐる。私が大乗仏教を認める理由は藤本氏とは少し異なる。私は大乗仏教の念仏や題目を唱へるのは瞑想の方法といふ立場である。それでは拝むものは瞑想に役立てば何でもよいのかといふと伝統が必要である。人類は永い年月と弾圧を受けても永続できるものを残した。戦後現れた新興宗教は弾圧を受けたら永続できない。

八月二十五日(火) 藤本氏の著書で一番感服した部分
藤本氏の著書で一番感服したのは、大乗仏教の成立過程である。藤本氏は、アソーカ王に還俗させられたグループやどこかの部派から破門されたグループだと想像する。還俗させられたといふのは
戒律や教義に関して、あまりにもお釈迦様の教えから離れてしまったいくつかの部派(サンガ)を解散させ(中略)もちろん、殺すどころか、就職の斡旋までしてあげたのですが(以下略)

とある。仮説の域を出ないが、私はこの説に賛成である。

八月二十六日(水) アビダンマ
前にスマナサーラ長老の『ブッダの実践心理学〜アビダンマ講義シリーズ第二巻「心の分析」』を図書館で借りて途中まで読んだことがあつた。難しいので途中で返却した。著者名にスマナサーラ長老のほかにもう一名あり、テープ起こしをしたが長老の好意で共著者になつたことが書かれてゐた。誰だつたか名前は知らなかつたが第一巻「物質の分析」を読んで共著者とは藤本氏だつたのかと始めて知つた。平成十七(2005)年の出版である。今回も途中の地水火風で挫折したが、アビダンマの総説が書かれてゐてなるほどと納得した。第八巻で完結するのが平成二十五年だから大変な偉業である。これらに比べたら東本願寺派の離脱は微細な問題である。
藤本氏の単著「『アビダンマッタサンガハ』を読む」も読んだ。これは最後まで読んだ。『アビダンマッタサンガハ』は『アビダンマ』が難解なのでその概略書である。項目だけの場合もあり、しかし読むことで全体を知ることができる。藤本氏はその解説を出された。この著書の冒頭で藤本氏は少し前まで、部派仏教は王や金持ちから寄進を受けて時間か余つたから『アビダンマ』のような理論に走り堕落したといふ迷信が広まつてゐたと書かれてゐる。実を云ふと私は、『アビダンマ』を含む部派仏教の論蔵は時間が余つたから理論に走り堕落した産物だと内心は思つてきた。しかしこの形態で上座部仏教は今日まで続いたのだからこの形態を続けるべきだといふのが私の意見である。藤本氏は続けて、もし部派仏教が堕落したのならその前の状態に戻ればよいのに大乗仏教は偽経を作つたと云はれ、ここは私も同意見である。
書籍に書かれた藤本氏の経歴を見て、藤本氏を賞賛することをもう一つ発見した。アメリカだつたかカナダだつたか二年間留学され修士修了されたのに西洋かぶれがまつたくない。留学者の中には学問を学ばず西洋かぶれ、西洋猿真似になるだけの人が多いなかで立派である。(完)


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大乗仏教(禅、浄土、真言)その十三
大乗仏教(禅、浄土、真言)その十五

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