七百二十、築地本願寺の仏教文化講座(出久根達郎氏)

平成二十七乙未
七月四日(土) 築地本願寺
池上本門寺の郎子会館では第一土曜から第四土曜まで、それぞれ学習会がある。私は第四土曜の桐谷征一師「宮沢賢治と一緒に法華経を楽しもう」に出席するようになつた。それ以外にも参加しようと思ひ立ち、本日は立正大学元学長渡邊寶陽師の「日蓮聖人に学ぶ」である。ところが朝、真宗の講演会に行かうと思ひ付いた。それは日蓮宗だけに肩入れしても日本はよくならない。日蓮宗だけで広宣流布(日本中を信徒にすること)できるのであればすべきだ。しかし不可能である以上、すべての宗教を活性化させることが肝要である。私は曹洞宗の座禅会にはずいぶん参加したから、日本の檀家数の比率であとは真宗と真言宗である。といふことで急遽、予定を変更して築地本願寺の仏教文化講座に出席することにした。
子供のころ日本昔話を読んだことを思ひ出した。鬼が人間の家に来た。この鬼は人の心を読み取る能力がある。ところが人間が手を滑らしやかんをひつくり返して鬼にお湯が掛かつた。「人間は心に思はないことをするから怖い」と鬼が退散する話であつた。私の突然の変更はこの話に近いかなと、ふと思つた。

七月五日(日) 出久根達郎氏
講師は作家で読売新聞の人生相談も担当される出久根達郎氏である。茨城県の北浦と霞ヶ浦に挟まれた半農半魚業の地域で、父親は印刷業を営んでゐたが、戦争で鉛を国に買ひ上げられ、活字がなくなつて商売ができなくなつた。父親は雑誌の懸賞に応募し賞金を狙つたが、三等のボールペンなど商品が多く、近所に売つて生活費に充てたので貧乏だつた。中学を卒業とともに集団就職した。東京月島の本屋だつた。
出久根達郎氏の講演は誰もが親しみを持つて聴くことができる。それは偉ぶらないからである。前にテレビのコメンテーターといふ人の講演を聴いたことがあるが、途中で嫌になつた。この人は自分のことを偉いと勘違ひしてゐると強く感じた。出久根氏はそのようなところがまつたくない。さすが人生相談を担当されるだけはあると好感を持つた。

七月五日(日)その二 井伏鱒二
出久根氏は新刊本の書籍店に就職のつもりだつた。しかし行つてみると古本屋である。古本屋だつたのでよかつたといふ。暇なのでいろいろな本と出合へた。古本屋はお客さんの顔を見てはいけない。何の本を見るかはその人の思想だからだといふ。下を見て本を読む。また本棚にはたきを掛けるときは題名と著者名を見る。本の中身も最初の部分或いは解説を読んでおく。
そのうち井伏鱒二が気に入り、ファンレターを出した。当時勤労少年は水戸黄門の印籠みたいだつた。あるとき上高地の絵葉書で返事が来た。私なんかの本は読まないほうがいいと書いてあつた。16歳には合はないといふことだらう。しかしますます舞ひ上がつて長いファンレターを書いた。井伏鱒二の奥さんから電話があり、一回訪問することになつた。奥さんが行き方を説明してくれて月島から荻窪まで一本の都電で行けて十五円だつた。本当は東京駅までバスで行つて中央線が早いが、勤労少年でお金がないだらうと教へてくれた。

ここは聴いてゐて、即座に記憶違ひだと判つた。月島から新宿まで都電がある。新宿から荻窪までの路線は都電だが線路幅が違ふ。昔は乗換券で乗り換へても料金は同じだつた。ここから先は今気付いたのだが乗換券は戦前の話で出久根氏が就職したのは昭和三十四年だから新宿から乗り換へたときに再度十五円(当時は十三円か)を払つた。

駅前の交番で井伏鱒二の家を尋ねると、何しに行くのかといふ。そこで葉書を見せたら言葉遣ひが急に丁寧になつた。井伏鱒二の家では古本屋の生活、茶碗の大きさ、おかず、箸の長さなどいろいろ訊かれた。前年に骨董品屋の小説を書いて細かい描写が特徴だつた。一時間の予定が夜五時半まで得意になつて話した。そんな内容であつた。都電が十五円は私も記憶がある。その後二十円に上がつたとき子供料の十円ができた。だから小学生だつた私は出久根氏と同じく十五円で都電に乗つてゐた。

まもなく井伏鱒二は文化勲章を受章し、とうてい会へない人になつた。鱒二の全集を出すときに、鱒二のお父さんが書いた本の出版者が茨城県行方郡の出久根といふ人で、出久根達郎氏の祖父だつた。印刷業の傍ら道楽として出版もしたのだつた。偶然といふことがある。講話のお題は「人の縁、地の縁」であつた。

七月五日(日)その三 竹内てるよ
ここまで話されて本当は美智子皇后の話をするはずだつたが自分のことを話し過ぎたといふ。質問の時間を削つて手みじかに話してくれた。
美智子皇后が岩手県の津波の被災地で「よく耐えて来られましたね」と激励された。美智子皇后も浩宮様を育てるときによく耐えられた。十三年前にスイスで開かれた「国際児童図書評議会」創立50周年記念大会で美智子皇后が或る詩について話された。誰の詩とは云はなかつたが、後に竹内てるよだと判つた。宮沢賢治やもう一人(名を聞き逃した)のように有名な詩人ではないが、母親が芸者で、生まれてすぐ両親と別れた。結婚して出産したが結核にかかりうつるといけないといふので離婚させられ子と離された。後に子と再会した。暴力団に入り刑務所から出たところだつた。その四か月後に子は癌で亡くなつた。

このような内容だつた。あと中村メイコ、竹内てるよ、正田美智子現皇后の三名が文学雑誌投稿の常連だつたことを中村メイコが書いたところ宮内庁から苦情がきた、しかしこの関係で竹内てるよを御存知だつたのだらう、棟方志功が審査員だつた、といふ話もあつた。インターネットで調べると棟方志功の二女小泉ちよゑさんが中村メイコ、美智子現皇后とともに投稿常連だつたといふ話もあり(2009年にテレビで放送)、私の聞き違ひかも知れない。竹内てるよも調べると、草野心平や高村光太郎が竹内を応援し詩を雑誌に掲載したとある。なるほど出久根達郎氏が宮沢賢治に言及したのはその関係からだつた。

七月九日(木) 人の縁、地の縁
井伏鱒二のお父さんの話は、出久根氏も小説なら書けるが現実にあつたと話された。このような経験はよくある。なぜよくあるかといへば縁のない話は幾らでもある。縁のある話だけ記憶に残るためである。私だつて出久根氏と地の縁がある。私の勤務する会社の取引先が鹿島鉄道(八年前に廃止)の沿線にあり、常磐線の石岡乗換で三回くらい訪問した。ある訪問のとき朝早く家を出て臨海鉄道鹿島大洗線で新鉾田駅まで行きそこで降りて市内を鉾田駅まで歩くときに気動車の路面鉄道をここに敷いたとき乗客はどれだけあるか考へたことがある。出久根氏は中学生のとき鉾田市内の書店によく立ち読みに行つた。店主は注意せず将来お客になると言つた。その話を聞くとき私も鉾田市内の寂れた街並みを歩いたことを思ひ出した。寂れた街に路面電車を敷くのは街の住民はあまり期待してゐない。鹿島鉄道を新鉾田に繋げる上に、場合によつては鹿島神宮或いは水戸まで乗り入れるためである。
鹿島鉄道は玉造で方向を90度北転させ鉾田に向ふ。そのまま直進すれば霞ヶ浦と北浦の中間、つまり出久根氏の故郷を通るからなぜ北転するのか調べたことがある。本来は鹿島神宮に行くはずだつたが予算が足りず本来は支線のはずの鉾田まで建設した。

出久根氏が井伏鱒二に会ひに行くとき乗つた荻窪行きの路面電車の沿線に私の勤務する会社はある。丸ノ内線が建設されたので昭和三八年に廃止になつた。しかし朝は新宿から王子や新代田橋行きのバス優先レーンが設けられるからそれなりに乗客がある。そこが地下鉄ができると並行するバスが廃止される他の通りとの違ひである。お年寄りが暮らせる街と、ビルとマンション街の違ひといつたらよいのだらうか。

美智子皇后のご実家正田家は館林だが、私の祖父も館林である。祖父は養子に来たのでそのことはほとんど触れないが、小渕恵三が船橋洋一の英語公用語騒ぎではしやいだときに館林に一回言及したことがある。群馬県全体は味方で小渕恵三だけを批判しようといふ計画だつた。間もなく小渕氏は急死し田中真紀子さんの言葉を借りれば「頭がバチっと切れてお陀仏さんになつた。自業自得ですよ。」といふことになつた。船橋洋一だけが朝日新聞主筆として出世した。

私の母の実家は松本で浄土真宗本願寺派の檀家である。明治時代に大火があり住職一家を家に引き取り、幼少だつた祖父と先代の住職はいつしよに育つた。築地本願寺は浄土真宗本願寺派である。

出久根氏は宮澤賢治の名に言及したが、私は現在宮澤賢治特集を執筆中である。といふことで一時間二十分の講演に、五つの人の縁、地の縁があつた。(完)


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