四百五十八、レーニンの「唯物論と経験批判論」は極めて有害である


平成25年
七月二十七日(土)「レーニン」
私は今までレーニンの著書は読んだことがない。マルクスの著書も一年半前に特集を組むまでは読んだことがなかつた。レーニンについてはロシア革命を達成した人であり、政権が堕落する前に亡くなつたから偉大な人なのだらうと思つてゐた。しかし今回レーニンの「唯物論と経験批判論」を読んでみると、頑固で少しの意見の相違も許さない人間に思へる。
トロツキーは昨年特集を組み、そのとき調べたところすごく柔軟で強権さが見られない。だからレーニンも同じだらうと思つてゐたが違ふやうだ。トロツキーは世界同時革命論で過激派の印象を与へるが、当時の世界情勢からあのとき世界同時革命をやらないとロシアの革命はいづれ失敗すると考へたもので、それはソ連崩壊で正しいことを証明した。トロツキーはメンシェビキのときもあつたのに対してレーニンは一貫してボルシェビキである。トロツキーは穏健派、レーニンは強硬派といふのが正解ではないだらうか。

七月二十八日(日)「唯物論と経験批判論の背景」
レーニンがなぜ「唯物論と経験批判論」を書いたかは訳者の川内唯彦氏の「解説」に載つてゐる。
この本はロシアの第一次革命(一九〇五-一九〇七)の敗北後にやってきた反動期に書かれたものである。この時期の革新陣営の一部には、堕落、分裂、不和、裏切り、エロの風潮がみなぎり、イデオロギーの分野では哲学的観念論や神秘主義に傾倒する傾向があらわれた。(中略)こういう情勢のもとで、マッハ哲学の影響をうけたロシアのマッハ主義者の集団労作『マルクス主義哲学についての概説』が一九〇八年に出た。(中略)レーニンはこれを読んで、ひどく怒り、これらのロシアの経験批判論者、経験一元論者、経験記号論者を徹底的に反駁しようと決心した。


まづ「マルクス主義哲学についての概説」を読まないと背景は判らないが、日本では読むことが不可能だから「唯物論と経験批判論」だけを読んで、今読むとどこが有害かを指摘したい。

八月三日(土)「唯物論に見るマルクスとレーニンの違ひ」
マルクスは宗教自然消滅論の立場で唯物論を論じた。レーニンは観念論に対抗して唯物論を論じてゐる。なぜ観念論が資本主義で唯物論が共産主義なのかまつたく理解できない。資本主義こそ唯物論である。
レーニンは科学万能を信じたのではないか。水は高いところから低いところに流れる。同じように資本主義は人間の意識が邪魔をしなければ自然に共産主義になると信じたのだらう。人間の意識こそ諸悪の根源である。さう信じたのだらう。しかし意識は脳髄の働きだと考へてしまふと人を殺すことも人と対立することも厭はなくなる。共産主義者に内紛が多いのも、反対する人を粛清で処理するのもこれが原因である。

マルクスが現代に役立つことは二つある。一つは資本主義への適切な批判であり、もう一つは労働者や農民のなかで既得権を得た人たちが資本側に寝返ることを防ぐことだ。なぜ既得権を得た人が寝返るかは私欲があるからで、いい方向に解釈すればそのためレーニンが観念論を嫌つたとも言へる。しかし唯物論を信じても私欲は出る。私欲に勝つ方法は伝統文化しかない。なぜなら長い歴史の中で平衡を保つたのだから。

八月四日(日)「マルクスとエンゲルスの絶対化」
今回の「唯物論と経験批判論」は河出書房新社の出版した「世界の大思想10 レーニン」を用いた。編注を除けば「唯物論と経験批判論」は9ページ目から始まつて281ページまである。このうち250ページから268ページまでを批判しようと考へた。しかし最後まで読んでみて、その必要はないと考へた。
第一版の序文には、半年の間に4冊の本が出版されたことが書かれてゐる。それらの本とレーニンの本のどちらが正しいかといふ論争は日本ではないからである。レーニンはマルクスやレーニンが書いたことは時代が変はつても正しく、少しでも異なると「哲学的修正主義」と批判する。
レーニンの時代にはレーニンの仲間たちが或るときはレーニンに賛成し或るときは反対した。そのため組織が分裂したことさへあつた。しかしレーニンが亡くなるとレーニンの言つたことはすべて正しいことになりかつての仲間は皆粛清された。スターリンがソ連をゆがめたのではなくレーニンのやり方をそのまま引き継げばさうなるのは必然だつた。
レーニンが居なければマルクスは社会主義の一派に過ぎなかつた。アナーキストと比べればマルクスは穏健派だつたことが幸徳秋水の著書などに見られる。マルクスと他の社会主義との違ひは、国際連帯するかだうかだけである。それは共産党宣言を読めばよく判る。それなのにロシア革命で共産党が政権を握つたためマルクスとエンゲルスは絶対の地位を占めた。

八月四日(日)その二「反デューリング論とゴータ綱領批判」
マルクスやエンゲルスは観念論をどのように見てゐるのか気になり、図書館に行きマルクス全集を二冊読んだ。たまたま手に取つたのは反デューリング論とゴータ綱領批判だつた。
読んで判つたことは、マルクスやエンゲルスも観念論といふ語は使用するがそれは宗教を信じることであり、レーニンのような使ひ方はしない。それよりレーニンの著作を読むと相違を許さず他人への皮肉な攻撃を繰り返す狭量さに対して、マルクスやエンゲルスの著作は読んで納得が行く。行かない部分があつても、もし本人たちが目の前にゐれば話し合つて解決できさうである。
この違ひは、マルクスやエンゲルスが社会主義者や国民が納得するやう書いたのに対して、レーニンはマルクスの信奉者たちに向つて書いた。丁度、日本の仏教各派の宗祖や教祖のいふことは納得できてもその三代後、四代後あたりになると議論の余地がなくなるのと同一である。
それ以外に、今回読んだマルクス全集は大内兵衛監修だから昭和四十年代である。四十年代後半から共産主義は人気が徐々に減少し翻訳者の日本語が低下した。高尚な日本語に訳せば読者は親しみを感じるし、偏狭な日本語に訳せば読者は反感を持つ。それも理由かも知れない。

八月五日(月)「読みにくい本ばかり読んではいけない」
レーニンの「唯物論と経験批判論」は極めて読みにくい。翻訳が悪いのか原文が悪いのかは不明である。このようなものばかり読むと本人の性格や考へ方にも悪影響を与へる。目的を持つて読むのはよい。漠然と読むと大変なことになる。レーニンの時代と今では世の中が大きく変はつた。ロシアと日本といふ違ひもある。レーニンを読まず国民の生活を読む。政治家にはその姿勢が大切である。(完)


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