六百九十九、立命館大学経済学部教授松尾匡氏批判

平成二十七乙未
五月五日(火) ナツメ社図解雑学「マルクス経済学」
ナツメ社が出版する図解雑学シリーズの「マルクス経済学」に左翼崩れを誘発する内容があることを見つけた。それを指摘する前にスターリン、毛沢東、ポルポトを批判する文章があり、これは私も同感である。
スターリンは、共産党の中央委員以上の幹部の9割を肉体的に抹殺したほか、集団化に反対したとされる農民や(中略)2000万人弱が収容所送りになったり死刑になったりしました(以下略)。中国の毛沢東も、大躍進政策で3000万人の農民を餓死させたほか、文化大革命で一説で1000万人といわれる人名を犠牲にしました。カンボジアのポル・ポト政権は、4年間で人口600万人のうち、100万人以上を殺しました。

この多くは事実である。私は毛沢東の文化大革命は文化破壊だから絶対に反対だが1000万人の犠牲者は多すぎでせいぜい数百人ではないのか。ケ小平もその後復活したからである。フルシチョフによるスターリン批判で、スターリンが悪いと言われたがレーニンにその傾向があることは私も前に書いた。だから
ソ連崩壊後の秘密文書公開で、レーニンの残酷な大量殺人指令がたくさん暴露されています。

更にこの残虐性はレーニン主義だけに見られるのではなく、右派にも見られる。
ローザ・ルクセンブルクら多数の革命派の人々を、右翼義勇軍を使って裁判なしで虐殺させたのは、社会民主党右派の政府でした。

ローザ・ルクセンブルク女史は社会民主党左派で、しかしロシア革命前からレーニンのプロレタリアート独裁を一党独裁とする解釈に反対した。判りやすく日本に当てはめれば、社民党とシロアリ民主党の連立政権が、日本社会党の左派或いは中間左派を殺害したようなものだ。

なぜこのようなことになつたかと言へば、唯物論だからだ。そして今までの慣習を破壊したからだ。私は慣習など文化を無視することが唯物論の本質だと考へるから、つまりは唯物論が悪いと一言で断定できる。ところが松尾氏は
反資本主義や反営利といったものは、自覚しなければしばしば自然にこのような問題を起こす傾向を持っているといえるのです。

と筋違ひなことを書いた上に例として
そもそも悪名高いナチス党は、正式名を「国家社会主義ドイツ労働者党」といいます。党内左派のレームを粛清した後にも、企業に労働環境既成をかけて、完全雇用政策を遂行(以下略)。日本の戦時体制も、多数の元マルクス主義者を擁する「企画院」のもとに、営利追求を否定して生産やカカク・賃金を統制しました。後には、国家社会主義者の北一輝の思想が体制の起源であることを公言します。

と無理やり悪いと世間から思はれてゐるものと結びつけた。

五月六日(水) 松尾氏の云ふ、「反資本主義」が抑圧に陥る理由、を批判(その一)
反資本主義が抑圧に陥る原因として松尾氏は
1.身内共同体志向を持ち、近代的な人間関係を好まないこと。
2.身の周りの個人的事情を低いことのように見下して、高尚な理念や「青写真」を掲げて大衆に押し付けようとする志向。


まづ松尾氏のいふ近代的な人間関係といふのは西洋的人間関係のことだ。西洋だつて例へばイギリスとフランスではまつたく気質が違うし、ドイツとオランダも鉄道の車内の雰囲気と言ひ街の中の様子と言ひまつたく異なる。その西洋と比べてアジアの各国が異なるのは当然である。次に例を挙げよう。会社から言はれて顧客の会社に行つたとしよう。技術者が
御社に派遣になり、コンピュータの仕事をすることになりました。御社の社員と私では待遇と労働条件が異なりますので、何点か確認したいと思います。まづ

で話を始めたとしよう。西洋だつたら技術者の質問を聞き、答へるだらう。しかし日本なら質問の途中で、そんなことを言ふ人は帰つてください、と言はれるだらう。この場合、西洋の人間関係が優れて日本が劣るといふことは絶対にない。しかしこのように気質が異なるから労働者派遣は禁止すべきだと私は常日頃主張してゐる。それはさておき、日本と西洋、或いは西洋と西洋の別の国の人間関係はそれぞれよいところも悪いところもある。それなのに松尾氏は西洋の人間関係が近代的でそれ以外は駄目だといふ。
次に松尾氏は左翼が身内協同志向で、資本主義者が近代的な人間関係だと言ひたいらしいが、そんなことはない。左翼も会社も人間関係は同じである。どちらも日本の左翼、日本の会社である。
二番目の、個人的事情を低いことのように見下して、高尚な理念や青写真を大衆に押し付けるのは、拝米新自由主義社会破壊反日新聞(自称朝日新聞)ではないか。これと似たものとして、低級な理念や「青写真」を掲げて大衆に押し付けようとするマスコミがある。反日新聞社(自称中日新聞社)の東京パンフレット(自称東京新聞)である。

五月八日(金) 松尾氏の云ふ、「反資本主義」が抑圧に陥る理由、を批判(その二)
いまなぜマルクスなのか。それは、マルクスの思考の図式こそが、まさにこの二点を批判し(以下略)
すなわち、マルクス思想は次の二点からできているのです。
1'.資本主義が身内共同体(ムラや職人団体など)を否定してもたらした、近代的な人間関係の原理を、歴史の進歩として肯定すること
2'.理念や「青写真」のような、「社会的なこと」が、個々人の事情を離れて一人歩きすることを批判すること。


まづマルクスの時代は労働者が悲惨な生活を強いられた。しかも社会が崩壊した。だからその対策を発案した。その前半の部分を忘れると単なる進歩史観になつてしまふ。科学では誰かの言つたことがすべて正しいといふことはない。ニュートンやアインシュタインは正しいことも間違つたことも言つた。だから現代人は正しい部分だけを採用する。マルクスも同じで資本主義批判といふ正しい事と、進歩史観といふ間違ったことを言つた。

五月九日(土) 松尾氏の云ふ、「反資本主義」が抑圧に陥る理由、を批判(その三)
松尾氏は身内共同体(ムラや職人団体など)を否定してもたらした、近代的な人間関係といふが、それが新自由主義である。勿論、身内共同体は長い間に既得権勢力になつたし堕落もある。古いものと新しいものを並べれば、新しいものがよく見える。しかし年月が経てば新しいものも古くなる。そこを割り引くべきなのに松尾氏は気がつかない。だいたい世の中の役に立たず拝西洋で西洋猿真似の学問を振りかざす政治経済法学者どもは身内共同体ではないのか。
理念や「青写真」のような、「社会的なこと」が、個々人の事情を離れて一人歩きすることを批判することといふが、労働者が悲惨な生活を強いられたことと社会が崩壊したといふ事情を離れて進歩史観を一人歩きさせてたのが左翼崩れであり、松尾氏である。

五月九日(土)その二 松尾氏の云ふ、「同胞のために平等を」という志向の危険、を批判
資本主義のおかげで得をしている人は、よく自由主義を名乗ります。(中略)しかしこれに対する反発は、しばしば身内共同体原理から出ています。つまり、「同じ国民だからある程度は平等でないといけない」というわけです。

松尾氏は、しばしば身内共同体原理から出ることを批判するが、これが国民として正常な感情である。別の国との格差はほとんど気にならない。大切なのは周囲との調和である。皆が貧乏なら貧乏で構はない。その国の中ではそれが中流である。多くの家庭が自分の子供を大学まで進学させるのに自分の子供だけ中卒でよいとはならない。つまり国の中をある程度平等に保つのは国民感情として当然である。一方で国が違へば経済の差があつても構はないとはいへ、それには限度がある。国内に飢餓や疫病があるなら世界はその国を支援すべきだ。なを資本主義で物資が豊かになるのは本当に良いことなのか。実は化石燃料を消費し未来の全生物の生存権を食ひ散らかすに過ぎない。次に
特に、今日の世界資本主義への反発が、こんな民族共同体原理と結びついたらどうなるのでしょうか。そうした反資本主義運動は、排外的な民族エゴや、「日本人とはこうあるべき」といった内部同調圧力などに簡単に結びついてしまうでしょう。

民族共同体原理が他民族を見下すなら、絶対に反対である。しかし他民族、特に非欧米地域で西洋式のやり方を用いない国を一番見下すのはアメリカである。見下すだけではない。CIAが政府転覆工作をしたり米軍が空爆をすることを戦後ずつと繰り返した。また松尾氏が「排外的な民族エゴ」と過剰に反応するのは先の戦争(大東亜戦争)或いはヘイトスピーチが原因であらう。まづ先の戦争は帝国主義どうしの醜い争ひが原因だし、その前は日本が欧米の圧力に過剰に反応したことが原因だつた。ヘイトスピーチは日本の偏向新聞が拝欧米反アジアをこれまでずつと煽つてきたのが原因である。

悪質なのは載つてゐる絵である。この書籍はナツメ社図解雑学シリーズだから絵があつても不思議ではないが内容がひど過ぎる。扉の外で白人が「自由ハイイデスヨ」「自由競争シマショウ」といふ。扉の中では口をへの字に曲げ目が不満の固まりのようになつた日本人二人が 「いやだ!団結して、みんなで分かち合おう。自由より平等」と言ふ。扉の中にはもう一人ゐる。この男は旭日旗みたいなものを持って「異質なやつは出て行け」と叫んで誰かを室外に蹴飛ばして追ひ出す。拝米新自由主義社会破壊反日新聞(自称朝日新聞)や、それを低質にしたニセ新聞東京パンフレット(自称東京新聞)ではあるまいし、こんな出鱈目な絵を描いてよいはずがない。
正しくは室外で口をへの字に曲げ目の釣りあがつた狂信白人が「西洋文明とは異質な連中は出て行け」と叫び蹴飛ばす。室内では善良さうな人たちが、「こんなことを二百年もやつてゐたら、西洋以外は、金持ち国では猿真似拝米派、貧乏国では過激派の発生源になつてしまふ」「地球は温暖化で滅亡してしまふ」と心配する。これが正しい。
ここで狂信白人と書いたのは善良な白人と区別するためである。私は人種や民族の差別は絶対に反対である。そして白人の99%は人種差別や民族差別とは無縁である。唯一アメリカ合州国といふ地球の癌細胞の大統領にはかう云ふ狂信白人が多い。といふことで区別することにした。因みにアメリカの住民は白人も善良な人が多い。狂信白人は大統領、軍部(特にマッカーサ)、国務省、日本で拝米工作を繰り広げるCIAや駐日アメリカ大使館員の肩書きを持つ連中である。

五月十日(日) 松尾氏の云ふ、近代は共同体を否定して世界を普遍化する、を批判
社会主義思想には、近代で壊された共同体に帰ろうとする志向のほかに、逆の志向の流れがありました。近代が昔の共同体を否定して約束した市民革命のスローガン、「自由・対等」や個人の自立が、現実の資本主義のもとでは実現されていないことを批判して、その近代の約束不履行を今度こそ履行させようとする志向です。

マルクスの優れたところは資本主義批判である。その他は正しい部分も間違つた部分もある。松尾氏が何でも正しいといふなら、それはマルクス教であり、非科学的だから現代人の採るべき道ではない。マルクスの主張は資本主義批判を除いて実現不可能なユートピアと思はれたが、レーニンがソ連を建国してから注目されるようになつた。ソ連は帝国主義を批判し、だから孫文もホーチミンもソ連になびいた。民族独立こそソ連の偉大な政策であり、日本で共産主義が優位だつたのもアメリカ占領への反発、アメリカといふ西洋思想への反発とベトナム戦争に於いてホーチミンへの共感があつた。社会党の社会主義協会や、共産党は、教条主義だつたとしても全国の革新知事、革新市長を支持した選挙民は、これらが理由であつた。スターリンには民族を強制移住させるといふ誤りがあつたが、あれは労働が出来て衣食住が足りればどこに住んでもよいといふ唯物論の限界であり、西洋列強がアジアアフリカを植民地にしたことと比べれば悪意度は低い。
マルクスは国家の死滅を説いた。これは資本家擁護機能、或いは他国との戦争遂行機能としての国家といふ意味だ。搾取のない世の中は悪意が生まれないといふ理想論でもあるが、もしこれらの国家機能が死滅(眠るように死滅するのであつて強制的に死滅させるのではない)した場合、そこには強力な共同体がないと社会の維持はできない。
『共産党宣言』を読めば、まるで資本主義礼賛の書のように書いてあります。単に生産力が増えたというだけではありません。世界中がみな共通の原理に結ばれるということなのです。要するに「普遍化」ということです。(中略)場所や職業や取引の流動化によって、社会全体のバランスのとれた仕事の配分や、自由・対等・公正な人間関係が作られます。

この後、世界中は帝国主義の時代に突入し、二度の大戦を経て米ソの冷戦になつた。朝鮮半島とインドシナ半島では冷戦ではなく激烈な熱戦になつた。これらはマルクスの知る由も無いが、後世の人は無視してはいけない。判りやすい例を上げると、天気はよくなると予想した。実際は悪くなつて暴風雨になりその後、晴れた。無責任な男が途中を無視して天気予報は当つたと騒ぐようなものだ。

五月十一日(月) 松尾氏の云ふ、「社会的なこと」の一人歩きを批判、は松尾氏自身に該当
反資本主義運動が大衆を抑圧しがちになるもう一つの原因は、個々人の暮らしの事情から切り離された理念や世界観を掲げて、それにしたがって世の中を変えようという志向が持たれがちなところにあります。

私も同感である。だから暮らしの実情とは無関係に「自由」を叫ぶ西洋かぶれの連中に反対してゐる。ところが松尾氏自身が西洋かぶれで「自由」を叫ぶ。

前回までの(1)反身内共同体、今回の(2)個人個人の事情が大事、の二つのうち当時のアナーキストは(2)を重視するが(1)に反対だから手工業職人や農民には当てはまるけれど、大工業労働者は救われません。一方の国有集権派は(1)を重視するが(2)に反対で近代産業を肯定するけれど「上から目線」のエリート主義だといふ。
松尾氏はこの二つを兼備することがマルクス固有の特徴と考え、マルクス経済学の入門書を名乗る根拠にします。だから本書では、マルクスという個人の言動にこだわるつもりはありません。

だつたらマルクス新自由主義応用言質収録集とすべきで、入門書を名乗つてはいけない。ナツメ社の図解雑学は前にも批判したが、入門書のふりをして偏向した内容を読者に押し付けてはいけない。

五月十四日(木) 松尾氏の頭はマリーアントワネットと変らない
「マルクスの考えは自由主義の一種だ」と言うと、これまでのマルクス信者も批判者も驚きますが、でもそうなのです。

或いは
自由な売り買いで成り立つ市場経済に対して、よく「暴走」等々といった批判がされますね。たしかに、まわりも見れば、失業者や倒産がいっぱい出ているし、ちょっと病気やケガをしたらすぐクビのワーキングプアがたくさん出現した一方で、利子だけでぜいたくに暮らせる一部の人が出てくる。(中略)しかし、こうした市場批判は往々にして、「カネもうけは汚い」とか「生活水準は平等であるべきだ」とかの身内共同体原理の立場からくるものが多く、個人の自由を抑圧するおそれがあります。

まづ「カネもうけは汚い」と考へる人はゐない。批判する多くの人は「汚い方法でカネもうけすることはよくない」と考へる。「生活水準は平等であるべきだ」と考へる人もおそらくゐない。平等でなくてもよいが今のように非正規雇用が蔓延する一方で、必要のないところにユニオンショップの労組があるから先の消費税増税騒ぎのように政策が歪められる。そのことに多くの人が怒つてゐるのだ。それにしても松尾氏の主張は拙劣である。
たとえば、不況で物価がもっと下がると思うならば、各自はいまおカネを使うのは控えます。そのせいで本当に不況が続いて物価が下がります。これは、まわりが政府を礼賛するから自分もいやいや礼賛するのと同じ事態です。みんなが景気がよくなって物価が上がると思えば、誰もが喜んでおカネを使うようになって物価が上がると思えば、誰もが喜んでおカネを使うようになって、本党に景気がよくなってみんなうれしいはずなのですが、みんなまわりがそうしないと思っているから誰もおカネを使わず、不況から抜け出せません。そのせいで、失業や倒産がいっぱいで、自殺者も出るわけです。

不況のときに皆がカネを使はないのはカネがないからだ。そんなことも判らず今後物価が下がるから使はないなぞとよくでたらめを云へたものである。まるでフランス革命前のパンよこせデモで、パンがないならお菓子を食べればいいのにと言ったマリーアントワネットにそつくりである。全部で220ページ中の40ページを読んだだけだが、これ以上読むのは時間の無駄なのでここで中止することにしたい。(完)


(國の獨立と社會主義と民主主義、その百三十二)へ
(國の獨立と社會主義と民主主義、その百三十四)へ

メニューへ戻る 前へ 次へ