一五一、二二年ぶりの正信会寺院参詣記(その六、戸田城聖氏と新社会主義)

三月三日(木)「新社会主義」
戸田城聖氏は新社会主義といふ言葉を残した。しかしその内容は述べなかつた。その後創価学会では第三文明といふ言葉も使ひ始めるからこれと同じ意味と言へる。
資本主義と社会主義に対して第三の道といふ事であろう。資本主義は唯心論、社会主義は唯物論といふ分け方が当時は世界的に有力で創価学会もこの考へに従つていたから唯心論と唯物論に対する第三の道といふこともできる。

三月五日(土)「唯心論と唯物論」
唯心論も唯物論も西洋思想の範疇である。昭和三七年の聖教新聞にもそのことを指摘した良質の記事が載つてゐる。

哲学者は二大陣営に分裂した。(中略)「自然に対して精神が本源的なものであると主張したものは唯心論の陣営を形成した。自然を本源的なものと考えた他の哲学者たちは唯物論の種々の陣営に属する」--エンゲルスは「フォイエルバツハ論」のなかで、世界の(というよりヨーロッパの)哲学者を大きく二つの陣営に分けて、このように定義づけている。
ただし、ここで唯心論、唯物論というのも、いずれもキリスト教神学をめぐって、それとの関連にたって生まれたものであることを大前提としなければならないことは、いうまでもない。

三月十一日(金)「東洋哲学研究所」
創価学会は東洋哲学研究所といふ組織を作つた。聖教新聞は次のように紹介してゐる。
西洋は元来、物質的であり、東洋は精神的であるとされているが、現代は物質文明のメカニズムが先行して、そのために弊害が強調され、問題化している時代である。こういう時こそ、東洋本来のよき文明を再建して(中略)この使命感が東洋学術研究所のバックボーンである。(中略)これこそ第三文明であり、新社会主義であることは、多言を要しないことであろう。
まつたく同感である。東洋哲学研究所が講演に招いた高山岩男氏が
よく先進とか後進とかいうことばを使うが、これはヨーロッパ文化を基準にした物の考え方であって(中略)

と述べたがこれも同感である。しかし敗戦の影響は慢性疾患のように少しずつ国内に及び日本の西洋化は進み創価学会もこれに巻き込まれて行くことになる。

三月十二日(土)「海外布教」
アジアに布教することは悪くはない。日蓮も末法は東から西に仏教が伝はると説いてゐる。しかし当時と違い今の日本は僧侶妻帯だから悪習をアジアに広めることになる。

欧米への布教は良し悪しである。信仰したい人はもちろん大歓迎すべきだが、この当時の欧米は日本よりGNPが高い。そして日本は敗戦後遺症で拝米熱が高かつた。欧米布教をし易くするといふ名目で国内の拝米熱を促進した。

創価学会幹部や宗門の高僧が次々に欧米に行くことにより、両者に西洋かぶれを生じた。一方でインドや東南アジアにも出かけた。インドとミャンマーを訪問したときの記事を紹介しよう。
(ラングーンに)インドからくると、ガラリと様子が違う。生活状態もぐっと貧しいながらも、清そな感じがする。(中略)人柄もカルカッタのように、すきあらば、いうこすからいのとは違って、しごく、のんびりとしている。(中略)インドのヒンズー教に比して、ここでは小乗教の害毒のひどさが目にあまる。(中略)日本でいえば明治維新以前の姿をみると思えば間違いなかろう。近代化とともに、宗教革命がなされなければならないのは必然である。
インドもミャンマーも経済が貧しいから悪いといふ思考がある。そうなると西洋は正しいと短絡しやすい。当時は西洋思想が地球温暖化で地球を滅ぼすことは判らなかつたからやむを得ないが、文化の継承を軽視した戦後日本の弊害をまともに受けてしまつた。

三月十三日(日)「ミイラ取りがミイラに」
公明党(結成前の公明政治連盟や無所属時代を含む)は党内派閥がないことと政治の浄化を売り物にした。
当時の自民党は八師団、社会党は佐々木派と江田派、民社党と共産党にも党内抗争のあることを批判してゐる。注目すべきは社会党の江田派はよくて佐々木派は駄目だといふ後の社公民路線は取つてはゐないことである。
地方議員や国会議員を多数輩出することで、創価学会幹部に上昇志向や既得権化を生んだことは否めない。総評が議員を出すことで腐敗し活動力を失つたのと同じ道を歩んだ。ミイラ取りがミイラになつたといへる。

五月三日(火)「東洋広布の歌」
細井日達師には三つの後継者がある。一つは創価学会である。昭和四五年までの創価学会と細井日達路線は完全に同一である。細井日達師が管長に就任した直後に新設寺院の建立法要で、創価学会側が「東洋広布の歌」を歌つた。細井日達師は宗務総監の柿沼広澄師に命じて指揮を取らせ僧侶側でも「東洋広布の歌」を歌つた。あの当時は皆が純粋だつた。

五月十五日(日)「日達師の御子息の寺院」
当ホームページは宗教は中立を目指してゐる。だから上座部仏教、日蓮宗、真宗、曹洞宗、カトリツク、イスラム教などを過去に取り上げた。
ところが最近日蓮関係が多い。それには理由がある。石原莞爾の資料が鶴岡市の図書館に保管されてゐる。これらは莞爾の甥で武州足立郡田島団地に居住してゐた石原忠氏の寄贈である。今年の一月一日に田島団地を訪れたところ既に引つ越してゐた。団地の側を国道が走る。これを北に行けば正信会の寺院がある。

といふことで一月三日は正信会寺院に二十数年ぶりに参詣した。ここで細井琢道師のことが話題になつた。宗創紛争の時に創価学会側に付いた僧侶である。調べてみると歳月は人を待たず、昨年亡くなつてゐた。住職を務めた実修寺は都下の足立郡梅島にある。我が家が創価学会に所属してゐたときは向島支部梅島地区であつた。偶然とは思へない。一度は参拝しないと罰が当ろう。といふことで次は実修寺に参詣した。
まず連休中に一度実修寺を訪問した。鉄筋コンクリートの立派な本堂であつた。受付の対応も好いし二階に上がる階段の途中に日達師の昭和三六年と昭和四二年に海外布教で訪問した都市名が世界地図に示されてゐる。
昭和三六年はアジア各地を訪問し昭和四二年には欧米を訪問した。昭和四二年の欧米訪問ののちに日達師は欧米文明に飲み込まれたといへる。

五月二十一日(土)「御講に参詣」
全国の寺院で毎月十三日に御講が行われる。休暇を取得し喜び勇み実修寺に参詣した。
かつては行事のないときは多数の創価学会員がそれぞれ題目を唱へてゐたし、行事のあるときも多数の創価学会員で賑はつた。この光景を想像したが、実際は月例行事で最も重要な御講に八人しか参拝しない。うち二人は創価学会の地域幹部の総代であろう。あとは八十代のお婆さんが三名。お婆さんの付き添ひの女性が一名。
私はこの日から三日ほどあまりの衝撃で憂鬱になつた。創価学会の方針は僧侶抜きで活動しようといふことかも知れない。しかし宗創紛争で創価学会に付いてくれた寺院にこの扱ひでよいはずがない。創価学会は先輩たちの精神を忘れないためにも、東京の各区から交代で壮年部も婦人部も青年部も参詣すべきだ。
明治維新以降の僧侶は妻帯するから伝統とは外れてゐる。一方で妻帯を不問にして寺院とともに歩んだのが昭和四七年あたりまでの創価学会の伝統である。いずれ僧侶非妻帯も実現すべきだがそれは遠い将来の話である。
生活に困る人がゐないのも現実かも知れない。かつては難病、家庭不和、失業、借金などで困つてゐる人が一遍でも多く題目を上げようと寺院に集まつた。それも過去の話となつた。私はすつかり浦島太郎のような気持ちになつた。

五月二十二日(日)「第二と第三の後継者」
正信会が第二の後継者であることは間違ひない。日達師が直々に電話を掛けてゐたからである。しかし宗務院の役僧に任命しなかつたことを考へれば創価学会を導くために反対勢力を育成したのであろう。健全な議会を育成するために野党を作るようなものである。
だから正信会と創価学会の両方を切つてしまつた日顕師は日達師に反してゐると言へる。しかし宗務院の総監だつたのだからやはり第三の後継者である。

日達師は晩年には「貫首とは先師から引き継いだ法を次に伝へ貫くためにある」「信は荘厳より起こる」などかつての路線とは異なることを口にするようになつた。そして間もなく亡くなつた。
私が、先祖から引き継いだものを後世に伝えることこそ社会安定の方法だ、と主張するのは日達師の影響であろう。或は日達師が、神社は明治維新までは僧侶が管理してゐた、と語つたことがある。私はそれまでそのことは知らなかつたが調べてみると伊勢神宮以外はすべて僧侶が管理してゐたことがわかつた。だから番外では私も後継者と言へる。

創価学会の牧口常三郎はなぜ池袋の常在寺の信徒から布教されたのだろうか。同じ池袋の妙典寺であれば妙蓮寺系だから血脈信仰も戒壇の大御本尊信仰とも無縁に布教ができたはずである。そうすれば今より会員数も数倍に増えたであろう。尤も日本共産党きつての理論家、榊利夫氏との共著「公明党・創価学会批判」で中川一氏は「日蓮本仏論も、もともと興門の妙蓮寺系で唱えられていた主張を、日有が大石寺の教学にとり入れたものである。」とある。
日興が亡くなつた後に七本山に分流したように大石寺だけが正しいとするのは無理がある。
しかし寺院から離れ信徒だけで信仰を続けるのは不確定要素が多すぎる。創価学会は正信会や七本山と友好関係を取り信仰を続けるのがよいと思ふ。(完)


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