二百五、マルクスを現代に生かすには(その一、不破哲三氏「マルクス未来社会論」)

平成二十三年
十月三日(月)「不破哲三氏の名著」
或る科学者の言つた事が百%正しいことはないし百%間違つてゐることもない。そのような観点からマルクスの言つた事は九十%くらいは正しいといふことを共産党宣言で示さうと思つた。その一環として不破哲三氏の「マルクス未来社会論」を読み始めたが、これは名著である。とは言へマルクスと同じく十%くらいは間違ひがあるので、まずそこを示して不破氏の名著を世に紹介しようと思ふ。

十月七日(金)「マルクスは未来に任せた」
共産主義の主張で合点の行かないことの一つに「社会主義の段階は労働に応じて分配され、共産主義では必要に応じて分配される」といふのがある。これだと社会主義の段階は資本主義と変はらない。
共産主義の段階で必要に応じてといつても人間の欲望には限りがない。必要量を受け取れば次は更にほしくなる。逆に最低限必要なものしか配給されなければ勤労意欲がなくなる。
そのときの国民の生活状態で配分方式は異なるし、生産状況でも異なる。だからマルクスは将来のことは言つてゐないといふのが不破氏の主張である。

十月九日(日)「科学の目」
不破氏は冒頭で「科学の目」といふ言ひ方をされた。マルクスの時代は科学と非科学が混在の時代だから、科学と言へば新しい印象を与へた。しかし今は「科学」と言つて飛びつく人はあまりゐない。そればかりかあまり「科学」といふと、実は非科学的なのではないかと逆に疑ふようになる。科学は控へめにするほうがよい。と同時にマルクスにも間違ひはあることを認めるべきだ。時代の差で今に合わなくなつたこともある。当時の状況で判断を誤つたものもある。マルクスも誤ると認めることこそ科学的態度である。

十月十一日(火)「レーニンとゴータ綱領批判」
レーニンと「ゴータ綱領批判」のかかわりを見てゆくと、レーニンでも大事なところを読み過ごしたり早呑み込みしたりすることがある、ということが、よく分かります。
不破氏はこう述べる。「ゴータ綱領批判」とはマルクスが手紙でドイツ労働者党の新綱領を批判したもので、それを読んだレーニンでも解釈を間違へるといふことを不破氏は言つてゐる。といふことはレーニンはほとんどは正しいし、マルクスは絶対に正しいことになる。マルクスが百%正しいことはないし、百%間違つてゐることもない。私と不破氏の違ひはここにある。

十月十二日(水)「前史から本史に移れるか」
「この社会構成をもって人類社会の前史は、終わりを告げる」(中略)。人間の祖先が、チンパンジーと道を分かったのは、いまから数百万年前のことでした。それ以来のすべての過程が、人類の「前史」を形づくりますが、(中略)社会主義・共産主義の社会は、実現したら、それは、人類が「前史」を卒業して、「本史」に足を踏み入れることを意味します。
不破氏にそう言はれると、そのような世の中を見てみたいと私も一瞬は思ふ。しかし本史は不確実だらけである。今までの仕組みを改良するなら失敗は少ない。まつたく新しいものを作れば、スターリンの独裁や毛沢東の文化大革命のように失敗する確率が高い。

十月十五日(土)「改良主義はどこが悪いか」
「まだ世界中でどこも実現してゐないが将来はバラ色です」と言はれても誰もが不安に感じる。共産党に投票しようとはなかなか思はない。
現在の世の中を少しづつ改革すべきだ。それでは改良主義ではないかと思ふだらうが、改良主義の悪いところは改良の途中で既得権を得た連中が守旧派に回ることだ。
それを防ぐためにマルクスやエンゲルスの著作は今でも十分に役立つ。

十月十六日(日)「選挙制度」
選挙制度がどのようになるかについて不破氏はマルクスの「バクーニンの著書『国家制と無政府』摘要」を引用し次のように述べる。
選挙の性格は(中略)選挙人相互の経済的関連にかかっている。これらの機能が政治的であることをやめるやいなや、(一)統治機能は存在せず、(二)一般的機能の分担はなんらの支配をも生じない実務上の問題となり、(三)選挙は今日のような政治的性格をまったく失う
実際にはソ連も中国もカンボジアも北朝鮮もここに達しなかつた。 マルクスは将来の国家死滅を予想したが、これは戦争や搾取機関としての国家が死滅するといふ意味で、管理機関がなくなり人類は好き勝手なことをしてよいといふ意味ではない。不破氏は次のように述べる。
マルクスは、過渡期を経て、階級闘争や階級的抑圧の必要がなくなれば(中略)政治的統治の諸機関が政治的性格をもたない管理諸機関に変わってゆく国家死滅の過程がすぐ始まることを想定して、その過程を論じています。
薩長政権は自分たちを正当化するために天皇を中心に持つてきた。だから日本に於いては直ちに国家死滅を論じてはいけない。まづ明治政府は薩長幕府であり天皇を征夷大将軍に格下げするものである。幕府機能は階級的抑圧が消滅の後は諸機関に変はり、天皇様は国民と共に永久に存在する。このように言へばよかつた。
このように言つても薩長幕府は自分たちの利権がなくなるから怒るだらう。しかし国民は共産党を支持するから弾圧はできなかつた。

十月十七日(月)「労働者は祖国をもたない、の正しい意味」
共産党宣言の第二章の冒頭で、国籍に左右されない全ての労働者共通の利益を追い求めることが書かれてゐる。これは当然である。 しかしこの前の段階の、企業に左右されない労働者共通の利益を求めることさへ日本ではできてゐない。
国籍に左右されないとは、世界が一つに統合されることではない。しばしば悪意を持つて切り文で引用されるのが「労働者は祖国をもたない」である。大月書店の文書を次に引用しよう。 「共産主義者はさらに、祖国を、民族性を廃止しようとのぞんでいるものとして、非難されている。
労働者は祖国をもたない。彼らがもたないものを、それからとりあげることはできない。プロレタリアートは、まずもって政治支配をかちとって、民族的階級にみずからをたかめ、自分自身を民族として組織しなければならないという点では、ブルジョアジーの意味とはまったくちがうとはいえ、プロレタリアート自身やはり民族的である。」

つまりブルジヨアジーが祖国を支配してゐるから祖国を持たないと表現したのだ。
このあと、ブルジヨアジーの発展が国家間の分離と対立を消滅させつつあることが書かれてゐるが、これは戦争と経済を述べたもので文化統合ではない。

十月十八日(火)「今井伸英氏の『私達の共産党宣言』」
念のため長年日本共産党で労働学校講師をされ、衆議院旧東京三区から二回立候補したこともある今井伸英氏の『私達の共産党宣言ー「宣言」の全文を解説』を見てみよう。
「共産主義者に対して、祖国を、国民性(国と国民性)を廃棄しようとする。
労働者は祖国をもたない。かれらのもっていない(かちとっていない)ものを、かれらから奪うことはできない。プロレタリア階級は、まずはじめに政治的支配を獲得し、国民的階級にまでのぼり(国民的指導階級にみずからを高め)、みずから国民とならねばならないのであるから、決してブルジョア階級の意味においてではないが、かれら自身なお国民的である。」
「労働者は祖国をもたない」という言葉はしばしば誤解されてきました。(以下略)


十月十九日(水)「外国軍を長期に駐留させてはいけない」
不破氏と井上ひさし氏の共著「新日本共産党宣言」を見てみよう。不破氏は次のように述べてゐる。
・日米安保条約というのは、日本外交をアメリカ追従の立場にしばりつける、世界でも本当に異常な軍事同盟なのです。
・NATO(北大西洋条約機構)に加盟しているヨーロッパ諸国の多くにも、米軍基地はありますが、(中略)外敵からヨーロッパ諸国を共同防衛することを、第一の主要な任務にしています。
・では、日本にある米軍基地はどうでしょうか。(中略)米軍は、日本の防衛に役立つ部隊は日本に置いていないし、在日米軍は、ペンタゴン(アメリカ国防総省)から、日本防衛の任務を与えられていません。

このあとアメリカの同盟国で海外出撃専門の部隊に基地を貸す国は日本以外にないことを、アメリカの海兵隊の三つの師団のうち海外に配備されてゐるのは沖縄の第三海兵師団だけなことや、海外出撃専門の空母十二隻のうち母港が海外なのは横須賀の一隻だけなことを例示し述べてゐる。

十月二二日(土)「財政から見た日本駐留」
日本の思ひやり予算についても次のように述べてゐる。
一九九五年十月、アメリカ下院の小委員会でのことですが、ある議員が、「財政が苦しいのだから、日本の基地は撤収して、負担を軽減してはどうか」と質問しました。
それにたいして、ロードという国務次官補が答弁に立ちましたが、(中略)「日本は、アメリカ軍の駐留経費のほぼ七〇パーセントを負担している。こんなに多くの財政支援をおこなっている同盟国はほかにはない。」実際、それは、他のすべての同盟国が提供している支援の総合計よりも多い。だから、アメリカ軍を日本に置いておくほうが、アメリカ国内に戻すより安上がりですむわけだ。



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