五百五十七、上野千鶴子の言論は邪悪だ(その二、人権を叫ぶ者は悪魔だ)

平成二十六甲午
四月十三日(日)「人権を叫んではいけない」
人権といふ言葉に仏教圏では違和感を感じる人は多い。一つには動物を無視するからであり、二つには人間は人として生きる努力をすることにより人となるのであり人がすべて人ではない。だから人権を叫ぶ者は悪魔と断定してよい。そのような中で上野千鶴子著「生き延びるための思想 ジェンダー平等の罠」の冒頭に載る次の文章では上野はなかなか見所がある。平成六年に日仏の出版社が共催したシンポジウムでの話である。
ひとりのフランス人女性が日本側に次のような質問をした。
「人権という概念はフランスが生んだ概念だが、あなた方はそれを普遍概念と認めるか?」
(前略)この問いは、トリッキィでダブルバインドな問いである。イエスと答えれば「フランスが生んだ概念を、あなた方アジアの辺境の国民も受け容れている」とフランスの普遍主義を肯定することになるし、他方ノーと答えれば、「アジア人は人権概念を受け容れようとしない蒙昧な民族だ」ということになろう。


これに対し樋口陽一が答えて

「人権はたしかにフランスが生んだ歴史概念だが、それを超えて普遍化されている」という啓蒙的な答だった。その答を聞いたときに質問者にあらわれた深い満足の表情を、わたしは今でも忘れることはできない。


しかしこの答に上野は満足しなかつた。

わたしなら、こう答えていただろう。
「人権は特殊フランス的な概念だ。それが普遍性を僭称しながら、その実、普遍性を獲得していないのは、あなた方西欧が人権を独占しているからだ」と。


これも賛成である。私なら最初に述べたように人権に動物が含まれないことと人は人として生きる努力が必要なことを批判する。それに対しフランス側が人権に動物も含め一方で人として生きない人は動物として含めることで動物権と譲歩し、動物権について質問したら上野のように答へるのがよいからである。フランスが人権を動物権に譲歩することはあり得ないが。

四月十三日(日)その二「私が賛成できるのはそこまで」
しかし277ページの書籍で私が賛成できるのはここまでの1ページ半に過ぎない。
のちにこのときのやりとりについて書いたレポート[上野1995a]のなかで、わたしは次のようにコメントしている。
「近代の人権の歴史を特権階級にだけ認められた諸権利が階級、性別、人種を超えて拡張していくプロセスと、ナイーブな啓蒙主義史観で見ることはできない。それは社会的諸権利、諸資源へのアクセスをめぐる、激烈な分配闘争であった・・・。」[上野1995a:30]


この解釈には反対である。まづ全ての人間は欲があるから多かれ少なかれ堕落する。その中で特権階級が現れた。上野のレポートはそこが抜けた。
次に激烈な分配闘争といふが不均衡にはあつてもよいものと無くすべきものがある。判り易い例を挙げれば航空機の翼の上側と下側では大気の気圧が異なる。それが故に航空機は飛行できる。それと同じで必要な不均衡を激烈な分配闘争で均衡にしたら世の中は墜落する。実際には世の中のほとんどの不均衡は権力を持つ側、堕落のひどい側の為したもので廃止すべきだが、必要な不均衡を探す努力が上野のレポートにない。

四月十四日(月)「熟練工の無用化、肉体労働の減少」
かつては農業は肉体労働、工業は熟練工でどちらも男が主体だつた。産業革命の後に世の中が変つて行きそれにより男女の役割りも変化した。上野にはその視点が欠ける。だからフランス革命のときの人権宣言のフランス語のオムhommeは「人」「男」だと言つたり、市民はフランス語にもドイツ語にも男性形/女性形があると言つたところで無意味である。
人権宣言の二年後に女性形にした女権宣言を作つたグージュといふ女性がゐた。シトワイヤン(男性市民)が背負つたすべての義務をシトワイエンヌ(女性市民)にも負はせる。上野は

おもしろいことに、グージュの「女権宣言」には、近代家族を解体しかねないきわめてラジカルな提言がある。第一一条の言論の自由で、グージュは、言論の自由は、女性にとって不可欠だと主張する。なぜなら、女は誰が子の父かを名指す権利を持ち、これだけが父親に正当性を与えるからと。子どもの父は誰かという嫡出の原理こそが家父長制の基盤だから、グージュの言う女の「言論の自由」は、逆説である。


これは一見何でもないように見えて極めて有害である。不倫を勧め家庭を破壊するからである。人間の猿化である。また家父長制といふものがあつた訳ではない。明治維新後の民法に、江戸時代の武士の身分の世襲を基本とした家族性を入れたことで農村や町民からは窮屈に感じたし、民法に西洋の猿真似もあつたから旧武士階級からは嫡子の特権の弱体化への不安もあつただらう。西洋の家父長制と日本の戸主とはことなるし戸主自体が明治維新後にできたものであり、更には江戸時代の仕組みは長い幕藩体制で堕落したものである。

四月十五日(火)「家父長の考察」
今の日本人の99%は家父長とは父親のことだと思ふだらう。しかし父親のことなら父と言へばよい。家父長とは一族の長であり昔は大家族で農業を営んだから今で言へば零細企業、中小企業の社長である。場合によつては藤原、平、源、徳川のように大企業の社長のこともある。
そのことを無視すると家父長とは父親のことかと勘違ひして家族を破壊することになる。

四月十六日(水)「従軍慰安婦」
NHK会長が従軍慰安婦問題でマスコミに叩かれたのは記憶に新しい。私は最初五四一に「長谷川三千子女史支持、籾井勝人氏及び百田尚樹氏反対」といふ題を付けた。念のため籾井勝人氏の記者会見の動画を見たところ報道とは全然違つてゐた。そこで題を「長谷川三千子女史及び籾井勝人会長支持、マスコミの横暴を許すな」に変更した。上野の
「慰安婦」制度とは、今日では日本軍性的奴隷制として広く知られているものである。
(134ページ)

ここで重要なことは上野が慰安婦を日本軍だけのものとしたことである。上野は「日本軍」と書いたのであつて「日本軍だけの」とは書かなかつたと反論するかも知れない。しかし読者は文脈から日本だけだつたと思つてしまふ。一方で上野ははるか離れたページで湾岸戦争について
サウジアラビア国王の要請にもとづいて、米軍は基地につきものの売春施設を設けず、このせいで女性兵士の参戦は容易になった[Enloe 1993:219]。
(53ページ)

と書いた。それが可能だつたのは圧倒的な軍事力の差による短期決戦だつたからだ。しかし
基地売春の不在は、米軍男性兵士が現実に紳士的にふるまったということを意味するわけではない。湾岸戦争期に、報告されているだけで二四件の軍隊内レイプとセクハラが発生。女性兵士は、敵からよりも味方の男性によって多くの性的屈辱を受けた。
(54ページ)

戦争といふ異常心理状態を作らないために戦争はなくさう。これが私の主張である。ところが最近の日本国内では米軍は正しかつたが日本軍は残虐だつたといふ悪質なものがほとんどである。上野も53ページは「女性兵士の構築」といふ章だから米軍のことを書いたが、134ページでは日本軍だけを悪く書いた。勿論日華事変以後の日本軍は開戦したでもしないでもなく中途半端な状態だつたから精神上の堕落がひどい。しかしそれはベトナム戦争のときの米軍も同じである。

四月十八日(金)「家庭内暴力」
DV(ドメスティック・バイオレンス)や児童虐待が問題化されるまで私的領域への公権力の介入は、プライバシーの名において忌避されてきた。

今から二十年前にカナダだかアメリカに駐在する領事が妻を殴りそれが日本では当然であるかの発言をして大問題になつたことがあつた。勿論そんなものは日本では当然でも何でもない。離婚騒ぎにすべきだ。それより国際結婚した日本の女性が白人の夫の暴力に悩まされて子を連れて帰国し、子の養育権を巡り欧米からの圧力に負けて安倍政権がハーグ条約を締結したことは記憶に新しい。
家庭内暴力が発生する理由は社会の崩壊である。かつては近所、親類、青年会、業界仲間、講中などが家庭内のいざこざを防ぐ役割りを果たした。ところがプライバシーといふ名の個人主義がそれを破壊した。だから私は社会破壊反日新聞(自称朝日新聞)や西洋猿真似や丸山真男やリベラルに反対してきた。上野もプライバシーに言及しながらプライバシーを批判することができない。それは上野がリベラルといふ名の社会破壊主義だからである。
明治維新以降は農村が崩壊し民法で戸主の権力が強くなつてしまつた。これも西洋猿真似の弊害である。

四月十八日(金)「カネがあるから存続できる社会」
上野の性愛観は連合赤軍事件の永田洋子についての記述に現れてゐる。
永田の性愛観は道徳的に保守的なもので、性関係を持つなら結婚しなければならず、結婚するつもりがなければ性関係を持ってはならないというものであり、当時進行しつつあった性革命の状況とは時代錯誤的にずれていた。

上野がどのような性愛観を持たうと勝手だが、人類の長い歴史を振り返ると結婚により世の中が永続できたと言へる。昭和四十年代後半にはそれまで1ドル360円の固定だつた外国為替が変動性になり、これは日本人一人ひとりがにわか金持ちになつたことを意味する。結婚制度の崩れた社会は本来は永続できない。しかし貿易黒字による砂上の楼閣として繁栄した。上野はそんなことも判らぬのか。
テルアビブ空港乱射事件の岡本公三がイスラエルの監獄でハワイ大学の社会学者スタインホフの質問に「わたしは革命兵士です。兵士は命令に絶対服従服従するものです。」と答へた。これについて上野は
この逸話は、読み手の心を波立たせる。仮にこのなかの「革命兵士」を「皇軍兵士」に入れ替えてみたらどうか。岡本の発言は、皇軍一兵卒のことばに、なんと似ていることだろう。

岡本の言葉から「皇軍兵士」を連想する人なぞほとんどゐない。上野もそのことは判るらしく

この印象深い逸話を記述することで、スタインホフは赤軍派を事例に「日本文化論」の応用問題を解こうとしたわけではない。兵士岡本と同様の発言を、ナチス・ドイツの兵士もおこなっている。したがって「皇軍兵士」の連想は、日本の文化特性には還元されないだろう。むしろここで注目すべきは、国軍兵士と革命兵士とのあいだのおどろくべき類似性である。

上野も判つてゐるのである。この話は「国軍兵士」つまり万国共通なことを。判つてゐながら皇軍兵士だの日本文化論だのと丸山真男ばりに日本だけが悪いように見せかける。実に悪質な言論である。上野の言論にはもう一つトリックがある。万国共通でありながら日本とナチスドイツだけを取り上げることで米英仏を正当化した。米英仏は第二次世界大戦のときに何か悪いことをしたのかと反論しかねないから予め言つておくと世界の植民地支配をした。そもそもなぜスタインホフなる学者がハワイにゐるのか。アメリカがハワイ王国を乗つ取つたためではないか。
上野の悪質さは更にある。この節に「10 革命戦士か皇軍戦士か」と命名した。革命戦士と国軍兵士を論じるのにこの命名は極めて悪質である。


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