七百二十九(甲) 浄土真宗と浄土宗のお寺で説法を聴く

平成二十七乙未
七月二十六日(日) 都内のお寺巡り
本日は板橋のプラネタリウムに行つた(夏旅行、銀河鉄道、星めぐりへ)。その前に築地本願寺に寄つた。十時から常例布教があり台東区今戸のお寺の住職である。阿弥陀仏の脇侍として観音菩薩、勢至菩薩がある。阿弥陀仏の立像、座像、半歩足を前に出した像の説明もあつた。若い僧侶なのに良質な内容だつた。

八月一日(土) 常例布教二回目
本日は夕方に港区内で用事があり、築地本願寺の午後一時からの常例布教を聴いた。応援で行つた寺院の盆経では訪問する家がたくさんあり、先輩が云ふにはそのうちの一軒が焼きうどんを出してくれる、三年勤めたので毎回行く時刻を変へたがいつも出してくれた。そんな内容だつた。ご本人が私は話が下手だと云はれたが説法に話の上手下手は関係ない。信心があれば聴く人の心を打つ。今回よくないのは内容である。焼きうどんの話に終始した。一時からの布教は途中で休憩がある。ばあさんがかごを持つて喜捨を集めに席を回るが私は四十円しか入れなかつた。かごの小銭はすべて銀色だから他の人は百円玉を一枚か数枚入れたのだらう。しかし焼きうどんの話に百円は払へない。後半はよい話があるのかも知れないが、港区内に行かなくてはいけないので聴けなかつた。

八月八日(土) 真宗連続講座
今日は午後三時築地本願寺に行つた。今回は常例布教ではなく真宗連続講座である。講師は都内の住職、東洋大学講師、アーユス仏教国際協力ネットワーク理事である。国際ネットワークは注意が必要である。ともすると先進国の視線で現地人や現地政府を見下すことになりかねない。欧米に本部のある組織は特にこの傾向がひどい。アーユス仏教国際協力ネットワークは国内の組織だからその傾向はないと信じたい。しかし昭和五十五年辺り以降、日本の社会は大きく西洋崇拝に傾いてしまつた。国内の組織でもそれを構成する会員が西洋崇拝だと運営もさうなつてしまふので、さうならないことを願ふ。
題は
『正信偈』に学ぶ浄土真宗 親鸞聖人の主著『教行証文類』第一六回「善導大師(一)〜仏教としての浄土教」第五祖、「善導讃」(その一)。内容は善導大師は隋代、山東省に生まれ幼く出家、西方浄土変相図(浄土教曼荼羅ともいふ)と出遭ふ。この当時、景(けい)教(キリスト教)が既に広まつた。業識(ごっしき)−『大乗起信論』−阿頼耶識(アーラヤ=蔵)/仏教−心の宗教−>教・行・証により、心を育てる 浄土教も同じ/第七識−意(マナス=我愛) 自己中心性 第八識−人格の根本主体 心(チッタ=生命存在の根源)

八月九日(日) 浄土宗増上寺日曜大殿説教
浄土真宗の次は浄土宗である。浄土宗大本山増上寺で日曜大殿説教があるので聴きに行つた。資料を抜粋すると
一、天台宗のある僧侶が法然上人に尋ねました。/「浄土門では、十悪や五逆といった重罪を犯すような凡夫であっても、善知識の教えを受け、わずか一遍や十遍でも口に念仏を称えれば、たちまちに浄土往来という利益を得、(以下略)/これに対し法然上人がお答えになりました。/「阿弥陀さまがまだ法蔵菩薩として師(行されていた時代、すべての衆生に代わって、計り知れないほど永い時間をかけ(中略)ありとあらゆる行を修め(以下略)/こうしたわけですから、本願の不思議な力によってたちまちに浄土に往生が叶い(中略)一遍称えただけでもこの上ない功徳がいただける名号なのですから、一遍や十遍では功徳が少ないなどと決して思ってはなりません。

このような内容が四つある。二は阿弥陀さまが放つ救ひの光はひとたび照らしたなら常にその人を照らして消えることはないといふのは本当か、といふ質問にそれは大きな誤りですと答へられる。三はある人の阿弥陀さまの救ひの光明にあずかれるのは常平生の時ですか、臨終の時ですかといふ質問に、常平生の時からです、とお答へになる。四で、心が澄み渡っている時に称へる念仏とこ、心が妄念でで濁つてゐる時に称へる念仏で、功徳の勝劣はいかがでしょうといふ質問に、相違はないと答へられる。判り易い資料でためになつた。

八月十二日(水) 浄土宗と浄土真宗
今回二つの寺院を比較して判つた。浄土宗は日蓮系と同じく天台宗の伝統の範疇にある。本堂の構造からさう思つた。それに比べて浄土真宗は親鸞が非僧非俗を自認するだけに天台宗の伝統からは外れてゐる。

八月十五日(土) 常例布教三回目
常例布教三回目を聴いた。寝ても法話は耳から入るといふ話がありここまではよかつたが、いびきの話やご自分の体験から教師が寝ているときに起こしてから寝てていいよといつたのでそれなら起こさなければいいといふ話はしつこく感じる。話をそらすのは聴者の気分転換でよいことだ。しかしすぐ元の話に戻さなくてはいけない。そらした話で退屈させては本末転倒である。
正法、像法、末法の話はよかつた。しかし1分で終る。一回目に聴いた常例布教がよかつたと感じたのは阿弥陀仏の脇侍が始めて聴く話だつたことが大きい。正法、像法、末法の話はほとんどの人が知つてゐる。しかし本当の理由は別にあつて一回目の常例布教は脇侍の話に続いて阿弥陀仏の座像、立像、片足を前に出した立像について説明があつた。今回は1分だけだつた。といふことで前半が終りばあさんが籠を持つて喜捨を集めに来たが、今回は嫌な感じがした。前回は予定があるので前半で退出したが今回は予定がない。後半も聴かうと思つたが喜捨を集めに来た以上、二十円入れただけで退出した。私は喜捨を入れたあと後半を聴き再度喜捨を入れることは筋が通らないから参加しない。
ほとんどの参加者は読経し僧侶の話を聴くことが目的だからこれで満足であらう。しかし私のように話の中身に興味のある人にとつては不満である。僧侶は同じ人が金、土、日と三日間話し、しかも十時半、十三時、金曜は十九時もある。これだけ多いと話す内容が無くなる。それなら同じ話を七回繰り返しますと告知しておけばよい。

八月二十一日(金) 増上寺二回目
先週の日曜は増上寺の大殿説教に参加した。東海道の宿場町だつたが鉄道反対運動で鉄道が迂回したため、今では集落が寂れてしまつた。その集落の住職である。法然『一枚起請文』より
念仏を信ぜん人は、/たとい一代の法をよくよく学すとも、/一文不知の愚鈍の身になして、/尼入道の無智のともがらに同じうして、/智者のふるまいをせずして、/ただ一向に念仏すべし。


の解説をされた。尼入道とは夫が死んだ後に奥方が形だけの尼になることで、経の勉強をする訳でもないといふ説明になるほどと納得した。至誠心、深心、回向発願心の三心が備つてゐないと念仏しても叶はないといふ話もあつた。質問があるか訊かれて、悪人正機の質問をした人がゐた。これに対して、浄土はこの世とは断絶した世界なのでこの世の延長線上ではなく、身の世の知識、経験は役立たない。次の世を考へると帳尻は合ふ。そのやうなお話があつた。
今回説法された僧侶は堅実で真面目でとても好感が持てた。説教は雄弁会ではないから話は上手でなくてよい、信心が大切であるといふお手本のような話し方であつた。鉄道が通らなかつたため江戸時代は宿場町だつたのに近代化から取り残され、高齢化と人口減少を抱へる。檀家は三十軒ださうだ。そのようなお寺で住職を勤めるその真面目さこそ日本の仏教に求められてゐる。(完)

追加八月二十三日(日) 六回の説法を聴いて
説法を聴いたのが二発の原爆と終戦の前後だつたため、二人の僧侶が戦争に言及された。一人は以前発行した新聞のコピーを配布し平和について語られた。これは当然である。平和は尊い。だから八月の説法で平和に言及するのはよいことである。コピーには当時の宗門が戦争に協力したことも書かれてゐる。これには反対である。当時と今は状況が違ふ。戦争を煽つたマスコミこそ最も批判されるべきだが、煽られた国民と、実際に戦争をする軍部と、東條英機の狭量政府の三つのバランスの中で宗務当局の努力を後から批判すべきではない。我々が学ぶべきは当時の事情を知る人が多くしかし戦後の混乱は終つた昭和三十年代、四十年代の言論である。
もう一人の僧侶は安保法案反対を云はれた。これももつともなことである。私も安保法案には反対である。しかし反対する勢力の中心は唯物論リベラル社会破壊勢力である。長期に見ればここは賛成すべきだといふことで、私は賛成してゐる。だから僧侶が安保法案に反対されたのは殺生を禁止する仏教の僧侶として当然のことだと思ふ。


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