三千百八十九(うた)二度目の岩井秀一郎「多田駿 伝 「日中平和を模索し続けた陸軍大将の無念」」
丙午(西洋地球破壊人歴2026)年
四月二十三日(木)
岩井秀一郎「多田駿 伝 「日中平和を模索し続けた陸軍大将の無念」」は前に特集を組んだが、短編物語(永禅和尚と石原莞爾、良寛和尚渡航と漢詩を語る)を作るときにこの書籍が検索に掛かり、うっかり予約を入れてしまった。すぐに気付いたが、取り消すことはせず、再度借りることにした。プロローグには
『将官辞典』は、多田の軍歴について次のように述べている。
<日華事変中に参謀次長となり、和平を求めて石原莞爾とともに不拡大の方針を貫いたが、政府側の強行論に屈して泥沼の戦闘が続いた。
そして『将官辞典』は、予備役になったことを書いたあと、次の記述で終了する。
<ある意味で大局から判断できる惜しい人材を陸軍は失ったといえよう。>
序章に入り、ここは参謀次長としての多田の政府大本営連絡会議での活躍である。小島襄(のぼる)『天皇Ⅲ 二・二六事件』からの引用が多い。内容は堀場一雄『支那事変戦争指導史』と
ほぼ一緒だが、児島作品のほうがより詳細で(中略)あるいは児島は、執筆当時なお存命中だった関係者の証言なども参考にしたのかもしれない。
物語り とかく多きは根拠無き作り話も西洋の悪弊により小説と名乗るが故に使はずに 小島襄は徴兵の前に終戦その時代生きた人たち取材して公平な眼で見ることの出来る作家は貴重な人に
反歌
敗戦の時に十八反日になる少し前貴重な世代
第二章では、武藤章の拡大派ぶりが目立つ。NHKスペシャルのドラマが、武藤と東条英機を美化したが、驚く。
参謀本部前で取材を受けた多田の発言が新聞に載り
可哀想なのは支那の民衆だ。支那軍と来たら後方部隊というものがないから、行った先々で糧食はおろか寒くなれば衣類まで徴発する。それがまるで強奪だ。
日本は、戦後に蒋介石を美化し過ぎる。さて、海軍大臣の米内について
戦後は「戦争に反対し、大勢に抗った軍人」という評価で(中略)山本五十六に次ぐ評価を得ている
ところが、そのはるか前に
中国軍によって上海にあった第三艦隊の「出雲」や総領事館などが爆撃されると、米内の態度は一変する。(中略)米内の中国観は(中略)「中国蔑視」の上に成り立つものといえた。
米内が戦争に反対したのは、アメリカが相手のときだった。さて
不拡大派の中心になったのが第20班だった(戦争指導班。戦争指導課は作戦課と合併して班に変更)。(中略)なかでも堀場少佐は最も強硬な和平論者で(中略)同じく戦争指導班で、昭和天皇の弟宮であった秩父宮雍仁親王(括弧内略)も非常に熱心な和平論者だった。
紆余曲折を経て、御前会議が開かれた。
参謀総長、軍令部総長、枢密院議長各自による陳述が行なわれた。
堀場は陳述について
<以上により、陸軍の大乗理念、海軍の便乗主義。その他の権益主義(括弧内略)明瞭なり>
と皮肉っている(『指導史』)。堀場には、陸軍がこの事変について(中略)将来の日中提携にまで言及しているのに対し、海軍は(中略)海軍自身の見通しを持っていない、と映ったのだろう。
しかし
最終的に御前会議で決定された政府案(中略)は、中国側の政権転覆も含め強硬な内容となっている。
その前段階として
昭和天皇は日中関係の悪化を心配し(中略)参謀本部の不拡大派に近い考えを持っていた。しかし、陸軍に対する根強い不信感と、近衛首相に対する信認が問題を複雑にしてしまう。
(中略)御前会議の前日、閑院宮参謀総長は、昭和天皇にこの会議で参謀本部を支援する発言を求めた。しかし、湯浅内大臣は、昭和天皇に対し、西園寺の意向は、「(前略)おつしやつてはならん」ということだと説明し、近衛首相も「たゞ黙つて御臨席の程度で願ひたい」と要請し(中略)政府案が承認された。
負け戦工業力と資源力膨大な差が原因に 商工相の岸及び首相陸相東條の敗戦責任極めて重し
反歌
負け戦日華事変に始まるは武藤章の責任重し
これで、第二章が終はる。(終)
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