五百五十七、上野千鶴子の言論は邪悪だ(その一、色と欲)
平成二十六甲午
四月五日(土)「今回の特集を組むに至つた経緯」
先月末に上野千鶴子問題が世間を騒がせた。私はそれまで上野千鶴子といふ名前を知らなかつたが調べてみると極めて社会に有害である。このような邪悪な言論を許してはいけない。そこで今回特集を組むことになつた。
四月六日(日)「理想と熱意と内容のない言論」
小学館から出版された「色と欲 上野千鶴子編」といふ本をまづ読んだ。冒頭の
戦後日本の精神構造を「欲望自然主義」と呼んだのは、丸山真男である。
ここからして変である。戦後の日本が欲望を優先させたのは少し考へれば判る話でわざわざ丸山真男を引用する話ではない。浪曲を論じるのにアメリカ人の学者の引用から始めた兵頭氏なる人物と何ら変らない。上野は
日本民族の優位を証明するはずの「カミカゼ」はついに吹かなかった。そのために欲望を抑えなければならないどのような超越的な価値をも失った日本の庶民は、エゴイズムを爆発させた。焼け跡闇市を跳梁した闇物質やエロ・グロ・ナンセンスなどは、抑えに抑えられていた日本の庶民の欲望のありかを示していた。
これは悪質な文章である。もし日本民族優位を説いたら当時の東條幕府の大東亜共栄圏は崩れる。だから説くはずがない。私は大東亜共栄圏には反対である。蒋介石軍と戦闘を続けながらの共栄は欺瞞だからである。反対ではあるがその大東亜共栄圏と矛盾する日本民族優位論があるはずはない。少数の人が最初から勘違ひしたり或いは新聞の煽りで洗脳されて日本民族優位を思ひこんだ人はゐるかも知れない。
次に闇市は生活のため止むを得ないものでエロ・グロ・ナンセンスとは異なる。人間は衣食住の足りないときと足りたときでは行動が異なるから終戦直後の闇市とエロ・グロ・ナンセンスを同一に扱つてはいけない。そもそもエロ・グロ・ナンセンスは大正末期から昭和の始めに掛けてである。終戦直後ではない。
四月七日(月)「対策のない言論、批判するふりをして迎合する言論」
戦後に退廃した文化が現れたとしても大半の国民は堅実な生活をした。退廃した文化が現れた理由はまづアメリカ文化が流入する。すると都合のよい部分だけ導入する人間が現れるから日本はアメリカより悪くなる。悪くなり社会が混乱すると収束するか拡散する。日本の場合は中期的には収束したがプラザ合意以降の非正規雇用拡大で拡散に向かつてゐるし世界規模では地球温暖化が明らかになり拡散する。この程度は少し考へれば判る話だ。しかし丸山真男は言はなかつたから上野も気付かなかつたらしい。
「贅沢は敵だ」を「贅沢は素敵だ」と書き換えてわずかにうっぷんを晴らしながらしのいだ庶民は、敗戦後、戦時下よりもきびしい飢餓体験を味わわなければならなかった。
「贅沢は素敵だ」と「きびしい飢餓体験」は矛盾である。それを前後に並べる。今後の対策に役立たないばかりか現状分析にもならない。まつたく無駄な文章である。無駄なだけではない。上野はかういふ世相を距離を置いた目で見るふりをしながら批判をせず対策も立てない。そもそも上野の言ふ事は社会を破壊することばかりだ。
四月八日(火)「表層しか見ない言論」
その後の戦後復興と奇跡の経済成長は、この「欲望自然主義」に依拠し、それを促進するはたらきをした。日本の高度成長は多くの発展途上国にとって、いまでもうらやむべきモデルだと言われるが、(中略)植民地にも戦争経済にも依存しない「平和型成長」である点で、いまでもひとつの「お手本」なのである。
駄目な学者の主張には特徴がある。賛成なのか反対なのかが判らない。意見がないのに両論を単に羅列するからだ。上野もその例外ではない。前半では欲望に依拠するから悪いように書いておいて後半では発展途上国のお手本だと賞賛する。
次に経済成長を可能にしたのは戦前の教育を受けた人たちの規律と戦後の民主主義が調和したからだが上野はそんなことは言へない。戦前は何でも悪くしないと気が済まないからだ。また資本主義陣営がよいか社会主義陣営がよいかといふ国内の対立が政治では政党、企業では労使に緊張感をもたらしこれが堕落を防ぎ経済成長を促した。これについて上野は別の解釈を行ふ。
第一は、敗戦と占領軍のおかげで、農地解放が実現したことである。明治以来、懸案であった財閥解体と農地解放は、特権層の強い抵抗にあって敗戦まで実現することができなかった。(中略)日本は今日の繁栄を、逆説的に占領軍に負っているといっていい。
これだけだとだから占領軍に感謝しろとなつてしまふ。財閥と地主は明治維新とその直後のどさくさの中から出てきた。西洋の猿真似を急激に進めた結果である。なぜ特権層の抵抗にあつて実現できなかつたかについて上野は書くべきだ。
四月九日(水)「低級な言論」
第二は、敗戦によって過去の植民地をすべて失い、帝国主義型の発展をとげるオプションを奪われたことである。戦後日本人論のなかでは、日本は大昔からこの狭い島国で、他国と没交渉に平和裡に暮らしてきたかのような言説が流通しているが、おっとどっこい、戦前の日本は海外植民地につぎつぎと国民を送り出すれっきとした帝国主義国家、侵略と領土拡張主義の国だったのである。
これは低級な言論である。日本が平和裡に暮らしてきたといふ主張は、明治以降と豊臣秀吉の朝鮮出兵、任那への出兵などを例外として全体の歴史を見てのことだ。そんなことは言はなくても誰もが判る。上野だけが判らないらしい。しかも明治以降が帝国主義だつたのは西洋の猿真似だし、西洋の帝国主義を防がうとするあまりの防衛論が過剰になり収拾がつかなくなつたものだし、日露戦争の勝利で傲慢になつたためだ。そこまで見なくてはいけない。ところが上野の「この狭い島国」「おっとどっこい」といふ言葉に反日志向、西洋崇拝を見て取ることができる。
四月十日(木)「一億総中流と中流階級の人為的育成はまつたく異なる」
昭和三十年後半からプラザ合意までは一億総中流の日本にとり一番よい時代であつた。実際にはプラザ合意の後にバブル経済があつたため国民がプラザ合意の恐ろしさに気づくのはバブル崩壊まで待たなければならなかつたが。
一億総中流こそ五五年体制が築き上げた戦後の総結晶である。社会党は万年野党のような印象があるが昭和四十年代には全国に革新知事、革新市長を誕生させ昭和五五年辺りまでは有効であつた。その間二五年である。上野は
六〇年代末までの10年間に額面所得は約三倍増、同じ時期に物価も上昇したが実質所得は約二倍に達した。学歴間格差や企業規模間格差をとっても、少なくとも初任給にかんしては大幅に縮小。ホワイトカラーもブルーカラーも自分の職業を「会社員」と答える画一的な生活様式ができあがったのである。
ここまでは一億総中流だから賛成である。ところがすぐ次の行で
世界の発展途上国の実情を見ていると、この「中産階級の形成」に成功したか失敗したかが、その後の政治的命運を分かつことが多い。
これは中流階級の人為的育成であり反対である。多数の下流階級を残すことになるからである。シロアリ民主党の欺瞞は「ぶ厚い中流」といふ言葉に象徴される。具体的に何割と数値を掲げる訳でもなく、もし数値を掲げたらそれこそ大変な騒ぎになる。上野の主張はそれと同一である。
四月十一日(金)「欲望自然主義」
この「内部拡大型経済成長」を支えたのが「欲望自然主義」である。国民の欲望は肯定され、ひたすら刺激された。国民は欲望を満たすためにせっせと働いた。戦後の日本人はワーカホリックな労働者として世界に名を馳せたが、その裏面であくなき消費者としてもみごとに国民形成したことを忘れてはならないだろう。
上野は欲望自然主義を批判するでも賛成するでもなく、単に現象を並び立てる。ここでも駄目な学者の典型を示してゐる。「国民の欲望は肯定され」といふが生活に必要な以上に欲望を煽るのは資本主義の特徴である。また西洋では産業革命といふ名の化石燃料消費により生活が贅沢だから西洋の生活を目標にすればせっせと働くしかなくなる。欲望を満たすためではなく西洋の生活を目標にしたからで、本来は敗戦による貧困の前、更には世界大恐慌の影響のない時代の国内をまづ第一目標にすべきだつた。
「欲望自然主義」は丸山真男が勝手に名付けただけで当時の政治運動や労働運動は決して欲望だけを目的にした訳ではなかつた。議員でゐたい党内や閣僚として出世したいといふ欲望だけを目的としたシロアリ政治屋が自民、社会両党内に出現したのは昭和五十年辺りからである。
戦前からの住宅地や町工場や商店街や企業も欲望が目的の人たちだけだつた訳ではない。伝統を破壊した地帯や組織は欲望を目的とした人たちばかりになる。しかし上野はそんなことは言へない。伝統破壊即ち社会破壊が上野の基本姿勢だからである。
四月十二日(土)「上野の悪質な造語、衣・食・住・性」
衣食住とは衣類と食事と住居のことだけではない。辞書で調べると生活の基礎、生計といつた言葉が載る。ところが上野は衣・食・住・性といふ珍妙な言葉を造り例によつて戦後の世相を批判するでも賛成するでもなく単に羅列する。
飢えからの解放、性の肯定という戦後の流れのなかでは、衣・食・住・性をめぐる欲望は「自然な欲望」だと見なされていた。
鳥はつがいで行動するが哺乳類は異なる。しかし人類は長い年月の知恵で夫婦で生活する文化を築いた。夫婦だけではうまく行かないから親類、近所、同業者、講中なども作つた。その人類を再び哺乳類に戻さうとするのが上野の主張である。
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