六百六十六、スマナサーラ師の名著「死後はどうなるの」

平成二十七乙未
二月四日(水) やつと読めた名著
年末年始にスマナサーラ長老の書籍を八冊くらい読み、特集を組んだとき、同時に予約したにも関はらず到着が1冊だけ極めて遅れた。それが「死後はどうなるの」である。この書籍は名著である。年末か1月初めに予約し待機者が0人だつたにも関はらず今頃貸し出しを受けたのは、文庫本で小さいので紛れたのであらう。といふのは好意的な見かたで税金で運営されるからいい加減に探して見つからないと長時間放置するのだらう。
スマナサーラ師は日本語が堪能なうえに著書が多い。そのなかでも「死後はどうなるの」は最大の名著といつてもよい。

二月八日(日) 第1章死後の世界を考える前に
スマナサーラ長老は死後の世界はあるとも言えないし、ないとも言えないと述べる。そして次に大切なポイントは、死後があろうがなかろうが、「私たちはどのように生きていますか?(中略)どのくらい点数をつけられますか?」ということなのです。(中略)常識で考えると、「この人生には大失敗したから、来世はすばらしいものになる」ということは言えません。

ここまで極めて常識的である。そして点数とは徳を積むことだといふ。そしてパーリ経典を紹介する。
ある日、帝釈天(神々の王さま)がお釈迦さまに会って聞きました。
「どうすれば人々は天界に生まれ変わりますか?」
お釈迦さまはこうお答えになられました。
「男性であるならきちんと法に従って正しくお金を儲けて自分の家族を養うこと。女性ならば、自分の家のしきたりを正しく守って家族を守ることです。それから殺生したり、嘘を言ったり、人のものを盗ったり、そういう善くない行動はやめて、ごく普通に生活するならば、どんな人でも亡くなったら天界に行くのです」と。


この説明を男女差別だと言つてはいけない。プラザ合意の前まで男は肉体労働か粉塵など環境の悪い場所での作業、女は家事に追はれるといふのが一般だつた。だからこの説明を変に思ふ人はゐなかつた。プラザ合意以降は円高で化石燃料が安くなり機器の発達で肉体労働や劣悪環境での作業や家事から解放された。今違和感を感じる人はこれらを考慮し、しかも化石燃料の消費を止めたらどれだけ残るか。だからといつて待遇に差別があつてはいけない。その上での役割分担である。

二月八日(日)その二 第2章ブッダはなぜ輪廻転生を問題にしたのか
どんな境涯に生まれ変わっても苦しみだけはなくならない。どこまで過去を思い出してみても、輪廻転生はただ苦難の連続だったのです。

ここも今は化石燃料の浪費で贅沢な生活だから苦難の連続とは感じない。だつたら逆に「二度と生まれ変はらない」ではなく「永久に死なない」といつても同じである。
仏教では、輪廻転生について二種類の人間に通用するように教えています。ひとつは私のように、輪廻を信じている人間です。(中略)輪廻を信じない人々にも同じ事を言っている。「あなたは生まれたときからいままで何を体験して生きてきたのですか」「何のために生きているのですか」(以下略)

このような議論をできることがスマナサーラ長老の優れたところである。次に
現代社会には、輪廻転生の思想はもともとヒンドゥー教の教えで、仏教でいう輪廻転生はヒンドゥー教から借りたものだという説がひろまっています。でも、これはちょっと調べてみるとおかしな主張なのです。なぜならば、ヒンドゥー教の最も古い経典はヴェーダ聖典です。(中略)どこを探しても、輪廻とかカルマ(業)といった概念は見当たらないのです。

スリランカなどで輪廻を証明する事例を幾つか紹介してゐる。小さな子供が自分の過去世を言ふのでそこに連れて行くと真実だつたといふ話である。日本でもあるはずだが輪廻を認めない文化が子どもの言ふことを信用せず抑へてしまふ。

二月九日(月) 第3章生滅変化論という偉大な発見
現代科学では、エネルギー不滅の法則ということをごく普通に考えています。(中略)科学者は知ろうともしないのですが、こころもひとつの巨大なエネルギーなのです。(中略)消えないし、消すことはできないはずです。

ここまで同感である。スマナサーラ師のいふ生滅変化論とは生きたり死んだりして変化するけど変はらないといふ意味である。日本語の感覚でいへば生滅不変論といつてもよい。一人或いは一匹の生命は他の生命と混ざるだらうか。最近の仏教解説書では混ざるような書き方をする書籍が目立つ。しかし生命が他の生命と混ざつてはいけない。スマナサーラ師のエネルギーといふのはこれ以上分割できない量子としてのエネルギーが一つの生命といふことであり、決して混ざる事のできる全体としてのエネルギーではない。果たしてどちらが正しいか知りたかつたが、第三章を読みこれが正しいことを知り安心した。
スマナサーラ師が普遍論と云はずに変化論と云つたのは一つ理由がある。川の流れに例へて常に変化する事を章の最後に書いてゐる。諸行無常である。方丈記の「行く川の流れは絶へずしてしかも元の水に非ず」である。

二月十日(水) 第四章輪廻する生命の世界
仏教でいう「神」とは何のことでしょうか?(中略)私たちが知っている世界というのは三次元の物質世界だけです。科学者の言うビッグバンも銀河系宇宙も全部三次元なのです。(中略)しかし、経典では、世界にはいろいろ次元があって、人間に認識できない時限にも生命がいると説かれています。神々というのは、そういった異次元に住む生命の一種のことです。
仏教は存在しうるすべての生命について説明しています。梵天、神々、人間、修羅、餓鬼、畜生、地獄などの話は一般的です。


まづ異次元の話はスマナサーラ師の近代科学との融合でよい話である。私は異次元までは気がつかなかつた。梵天と神々を分けたところは大乗仏教と異なる。大乗仏教では梵天と帝釈天を同列に扱ふからである。
高いレベルの神々の場合ですと、慈しみや平安な心、落ち着きの状態、そういう清らから感情を栄養として摂取している神々がいます。そういう境地の生命を梵天(ブラフマン)と言うのです。(中略)お釈迦様の時代にあったバラモン教(のちのヒンドゥー教)では、このブラフマンを最高神(創造神)だとして崇めていました。

しかし梵天も一切は無常であることに気がつかない。
とは言っても、いったん梵天に生まれたらそれで輪廻転生の苦しみが終了になる、という天界もあります。仏教の悟りの境地で、不還果という、阿羅漢果よりひとつ手前の悟りを得た聖者が生まれ変わる特別な梵天です。(中略)普通の梵天とは違います。聖者だけが入る特別な次元であって、そこを浄居(じょうご)と呼んでいるのです。

スマナサーラ師は、大乗仏教の浄土はこの不還果を下敷きにしてゐるのではないかとする。そして
さらに時代がくだると「南無阿弥陀仏」と念じることで、そこへ往生できますよ、ということにもなりました。お釈迦さまの説かれたもともとの修行法のなかにも、「南無阿弥陀仏」こそありませんが、仏陀の徳を念じるという瞑想(サマタ瞑想の一種、止)があることは確かです。しかしその瞑想はあくまで、悟りに至る瞑想法(ヴィパッサナー瞑想、観)を進めるための補助的な瞑想法なのですが・・・・。

悟りに至る瞑想法(ヴィパッサナー瞑想、観)を進めるための補助的「の部分は釈迦滅後の部派仏教の時代に増補された部分なので、私は採らない。私は大乗仏教の祈りは上座部仏教の瞑想と同じといふ立場である。

二月十一日(木) 第五章私はどこに生まれ変わるのか
私たちが来世に生まれ変わる場所なのですが、(中略)人間に生まれ変わるのはすごく難しくて、宝くじが当たるのと同じような確率なのです。(中略)第1章で紹介したように、こころを清らかにして、戒律を守って、人々を助けて、人間としての責任を果たしている道徳的な人は天界に生まれ変わる。それはそれほど困難なことではありません。

しかし上座部仏教にはこんな物語もある。
天界で神々の寿命が尽きて死にそうになると(中略)神々が来て、「あなたはもう死に増すから、ここで死んだら天界に言ってください」とお願いするのです。死にかけの神さまはびっくりして、「天界と言っても、ここだって天界でしょうに。(以下略)」と訊くと、偉い神々は「それは人間界のことです。(以下略)
普通の田舎のおじいちゃん、おばあちゃんたちもそういう話を聞いて「天界というのはロクなところではない」と理解するのです。人間としてしっかり生きればと道徳を実践できるし、修行して輪廻を解脱することもできる。天界でただ自分の徳を消費するだけの生活を送ったところで、あまりに空しいですから。


二月十一日(木)その二 第六章善行為こそが幸福の鍵
いわゆる先祖供養をする場合、ホントはこの餓鬼道にいる人々に向けて供養するものなのです。自分の親戚が亡くなったとして、もし幸いにも人間に生まれ変わっていたとしたら、四十九日の法要をしている時はお母さんのお腹で栄養をとることに必死でしょう。動物に生まれ変わっていたとしたら、もうそれぞれの生を必死に生きているでしょう。(中略)まして天界に生まれ変わっているならば、人間よりもよほど清らかな精神的エネルギーを持っているのだから、人間の供養など気持ち悪くて受けられない。地獄の生命の場合もまた(中略)親類の供養が届かないのです。

ここまで完全に同感である。と同時になぜ先祖供養が必要なのかも明白になる。本来四十九日以降は不要だからである。この点について
餓鬼道の生命は、この世に対して執着を捨てていません。とっくに亡くなったにもかかわらず、人々の近くでうろうろしているのです。(中略)大乗仏教で「中有(ちゅうう)」と言っている状態なのです。
初期仏教には中有という概念はありませんが、そういう「成仏していない霊」のことも餓鬼だと(中略)説明しています。


二月十六日(月) 書籍返却
この書籍は次の予約が入つたから延長不可能である。だから期限の昨日返還した。あと紹介したかつたことが一つ二つあるかも知れないが、この名著が多くの人に読まれるとよいと思ふ。(完)


上座部仏教(29)
上座部仏教(31)

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