四百七十、哲学「構造主義」


平成25年
八月十八日(日)「名著」
ナツメ社から図解雑学シリーズといふ一連の書籍が出版されてゐる。そのうちの「構造主義」は内容が濃い。しかも判りやすい。監修は小野功生氏。奥付を見ると国際基督教大学卒、カリフォルニア州立大学大学院修士卒。
ともすればこの経歴だとカタカナ語を多用した西洋かぶれの内容になりがちである。さう心配しながら最後まで読んだが、内容には賛成である。
本の表紙には載つてゐないが奥付に執筆者大城信哉氏とあり立教大学卒、学習院大学大学院前期課程修了で日本基督教学会、日本イギリス哲学会会員とある。あるいは大城氏の執筆がよいのかも知れない。最後まで読んだが公平な立場で書かれた名著である。

八月二十二日(木)「ぬか喜びに終つた四日前の感想」
この本から一年三ヶ月後に出版された図解雑学シリーズ「ポスト構造主義」といふ後編がある。この本は表紙に監修小野功生、著大城信哉とある。前回は十一章だつたが、今回は三部に分れ第一部は一章から三章まで、第二部は四章から七章まで、第三部は残りの十一章までと分かれてゐる。第一部と第二部は問題ない。
問題は第三部である。これはいつたい何だ。左翼崩れの主張そのものである。これほどの駄本が世の中にあるか。せつかく「構造主義」は名著だと誉め、「ポスト構造主義」も第二部までは何の問題もなかつたのに第三部で今までの内容をひつくり返した。まるで鳩山政権の後を継いだ菅政権と野田政権みたいな変説ぶりである。

八月二十四日(土)「構造主義とは」
構造主義は1962年にフランスの文化人類学者レヴィ・ストロースの「野生の思考」といふ著書をきつかけに大きな大きな論争を引き起こした。実存主義の哲学者サルトルが「歴史はつねに進歩していく」と考へるのに対してストロースは「それは西洋人の傲慢な考えにすぎない」と批判する。同感である。
そればかりではない。図解雑学シリーズ「構造主義」にはキリスト教、マルクスが何回も出てくる。キリスト教と関係の深い小野氏、大城氏が公平に近代西洋文明を批判するところにこの本の意義がある。

八月三十一日(土)「構造」
構造とは社会全体の考へ方を決める根底の仕組みのことである。或る社会の考へ方の枠組みと別の社会の考へ方の枠組みの共通点が構造である。ストロースは未開の人びとの社会を考察した。そして「自由で理性的で歴史とともに進歩する人間」を徹底的に批判したのが構造主義である。だから二十世紀の西洋の人々は構造主義の登場にシヨツクを受けた。第一章はさう記す。

九月一日(日)「構造主義登場の背景」
「どんな思想でも時代の子です。構造主義もその例にもれません」で始まる第二章は、二十世紀は第一次世界大戦以来革命と戦争の世紀で、かつてのように文明の進歩を謳歌するわけにいかなくなつた。
マルクス主義は進歩思考のひとつの典型で、構造主義に批判されたサルトル哲学は、実存主義とマルクス主義を合はせたものだつた。
進歩はしてゐないとしても個人の実存は本質に先立つ。つまり個人は自由で主体性を持つ。これが実存主義である。ソ連が非人間的な体制になつたのは、マルクス・レーニン主義は何でも法則どおりに進むと考へて個人の主体性を軽んじたからだ。西欧マルクス主義者はさう考へた。

九月七日(土)「第三章、近代哲学の発展」
中世までは人間も神に作られたから神のものだといふ考へが普通だつた。宗教改革以降神は人間にこの世のことを任せたといふ考へが強くなつた。十七世紀のジョン・ロックのころは人間はこの世界を良くしていく義務と権利があるといふ考へに高まつた。そしてつひに神を追い払つた。
カントは、これで正しい生き方をしろといふのは無理な話だと考へた。そして神や天国はあることにしようと考へた。これを要請といふ。フィヒテ、シェリング、ヘーゲルはこの点に不満を持つた。彼らはドイツ観念論と呼ばれる。この時代にフランス革命が起きた。ヘーゲルは歴史を動かす原動力は人間全体の理性だと考へた。理性の運動が弁証法である。
20世紀にサルトルが「弁証法的理性批判」を著した。ヘーゲル的な考へ(個人を超えた弁証法的な理性)とカント的な考へ(自らを吟味する人間理性)を併せ、これこそ理性で歴史を作つて行くとした。それをレヴィ・ストロースは「近代人の思ひあがり」と徹底的に批判した。

九月七日(土)その二「第四章、近代哲学の発展」
ヘーゲルの次の世代のフォイエルバッハは、ヘーゲル哲学を神学だと批判した。だんだんと人間を高めるよう神が配慮した歴史に従ふといふのだ。それに対してフォイエルバッハは全知全能の神とは人類のことだと主張した。
この考へを更に進めたのがマルクスである。フォイエルバッハは宗教を疑つても人間は疑はなかつた。マルクスは、個人を超えた人間とは社会関係のことで、社会が変化するにつれて人間性も変ると考へた。
この章の最後のコラムに、マルクスについて面白い記述がある。構造主義はサルトルへの批判として登場した。サルトルはマルクス的な実存主義である。しかしマルクスには構造主義を先取りしたところがあるといふのだ。マルクスの考へにはまだ解明されてゐない多くの可能性があるといふ。キリスト教と関係の深い小野、大城の両氏が構造主義で西洋文明を批判し、マルクスは評価する。ここがこの本の優れたところである。

九月七日(土)その三「第五章構造主義前史、第六章構造主義の展開」
レヴィ・ストロースは構造主義を考へるにあたり地質学、マルクス主義、精神分析の三つの影響を受けた。三つの共通点は表面から見えない深層に物事を決める鍵がある。マルクス主義では、人間の意識はその人の置かれた社会的立場によつて決まると考える。精神分析では無意識が人を動かすと云ふ。どちらも啓蒙主義を拒否した。
構造主義の、個人の意思ではだうにもならない深層が人間を動かすとする思想は、この時点で確立してゐた。歴史は進歩するといふことと、人間は主体的な存在であるといふ二つを否定するのが構造主義である。


九月七日(土)その三「第七章構造主義を超えて、第八章構造主義と同時代思想」
構造とは言語や文化である。さういつた人工物が人間の底に潜む力を制御できるのか。構造主義ブームが一段落すると、さういつた批判が出て来た。歴史の変化を考へると構造に収まりきれない何かがあるのでは。それがポスト構造主義だと第七章はいふ。デリダ、ドゥルーズなど六人を登場させるが構造主義を崩すものではなく、特に問題のある思想でもない。
第八章も同じで最初の14ページはプラグマティズム、ハイデガー、ウィトゲンシュタインを紹介し何ら問題はない。ところが次の4ページだけ突然偏向する。まづ「文化の束縛を逃れて(1)フェミニズムとジェンダー」といふ2ページで 歴史が進歩するという考えを批判した構造主義は、逆に古い文化を美化するところがあった。しかし文化は私たちを縛りつけるものでもあるのだ。
とする。今までの150ページの哲学解説と異なり極めて低級である。次の2ページの「文化の束縛を逃れて(2)カルチュラル・スタディーズ」も同じで、高級文化として「学問」「芸術」「宗教」を挙げ、低俗文化として「博打」「ケンカ」「ポルノ」を挙げ、よせばいいのに低俗文化として裸の男女が怪しげなことをする絵まで載せてゐる。これがキリスト教関係者のすることだらうか。
その後9章、10章、11章と続き208ぺージ中の4ページだから図解雑学シリーズ「ポスト構造主義」の第三部を読むまでは「構造主義」をまづ賞賛した。


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