百十四(その三)、兵頭裕己氏批判)

一月十五日(金)「講談・浪曲の復活」
講談と浪曲が廃れたのは、日本のものは悪くて欧米のものは優れているという戦後の偏った風潮にある。
まず一番目に学校の音楽教育は西洋音楽に偏っている。だから西洋式の音符では表せない日本音楽の節回しが非音楽的として切り捨てられた。
木造の家屋では音響が少なく、声を響かせるためには浪曲のような謡い方となる。高度成長以前は太った人は少なかった。体形にあった発声法でもあった。
今後の日本がまずすべきことは、学校の音楽教育の半分は邦楽を行い、西洋音楽は邦楽の基礎の上に築くべきだ。公会堂やホールの設計は音響を少なくし、原則としてマイクとスピーカーは廃止すべきだ。

一月二十六日(火)「兵頭裕己氏の『(声)の国民国家』批判(その一)」
兵頭氏の著書「(声)の国民国家」はトンデモ本である。まず、

・日本で浪花節が流行していた一九三〇年代のはじめ、アメリカ人のミルマン・パリーは、旧ユーゴスラビア各地に伝承された物語詩(エピック)を調査していた。
・パリーは、旧ユーゴスラビア地域に残存していた吟遊詩人のパフォーマンスを調査したのだが(以下略)
・パリーは、「(前略)かれは聴衆を楽しませなければならない。でなければ報酬を期待できないからだ。だから、トルコ人ムスリムの歌をうたったり、自分の持ち歌を使ってイスラム教徒の戦勝をうたうという具合であった。」と述べている。グスラー(吟遊詩人)たちの口頭芸のしたたかさは、ひと時代まえの日本の浪花節語りをおもわせる。
・オーラル・リテラチュアを主題化しつつあった当時の柳田は、いっぽうで、民間伝承(フォークロア)(民俗)の学の組織化・体系化をくわだてていたのだが、民間伝承の一領域としての「口承文芸」の位置づけは、以後のオーラル・リテラチュア研究に独特のバイアスとなって作用することになる。

欧米かぶれは大学教授にしてはいけない、その理由は日本社会の役に立たない、という典型である。

一月二十九日(金)「兵頭裕己氏の『(声)の国民国家』批判(その二)」

兵頭氏の本で良くないのは、欧米かぶれとともに下層階級に対する兵頭氏のエリート意識である。

・小学校もろくに出ていない雲右衛門も、講談本ぐらいは読むことができたし、また、なによりもかれは、門付け・大道芸人の巣窟である芝新網町ー明治期東京の「三大貧民窟」のひとつーで育ったのである。


本には四谷の貧民窟の絵、芝新網町で子供を背負いながら内職をする母親とその隣の小学一年くらいの子供の絵まで載っている。他にも差別用語がたくさん出てくるが、差別用語については本の最後に、研究を尊重したという但し書きが付いているので今回は不問にしよう。

一月三十一日(日)「兵頭裕己氏の『(声)の国民国家』批判(その三)」
兵頭氏のインテリエリート意識は丸山真男流である。以下は二年前の
「94、いまだに丸山真男を信奉する者は現代の軍国主義者である 」の内容である。

・第一は、たとえば、小工場主、町工場の親方、土建請負業者、小売商店の店主、小地主、乃至自作農上層、学校教員、殊に小学校・青年学校の教員、村役場の吏員・役員、その他一般の下級官吏、僧侶、神官
・第二の類型としては都市におけるサラリーマン階級、いわゆる文化人乃至ジャーナリスト、その他自由知識職業者(教授とか弁護士とか)

丸山は第一のグループを擬似インテリまたは亜インテリと呼び、日本のファシズムの社会的基盤になったという。そして第二のグループが本来のインテリでファシズムに追従はしたが積極的な推進者ではなかったのだそうだ。追従したくせに敗戦すると内心では反対だったとしたり顔でいう。ずいぶん無責任な話だ。そのようになった理由を丸山はつぎのように述べる。

日本のインテリゲンチャが教養において本来ヨーロッパ育ちであり(中略)、頭から来た知識、いわばお化粧的な教養ですから、肉体なり生活感情なりにまで根を下ろしていない。

だったらどうすればいいのか。肉体なり生活感情まで欧米化するしかなくなる。それを戦後ずっと続けて今日の不安定で醜い日本ができたのではないのか。


丸山の言うことに従い、肉体なり生活感情まで欧米化しようと、その矛先を浪曲に向けているのが兵頭氏である。

二月一日(月)「兵頭裕己氏の『(声)の国民国家』批判(その四)」
兵頭氏が丸山真男の影響を大きく受けていることは、兵頭氏の次の文章でわかる。

・丸山真男氏は、日本型ファシズムの思想的特質として、農本主義、大アジア主義とともに、家族主義をあげ、(以下略)」


丸山は重大な過ちを犯している。日本型ファシズムの特質は、農本主義でも大アジア主義でも家族主義でもない。その特質は欧米の猿真似である。しかし丸山は口が裂けてもそんなことは言えない。なぜなら丸山自身が欧米かぶれだからである。
先の大戦前後の日本にあって一番優れているのは、開戦前に欧米流の帝国主義を止めさせ戦争をしないですむ世界の構築を主張することであった。二番目に優れているのは敗戦した日本にあって如何に精神的腐敗を防ぐかを考案することである。一番駄目なのは戦後に欧米の帝国主義を批判せず日本だけを批判することである。
丸山およびその信奉者の兵頭氏こそ日本で一番駄目な連中なのである。

二月三日(水)「兵頭裕己氏の『(声)の国民国家』批判(その五)」
「声の国民国家」のあとがきには、次の文章が載っている。

・イギリスのノーリッジという町で、忠臣蔵をテーマにしたシンポジウムが行われた。イギリス、アメリカ、日本の研究者があつまり、日本からは私を含めて四名が参加した。
私は「浪花節と忠臣蔵」というテーマで発表したが、発表がおわった日の夜、日本から同行したある比較文学研究者から、あなたは浪花節が好きか、ときかれた。私は即座に、好きではないとこたえた。だがかりに、浪花節が嫌いか、ときかれていたら、嫌いではないとこたえたのである。


浪花節が廃れたことを心配して浪花節を研究することこそ、採るべき態度である。浪花節がはやり過ぎて世の中に弊害があるというのなら、流行を抑制するための研究も必要であろう。しかし浪花節は今ではかすかに命脈を保っているに過ぎない。それなのになぜ浪花節を批判するのか。それも丸山真男流のインテリエリート意識を用いている。
最初の「(声)の国民国家」はNHK出版協会から出版されたが、二回目は昨年末に講談社からである。二回目では、書籍の最後に「解説」と称して山本ひろ子さん(説経・祭文研究会会員)が文章を書いている。

・静岡県水窪の西浦の祭りに出掛けたことがあった。免許とりたての兵頭の車で行ったのだが、驚いたのはその運転ぶりではなく、カーステレオから流れる音楽だった。なんと浪曲なのである。広沢虎造、いやもしかしたら桃中軒雲右衛門だったか。居心地の悪さを感じつつも(以下略)

説経・祭文を研究していながら、浪曲を聴いて居心地が悪いとはよく言ったものである。好きではないと答える兵頭氏と瓜二つである。イギリスの映画で、イギリス人が植民地のインドを訪れ、現地の風習を蔑んだ目つきで眺める。こういう光景がよくでてくる。兵頭氏と山本氏と丸山真男の研究態度はこのイギリス人と同じである。

二月五日(金)「兵頭裕己氏の『(声)の国民国家』批判(その六)」
・東京の芝に本拠をおいた黒竜会は、欧米帝国主義からのアジアの開放と、対ロシア強硬外交の政治宣伝を行うかたわら、芝新網町をはじめとする貧民窟の救済活動を行った。
・しかし黒竜会の母胎組織である玄洋社は、もともと北九州の製鉄所、炭鉱、港湾などではたらく職工や抗夫、沖仲仕などの下層労働者と深いつながりをもっていた。草莽の志士=浪人を自認していたかれらは、都市下層の無産者(やくざを含む)や貧民層と太いパイプをもっていた。

この文章を読んだ人は、都市下層の無産者にはやくざが含まれると思ってしまう。無産者とは資産のない者のことである。「聞け万国の労働者」の歌詞の三番に「永き搾取に悩みたる、無産の民よ決起せよ」とあることからも戦前は無産が普通に用いられた用語であることがわかる。

二月七日(日)「兵頭裕己氏の『(声)の国民国家』批判(その七)」
兵頭氏は、浪花節に侠客物が多い理由を浪曲師がやくざと同質だと結論付ける。
・無宿渡世のアウトローの物語(侠客物、白浪物など)が流行した背景にも、物語芸人たちの社会的位相の問題があるだろう。任侠・義侠のモラルと法制度との軋轢を語る物語に、社会の埒外を生きる語り手のすがたが投影する。
・物語の担い手は、社会の埒外の民(アウト・カースト)ともいえる芸人である。

侠客物は講談にも多数存在する。そればかりではない。歌謡曲にも存在する。日本歌手協会初代会長東海林太郎の「赤城の子守歌」、東京音楽学校を首席で卒業した藤山一郎の「男の純情」、ディックミネの「旅姿三人男」。どれも侠客物である。このことからも兵頭氏の浪曲師批判は筋違いも甚だしい。

ここで侠客とは何かを考えてみよう。最初は悪い意味を持っていなかったが、人は堕落するという同時進行中の原理により、どんどん堕落したのが侠客ではないか。しかし幕府から十手を預かる者もいて幕府も彼らを利用しつつ有害化しないように導こうとした。明治維新後は薩長政府による徳川への反感から侠客のうち幕府に反抗したものは英雄になった。

侠客そのものは江戸時代に既に堕落していたが、それでも賭場や祭りの露店なら社会への害は少なかった。暴力、恐喝、地上げ屋、債権の取り立て、覚せい剤、銃器密売など現代の暴力団とは区別する必要がある。
だいたい競輪、競馬、toto、宝くじは賭場と何か差があるのか。十手を預けて彼らを準公認にした幕府の政策は間違ってはいない。
さて現代の日本国内にカジノを作ろうという主張がある。これはマカオやラスベガスの猿真似でよくない。どうしても作るのなら賭場にすべきだ。従業員は江戸時代の服で十手をもたせるといい。十手はかざりで実際に逮捕劇を演じてもらっては困る。時代劇ファンはもとより海外の観光客も珍しがるであろう。沖縄を賭場特区にしたらどうか。これは沖縄の経済を考えてのことである。沖縄県民が不要だというのなら米軍基地と同じで強制すべきではない。その場合は北海道か青森県あたりに設置したらどうか。ゆくゆくは競馬、競輪など欧米の猿真似はすこしずつ廃止すべきだ。

それにしても国内のどこに設置したらいいか。そうだ、さいころで決めよう。ようござんすか、入ります。三、六の半。

二月九日(火)「兵頭裕己氏の『(声)の国民国家』批判(その八)」
丸山真男は小工場主、小売商店の店主、学校教員、殊に小学校の教員などを日本のファシズムの社会的基盤と呼んだ。丸山真男を信奉する兵頭氏が、浪曲を先の戦争と結び付けたことは当然であろう。
東海林太郎の「麦と兵隊」、藤山一郎の「燃ゆる大空」、灰田勝彦の「加藤隼戦闘隊」は名曲である。戦後も昭和五十年あたりまで思い出のメロディーなどのテレビ番組で歌われていた。この当時は全国に革新の知事や市長が誕生した時期であった。このことからも歌謡曲や浪曲に戦争責任のないことは明らかである。ところが兵頭氏は、浪曲には二重に戦争責任があると主張している。

二月十一日(木)「兵頭裕己氏の『(声)の国民国家』批判(その九)」

・愛国浪曲を作詞した著名な文壇人とその曲目をあげれば、佐藤春夫「大場鎮の一夜」、菊池寛「近衛篤麿」、久米正雄「血を嗣ぐもの」、(以下略)
・安斉竹夫氏によれば、(中略)当局のおしつけた「愛国浪曲」よりも、「庶民はやはりそれまでの浪曲節のほうを好んだ」という。
・しかしだからといって、「市井をいろどる義理人情」(安斉竹夫)をうたう浪花節が、戦争とは無縁の「庶民芸術」だということにはならない。(中略)日本近代の国民大衆を、軍部ファシストが主導した戦争の被害者としかみないその種の「庶民」観には、明治の社会主義者たちの「平民」観と同様の、重要な問題のとり落としがある。

庶民が愛国浪曲よりも従来の浪花節を好んだことは、庶民の平衡感覚と文化の威力ともいうべきもので、好ましいことである。ところが兵頭氏はそれを否定する。兵頭氏の目は、イギリス映画に出てくるあのいやに落ち着き蔑んだ態度でインド文化を眺めるイギリス人の目そのものである。

浪花節には、いばった侍をやっつける町奴や、悪代官を退治する博徒、金持ちから奪った金を困った者に配る盗賊、幕府に楯突いて討ち入りや仇討ちを果たした義士が登場する。庶民はそこに喝采するのである。

乃木大将の登場する浪曲が幾つかある。東京見物に来た老人が乃木大将の家を見てみすぼらしいので、雨が降ってきて傘に入れてもらった老人に「乃木大将はけちだねえ」とさんざん悪口をいって、あとで家に呼ばれ乃木大将本人と知った話や、乃木大将夫人が演習のときに質素な身なりで旅館に行き、一番安くて狭い部屋に宿泊させられ、翌日乃木大将が現れ旅館が慌てるところに司令官や地元の知事や警察署長など多数が狭い部屋に押しかける話など、どれもこれも庶民の立場で語られている。
その庶民の立場を蔑み、欧米かぶれがエリートだとばかり丸山真男流に浪曲を批判するのが兵頭氏である。

二月十三日(土)「兵頭裕己氏の『(声)の国民国家』批判(その十)」
兵頭氏の下層階級蔑視は『声の国民国家』の五年前に出版された『太平記(よみ)の可能性』でも遺憾なく発揮されている。
・正成はじっさい、夢告でもなければ、天皇にはその存在さえ知られない身分である。天皇には直接つかえる立場にもない河内の一土豪であり(以下略)
・日本社会のネガティブな部分が、歴史的にみてもっともラディカルな「日本」的モラルの担い手だったという構造がある。親方への忠孝、兄弟(兄弟分)の信義といった社会公認の(というより、公認せざるをえない)モラルが、制度外のアウトロー集団によって典型的にになわれてゆく。
・太平記を談義/物語する異形の「あぶれ者」たちが、みずからの境遇を楠氏や名和氏、児島氏の末路にかさねあわせたことは想像にかたくない。
「異形異類」をよそおい、都市下層のルサンチマンを体現するかれらが、楠や名和・児島の倒幕活動を語るうちに、いつのまにかその縁故を僭称しはじめたことも容易に想像できる。
・名和長年はもちろん、楠正成や児島高徳も、「さして名ある武士にては候は」ぬものたちである。(中略)これらの「あやしき民」は、およそ太平記の歴史に浮上する余地のない人物たちであった。
・「物もらひ」となりはてた太平記読みのすがたが描かれている。このように零落した太平記読みの浪人たちが、みずからの境遇を楠一族の悲運にかさねあわせたことは想像にかたくない。
・かれが(由比正雪が)、いっぽうで「紺屋」の出といわれるのである。紺屋とは藍染め屋のこと、(中略)すくなからず卑賤視された職業であった。
・正雪の出自に関連して、その人相風体も注意されてよい。事件発覚後に幕府がだした人相書に、
一、由比正雪事、年四十余、がつそう---
「がっそう」(兀僧)は、総髪の切り下げ髪のこと。(中略)文字どおりの「非人」・制外(にんがい)身分として、社会の埒外(らちがい)に置かれる階層だが(以下略)
・由比正雪は、その「がっそう」(総髪)という髪型において、各種の 制外身分の結節点に位置している。たしかに由比正雪には、正成を語る(騙る)根拠があったのである。
・中世の太平記読みから、近世の講釈・講談が生まれてくる。制外の毛坊主や「非人」にはじまり、近世の「ごろつき」・浪人へいたる語り芸の系譜のなかで、最大の講釈ネタでありつづけたのが楠正成であった。
・正成を語る(騙る)芸の系譜に、下層のチサンチマンをすくいとる一定のしかけが存在した(中略)
・雲右衛門が好んでもちいたその過剰な舞台装飾。(中略)。雲右衛門以後の浪花節が、学者やインテリから下等・悪趣味として嫌悪された最大の原因だが(以下略)
・雲右衛門の創始したアナーキーなうたごえは、昭和の愛国浪曲のたしかに下等・悪趣味なアジテーションへと移行するのである。


二月十五日(日)「橋本勝三郎氏の『「森の石松」の世界』」
『「森の石松」の世界』という橋本勝三郎氏の著書がある。そこに次のような書かれている。
・雲右衛門の歌舞伎座への登場は、明治四十五年のことである。雲右衛門はこのとき、大きな困難に遭遇した。伝統ある歌舞伎座の檜舞台が卑しいちょんがれ(浮かれ節)風情に穢されるというので、歌舞伎界の名優がこぞって雲右衛門の登場を阻止しようとしたのであった。とはいえ、その歌舞伎も、江戸時代にはちょんがれと変わらない賎業のひとつとみなされていたのである。河原者と蔑まれていたのであった。
・浪花節は劇場に進出するまえに、まず手近な寄席へ出て行ったが、そのときもおなじ大道芸から出発して先に寄席の高座へ上がっていた講談・落語界から排斥されている。

そしてそれは学者だって同じである。本来は門弟の謝礼などで細々と生活しなくてはならないのに、欧米猿真似の学制でたまたま教授とか詐称していい思いをしている。そのような輩が浪曲をアナーキー、下等・悪趣味と罵っていいと思っているのか。

橋本氏はそのような論議に対して、浪曲のレコードが出版されていたことを挙げて、

・蓄音機は、非常に高価な贅沢品だった
・初期の片面だけの、演奏時間三分のレコードも、一枚三円五十銭という高価なものであった

と反論している。橋本氏はまた

・浪曲は庶民とともに生きてきた。庶民の笑いと涙の世界であり、善意と正義の世界でもあった。

と述べている。これが正論である。

二月十六日(火)「浪曲が廃れた理由」
兵頭氏は
時代の芸能としての浪花節は、「大東亜戦争」という日本近代の破局的事態とともにおわりを告げたのかもしれない。
と書いている。しかしこれは根拠のないでっち上げである。まず、浪花節が明治以降爆発的に流行したのは、日本人の音楽感覚と発声法が浪花節のそれと馴染んでいたからである。そして明治期の日本人の生活向上に浪花節が同期していた。
浪花節が廃れたのは、敗戦のときにGHQによって日本文化が不連続となるよう工作されたためである。浪花節が原因で戦争が起きたのなら浪花節は廃絶したほうがいい。事実は逆で欧米の猿真似をしたため戦争が起きたのである。明治維新により欧米文化がなだれを打って国内に流入したが、徳川が負けたのであり日本が負けた訳ではない。だから、日本文化は健在であった。しかし昭和二十年の敗戦は日本そのものが負けた。GHQの工作によって日本文化は断絶し、戦後の人間はアメリカ化されていた。これが浪花節衰退の真因である。


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