七百九、花園大学教授佐々木閑氏の駄論はアメリカ留学が原因か

平成二十七乙未
六月一日(月) 戒律を曲解
花園大学教授佐々木閑氏のインタビューが日経BPに載つた。見逃すことのできない内容である。
釈迦の時代以来、仏教サンガには「律」と呼ばれる規則が伝えられています。この規則は別にお坊さんを正しく悟りに導くとか、そういう倫理的な目的で定められたものではなく、完璧な社会依存型の組織(サンガ)を、その形のままで長期的に守っていくための法律です。組織保持を目的とした法律集なのです
それはどういう法律ですか
律の規則には千数百の禁止事項が定められています。その基本原理は、仏教サンガが社会の人たちから後ろ指を指されないようにするため、僧侶の行動を規制することにあります。ですから、律を守ったからといって悟りを開けるわけではありません。
これはサンガのメンバーである僧侶たちが、一般社会からお布施をいただくにふさわしい正しい行動を指導するための規則なのです。律の縛りがあるおかげで、仏教サンガは、完全依存型の生活を放棄できないようになっています。律によって僧侶の堕落が防止されているわけです。今でも日本以外の仏教国では、僧侶は皆、この律を守りながら暮らしているのです。


仏教では戒定慧の三学が大切である。戒は戒律、定は禅定、慧は知恵である。ところが佐々木氏は戒律はお布施をいただくための手段だといふ。そればかりか律を守つたからといつて悟りを開けるわけではないといふ。戒定慧の三つはすべて必要だが、比丘によつて戒に優れたり定に優れたりと個人差はある。戒を中心に阿羅漢に達した比丘だつて過去にたくさん居たはずである。

六月二日(火) 釈尊の時代と資本主義を混同
昨日の話の前に、次のことも言つた。
一般社会、つまり俗世間というものは、本質的に物質的繁栄や富の蓄積を目指しますから、生産効率の向上が必須の要件となります。つまり、より豊かになるために全力を挙げる世界なのです。

しかし、そこから飛び出した島社会の人々は、物質的豊かさではない、また別の生き方を目指すのですから、その生産効率は一般社会より必ず低くなるのです。つまり島社会は、食べていくことが困難な社会なのです。(中略)どのような方策で食べていくかは、その島社会のリーダーが決めるのです。リーダーが組織設計をするのです。ですから、リーダーの善し悪しによって、その島社会の生き方が決まります。釈迦が非常に優れた人だったと思うのはその点です。釈迦は、「布施」という生き方を取り入れましたが、それは実に最良の選択でした。


当時の一般社会は物質的繁栄や富の蓄積を目指したりはしない。先祖から引き継いだ生活を自分も繰り返し、それを子孫に伝へることだ。何のためといへばそれが習慣だからだ。一般社会が物質的繁栄や富の蓄積を目指し生産効率の向上が必須の要件となるのは資本主義だ。釈尊の時代の話ではない。

六月五日(金) 鑑真の偉大な努力を軽視
日本にも律を持ってきた人がいましたね。律宗を立ち上げた鑑真です。
日本が鑑真和上を呼んだ時、「日本国中に律を定着させよう」などという思いは国家には全くなかったのです。鑑真を呼び寄せた唯一の理由は、授戒儀式を行うことでした。
授戒だけのために鑑真は日本に来たのですか。
律の規則には、新しいお坊さんをつくるためには10人の僧侶の承認が必要だと書いてありますからね。

戒律に十人と書いてあるからそれを守つたといふことは、他の戒律も守つた。十人だけ守つて他の項目は守らないといふことはあり得ない。サンガが自由に比丘を出家させてよいかどうかは戒律とは無関係の問題である。現在のタイやミャンマーでは政府に登録されない者は正式の比丘ではない。政府の規制があつたほうがよいのかないほうがよいかは一長一短がある。
ひとたび僧侶が何十人、何百人単位でできてしまうと、あとはもう自分の国で僧侶の自家生産ができるということですね。
そうです。ですから、日本に仏教を広めたいという誠実な思いを持ってやって来てくださった鑑真和上は、その後、大きな疎外感を持って余生を過ごされたのだろうと思います。
結局、鑑真は国家の意向に翻弄されたのですね。
そうです。そんな鑑真和上の一種の隠居の場として朝廷が造ったのが唐招提寺です。

それにしても五度の失敗を乗り越えて来日した鑑真と、それを心から迎へ入れた日本側の人たちの努力を悪くいふとは呆れる。

六月十四日(日) 鑑真の偉大な努力を軽視
東南アジアでは今でも、昔ながらの仏教精神が守られているわけですか。
はい。例えば今、タイで一番人気を集めているタンマガーイという寺院があります。そこには100万人が入る広場があります。

この発言は悪質である。タンガマイは形式上マハーニカイに所属するが実態は新興宗教である。タイでもかつては王族がタンガマイで一時出家するなど新仏教として期待を集めたが、カネ集めなど批判が相次ぎ10年ほど前から周囲の見る目が厳しくなつた。なぜそのような会派を紹介するのか。質問はタイの新興宗教についてではない。東南アジアの仏教精神である。
本当に立派な僧侶は国のアイドル的存在です。アイドルと言っても、写真を見るとただのおじさん、おじいさんですよ。イケメンでも何でもない、しわくちゃの80歳、90歳のおじいさんなんだけれども、その人の元に何万人という人が集まるわけです。

タイの僧侶はアイドルではない。修行者である。勝手にアイドルにしてしまふからイケメンではないだのしわくちゃだのと下らない 話になる。
タイでは僧侶は特権階級なんですね。
どこへ行っても特別扱いされます。特権を手に入れていい気になって、堕落している僧侶もいっぱいいますけれど、まじめにやっているお坊さんもたくさんいます。
その点、日本でもまじめな坊さんはいるし、ひどい坊さんもいますね。タイでは、堕落した僧侶に対する憤慨はないのですか。
それはありますよ。タイでも昨今、日本同様にそうした堕落僧が仏教を傷つけています。しかし、立派か堕落かの基準がタイでははっきりとしています。それは律を守っているかどうかです。その点、僧侶の物差しが曖昧な日本とは違います。

特別扱ひではなく修行者への尊敬の念である。だから「特権を手に入れていい気になって、堕落している僧侶もいっぱいいますけれど」といふことはない。例外として堕落する者はゐよう。しかし全体の1%だとかごくわずかである。実質世襲制の日本では僧侶の質の低下が特にここ三十年ほどひどい。「日本同様にそうした堕落僧が仏教を傷つけています」と書くと日本とタイは同じ程度かと思つてしまふ。実に悪質である。
タイでは堕落した僧侶に対しては布施をしないということですか。
しないどころか、社会から抹殺されることもあります。そういえば、この間、面白いことがありました。あるサイトにサングラスをしてグッチのバッグを持って、自家用飛行機に乗っているお坊さんの写真が載ったのです。
それはキツいですね。日本でそんな僧侶がいたとすれば、布施などしたくなくなる。
そしてもう1枚、別の写真がありました。同じ僧侶がキャバレーのホステスを両脇に抱えて、はべらせている。
どうですか。日本人の感覚なら、どちらの写真も非難の対象になると思うかもしれませんね。しかし、タイでは1枚目は僧侶として全く問題ないのです。タイ国民はこんなことでは怒らない。
プライベートジェットに乗っていても?
信者さんが、「早く私のところへ来て説法してください」と遣わしたジェットだという解釈ですね。まあ本人談ですがね。しかし、サングラスやグッチのバッグも、布施でもらったとするならば全く問題ありません。律に背いていませんから。

自家用機はもしホステスの件がなければ、本人談ではなく事実さうだと判断するのが当然である。サングラスは健康上の理由で或は利便性で試しに着用したのなら何の問題もない。グッチのバッグは単なるかばんだとして持つたのなら何の問題もない。しかし高級品だと判つて着用したのなら問題である。二枚目の写真で還俗が決まるが、これは当然である。この後も、いいかげんなインタビューは延々と続くが、読むだけで嫌な気分になるので、ここで終了する。
佐々木氏なる人物は真宗の家に生まれたのに後を継がず工学系の大学に行つた。しかし仏教系の学部に入り直して卒業し、その後、アメリカ留学までした後に、臨済宗系の大学に勤める。仏教学者は熱心な仏教学者がなるべきだ。さもないと、仏教学部は入学がしやすい、教授になりやすい、日経BPの怪しげな記事に登場しやすいと、そこまで考へたりはしないまでも、結果としてそのような人間が出てくる。根本に日本の僧侶全体が世襲で低下したことが挙げられる。(完)


大乗仏教(禅、浄土、真言)その九
大乗仏教(禅、浄土、真言)その十一

メニューへ戻る 前へ 次へ