七百七、マルクス関連の書籍を口直しに紹介

平成二十七乙未
五月二十二日(金) 廣松渉氏の著書
先日読んだマルクスの解釈があまりに悪質なので、その口直しに別の書籍を紹介しませう。まづは廣松渉氏の「マルクスと歴史の現実」である。一割程度意見の相違はあるもののほとんど同意できる。だから相違点を発表しようと思つたが、最後まで読んで見て或いは前に読んだことがあるかも知れないと思つた。調べて見ると前に特集を組んだことを発見した。この本は平成二(1990年)年の発行である。この当時はまだ良質な左翼が残つてゐた。

五月二十三日(土) 一週間de資本論
次はNHK出版から平成22(2010)年の一週間de資本論である。この本はNHKで一週間(四回)で放送される内容をまとめたものだ。五年前にもまともなマルクス研究者のゐることに安心した。
最初に労働力の話が出てくる。ここは尤もな内容だが、今は地球資源の破壊により労働力のかなりの部分を置き換へてゐる。それに言及すべきではないのか。
「プロテスタンティズムが資本主義を推し進める」という節がある。当ホームページも前にウェーバーの説をそのまま引用したことがあつた。実はあの説は疑問を持ちながら、そんなものかなあと引用した。伝統破壊が資本主義を推し進めたのであつてプロテスタンティズムではないと思ふ。

著者の的場昭弘氏の対談での発言もある。
マルクスは、労働者というか人間のことを「草食動物」だというような言い方をしてます。つまり人間には最初に「共同体」というものがあって、利己心とかそういうものは本来なかったと(『経済学批判要綱』「資本主義生産に先行する諸形態」)。(以下略)
−−−ということは、十九世紀以降、人間はだんだん”肉食系”になっていったのだと。
そうなんですね。食べ物もそうですけれども、本質的にも利己心が強くなりましたよね。(以下略)
−−−マルクスはそういうことを予言していたんですかね。
というかね。(中略)肉食化せざるをえないというか。「資本がまるで吸血鬼のように元気になるのは、生きた労働を搾り取るときだけ」(『資本論』第一巻第八章第一節)なんて言葉を見ると、肉食系ですよね。


このあと恐慌について説明したあと
資本主義はたとえこうした不安定な世界だとしても、なぜ人々を惹きつけているのか。それはまさに資本の文明化作用というものが、人間の欲望をどんどん広げ、それによって人々を欲ボケにしていくからです。

同感である。このような恐ろしい動きに安住し偽善言辞を吐くのが社会民主主義、リベラルの本質である。

五月二十六日(火)、二十七日(木) マルクス『資本論』入門、その一(伊藤誠氏)
「マルクス『資本論』入門」は平成二十一(1999)年に出版されたが良心的な内容である。六人により執筆された。まづは伊藤誠氏の「『資本論』完全解読」である。
もともと古典派経済学の自然主義は、近代啓蒙思想全体が「自然のなかにこそ健全な秩序があり美と調和がある」とみなす傾向の一翼をなしていた。

自然とは長い年月を掛けて平衡に達した状態だといふことに共産主義側は気付かないから、スターリンの独裁が生まれたし、毛沢東の文化大革命も失敗した。しかし資本主義側も気付かないから地球破壊を放置する。
アダム・スミスが人間の交換性向は言葉から生じたとするのに対して、
マルクスは、交換のオリジンは、歴史上古くから共同体と他の共同体が接するところ、あるいはある共同体の成員が他の共同体の成員と出会うところにあった、という認識を示しています。(中略)市場経済は、共同体的な人間生活にいわば外から接して中に入り込んでくる外来性を本来もっている。近代以降の資本主義は、共同体社会の外側にあった社会と社会の間の公益の関係が、社会内部の基本的なしくみに内部化され引き込まれて、形成されたことになるのです。
市場経済での人間関係というのは冷たいですよね。(中略)共同体的な人間関係のわずらわしさもないかわりに、あるかたちで人間関係に冷たいところが必ずあるような仕組みが市場経済です。


このことはヘーゲルも『法の哲学』で
近代社会の構造秩序の理念を、家族、市民社会、国家というトリアーデ(三者構成)で展開していた。共同体的な農村が解体された後に残っていた家族共同体の内部の人間関係は(中略)市場での秩序原理とは異なる直接的人格関係によるものであった。しかし、資本主義のもとでは、この家族共同体にも市場経済の分解作用が加えられ続け(中略)資本主義のもとでの労働力の商品化の深化が、家族共同体を個人主義に解体し、家族の形成自体を難しくする事態にまでいたっている。(中略)社会の存続自体を危うくする少子化の急速な進行もそこから生じているとはいえないでしょうか。

ここまで全面賛成である。次に伊藤氏は、それまでは交換機能だつた貨幣が持つ別の機能にマルクスが気付いたことを書いてゐる。なるほど資本主義とは貨幣に交換以外の機能を持たせたことが原因なのだと合点がいつた。

五月三十日(土) マルクス『資本論』入門、その二(的場明弘氏)
次は的場明弘氏の「『資本論』完全読解」である。
『資本論』は、まさに資本主義そのものが消滅しなければならない必然性を述べた書物です。(中略)資本主義は巧みに矛盾をかい潜りながら、生きていく。しかもいかにも永遠のもののように見える。だからこそ、その批判は難しい。

完全に同感である。ところが
『資本論』は、資本主義の矛盾の過程を循環論的に取り扱った書物だと主張する人もいます。こうした考えによれば、『資本論』を読むことで逆に資本主義のすばらしさがわかるというわけです。(中略)しかし『資本論』は資本主義の崩壊を予測している書物です。(中略)資本主義も悪いところがあるが、改善すればよくなるというのでは、まさにこの書物を読む意味などまったくない。

ここも同感である。的場氏の詳細な説明を読んで気付いた。カネはいつまで経つても同額でなければいけない。増えるのは癌細胞と同じである。

五月三十一日(日) マルクス『資本論』入門、その三(萱野稔人氏)
このあと川村哲也氏、長原豊氏、萱野稔人氏とすべて同感である。萱野氏はヨーロッパのナショナリズムが悪い労働環境を外国人労働者と競争させられることで更に底辺へ向ふことから発生することを指摘し、これは特に同感である。そして萱野氏は
移民労働者を入れるまえに、まず人手不足といわれる領域での労働条件を改善しなくてはならないと考えます。とはいえ、これに対しても、徹底的にナショナリズムを批判する人たちからは「日本人だけよければいいのか」という批判がくる。

前半の人手不足といわれる領域での労働条件の改善は全面賛成である。後半の徹底的にナショナリズムを批判する人たちといふのは、拝米新自由主義勢力(野田前原派)とニセ労組が合併したシロアリ民主党や、社会破壊半日(自称朝日)新聞などである。
それにしても徹底的にナショナリズムを批判する人たちといふのは悪質な勢力である。彼らの本心は日本を西洋化することだ。だから日中韓の問題も西洋の視点で論じる。アメリカから騒ぎを起こすなと云はれれば日本のナショナリズムを批判する。反省しろと云はれれば西洋列強の植民地支配は棚に上げて日本を批判する。そんな連中の云ふことだから 「日本人だけよければいいのか」という批判は議論するに値しないが、筋違ひも甚だしい。「日本人だけよければいいのか」を解消する唯一の方法は国と国の間の経済格差をなくすことだ。移民は解決法にはならない。そればかりではない。金持ち国が出現した理由は化石燃料を消費するからだ。世界中が化石燃料の消費を停止すれば、経済格差はほとんど解消する。

五月三十一日(日)その二 マルクス『資本論』入門、その四(白井聡氏批判)
白井聡氏の主張にはよくない部分がある。
マルクスと同時代にいろんな社会主義者たちがいたわけですけれども、たとえばプルードンであったり、第一インターナショナルで激しく対立したパクーニンであったりとか(中略)その多くがある種、復古的な方向性をもっていた。

資本主義の出現により世の中が不安定になつた。労働者の生活は悲惨なものになつた。その対策としてマルクスや同時代の社会主義者が出現したのであり、復古と呼ぶこと自体が偏向である。例へば足を擦りむいたが回復した。回復と云へばいいのにわざわざ復古と呼ぶようなものだ。
ここで封建主義は武家政治の堕落したものである。日本で云へば鎌倉時代の初めは領主と地頭で権力を分け合ひ、それまでの貴族や天皇外戚による政治と比べればよいものだつたのではないか。鎌倉幕府もすぐに堕落したものになつたが。
社会主義者が堕落したものに戻らうと考へるはずがない。次に
マルクスは、ブルジョア社会の出現によって、人格の自由・交換における平等、つまり形式的な自由と平等というものが達成されたということを非常に重く見て、肯定的に評価するわけです。

白井氏は昭和52(1972)年生れ。米ソ冷戦が終結したときは十代前半だから資本主義を過多に賞賛してしまふ。資本主義が栄えるのは化石燃料消費といふ未来の人類と全生物の生存権と引き換へである。しかもマルクスの時代はパリコミューンの事件もあり労働者への弾圧は過酷だつた。その後、帝国主義間の戦争が続き、ベトナム戦争が終つたのは昭和五十年である。
そもそもマルクスが世界に有名になつたのはロシア革命であり、アジアで人気が高かつたのは反帝国主義、即ち反西洋があつたためだ。ベトナム戦争を思ひ出してみよう。といつても白井氏は昭和五十二年生れだから無理だが。ベトナム戦争のあの土の香りに多くの日本人は共鳴した。昭和五十年以降の経常黒字も大きい。あれで社会は変になつた。特にプラザ合意以降は変になつた。(完)


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